2009年5月2日土曜日

日光東照宮宝物館

 ゴールデンウィーク第一弾は『日光東照宮』へ。

 GWを利用して遠出することにしたが、ETCを装備していないのでその恩恵を受けられず、東北、北関東圏から目的地を選ぶことにする。色々考えて、今回は日光に決める。目的地は『日光東照宮』で、お目当ては『日光東照宮宝物館』。家康公の愛刀や、奉納された刀剣が沢山あることだろう。楽しみである。

 皆、高速道路を利用しているのか、一般道はそれほど混雑しておらず、あまりストレスを受けずに日光入りできた。東照宮に着くまで少々迷ったり、駐車場までの長い列と急な坂道は大変だったが、どうにか東照宮へ到着することが出来た。


 適当に敷地内を見て廻り、『日光東照宮宝物館』へ。


 ・太刀 兼常  68.0 1.8
 ・短刀 越前康継  36.9 0.5
 ・太刀 肥前國住人忠吉作
 ・大太刀 捧伊賀守藤原金道(裏)寛永三年十一月吉日  79.5 1.4
 ・脇指 備前國住長船勝光宗光備中於草壁作(裏)文明十九年二月吉日  附)小さ刀拵
 ・大太刀 奉献上御太刀康継以南蛮鉄江戸作之(裏)寛文三癸卯年四月十七日三代目下坂  100.9
 ・太刀 和泉大掾藤原國輝 附糸巻太刀拵  70.2 2.0
 ・太刀 家次 附糸巻太刀拵  72.9 2.6
 ・長刀 備州長船景光  57.6
 ・短刀 無銘(伝行光)  26 附)合口拵
 ・太刀 守高  58.5 2.1


 一番感激したのは、何といっても初代忠吉を初めて見られたことだ。忠吉といえば『五字忠吉』が珍重されているが、展示されているのは俗に『住人忠吉』というそうだ。『肥前刀大鑑 忠吉編』には次の様にある。「慶長十八年八月から元和元年にかけて「肥前国住人忠吉作」と銘を切ったものがあるが、この場合必ず上記の如く「作」の字を入 れて八字銘に切っていることに注目したく、「作」の字のないものは四代銘か偽銘である。」


 館内の説明文によると、文化九年(1812)大晦日の夜に別所大楽院が火災が起り、宝蔵(銅神庫)にまで延焼したため、家康遺愛の品々のほとんどが焼損してしまった。その中には助平、包平、正恒、友成、助真、国宗、長光、了戒など在銘の名刀が含まれていた。なんとも残念な話だ…。その内、十五振りは 現代の刀匠により立派に再刃復元され、常時宝物館に展示されているそうだ。もし火事で焼けてしまう前の、健全だった姿を写し取った押型があるのなら、それ も一緒に展示してもらいたいものだ。

 徳川家ではその他にも火災により、名刀を焼失する災難に遭っている。川口陟の『日本刀剣全史7(江戸時代2)』に二件の事例が紹介されている。

 「慶長十二年十二月二十二日丑時(午前二時)駿府城が失火した。折から家康は心地例ならず打伏していたが、中山雅楽助信吉に助けられて事なきをえた。つ ねづね次の室においてあった刀箱二個の中、一個には三十四本の刀が入れてあったが無事に取出し、他の一個は七十二本入れてあったために重くて取り出すこと ができず、箱を打ち破って刀はみな池の中へ投げ入れたので焼失を免れたが、座右におかれた宝物は一として烏有たらざるはなかった。豊臣秀吉から贈られた白 雲の茶壺真壺、正宗の脇差、三原の脇差、獅子の笛なども焼失した。(略)明暦三年正月十八日および十九日の江戸の大火は、江戸城本丸、二の丸残らず炎上、 江戸城にあった太刀刀類千五十一腰が焼失した。いま『桜嶽斉雑妙』なる随筆によればその焼失の主なものは左のとおりである。
 ・一、無銘藤四郎(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、豊後藤四郎 一、新身藤四郎 一、シノギ藤四郎 一、飯塚藤四郎 一、庖丁藤四郎 一、米沢藤四郎 一、樋口藤四郎
 右ノ外御脇差三百枚計ノ吉光数多
  一、三吉正宗(寛明間記に三好正宗) 一、八幡正宗 一、長銘正宗 一、対馬正宗 一、横雲正宗 一、道合正宗(十河正宗の誤か) 一、シノ木宗近 (刀剣名物帳焼失の部になし) 一、小脇差行平 一、青木國次 一、三斎國次 一、不動國平(不動國行の誤か) 一、骨ハミ吉光 一、大シヤ國吉(大子屋 國吉) 一、村雲当麻(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、岐阜國次(岐阜國吉か) 一、三吉江(三好江) 一、西タカ江 一、上杉江 一、上野江 一、紀 州江 一、伏見正宗 一、蜂屋江
 此外正宗の刀数多
 右馬頭様(甲府綱重)の御道具
 一、上野紀新太夫 一、吉光の一振(一期一振のことか) 一、の法國綱 一、秋田行平 一、しめ丸行平
 此外千貫計の行平数多、百枚二百枚の御道具数多、三十腰計入箱二十計の内五箱出る、十五箱は御本丸にて焼失す」

 以上、徳川家の蒙った刀剣焼失の事例を二つ挙げたが、明暦の大火に加え、本能寺の変、大阪城落城などで焼失や行方知れずになった名物の刀剣が、いわゆる『享保名物牒(公儀本)』の中に『古来之名物焼失之部』としてまとめられている。

 『骨喰藤四郎、一期一振藤四郎、大阪新身藤四郎、江戸新身藤四郎、長岡藤四郎吉光、塩河藤四郎、親子藤四郎、庖丁藤四郎、車屋藤四郎、豊後藤四郎、樋口 藤四郎、大森藤四郎、米沢藤四郎、凌藤四郎、鯰尾藤四郎、薬研通藤四郎、足利飯塚藤四郎、大阪長銘正宗、江戸長銘正宗、八幡正宗、横雲正宗、大内正宗、弐 筋樋正宗、黒田正宗、対馬正宗、紀伊国片桐正宗、江雪正宗、秋田石井正宗、石野正宗、笹作正宗、蒲生正宗、上リ下リ竜正宗、若江十河正宗、伏見正宗、三好 江、上杉江、桝屋江、上野江、肥後熊本紀伊江、蜂屋江、大江、常陸江、甲斐江、三好江、西方江、切刃貞宗、獅子貞宗、安宅貞宗、海老名貞宗、小尻通新藤五 国光、安宅志津、善鬼国綱、大国綱、村雲久国、岐阜国吉、太子屋国吉、大国吉、ヌケ国吉、義元左文字、伊勢左文字、北野紀新太夫行平、秋田行平、注連丸行 平、地蔵行平、本多行平、御髪行平、不動国行、小国行、秋田国行、青木来国次、三斎来国次、戸川来国次、秋田則重、増田則重、実休光忠、青屋長光、縄切筑 紫正宗』

 江戸時代、『吉光』、『正宗』、『郷』を『三作』と称していて、公儀本に記載されている二三四振の内、吉光が二十三振、正宗五十六振、郷義弘が二十二振 とその持て栄しぶりがよくわかる。しかし、中には名物と呼ぶには相応しくないものが、少なからず混じっているようである。また、公儀本は享保四年当時のもので、調べ方が稚拙だったためか『焼失之部』に記載のうち幾振かは現存するそうだ。例えば、『不動国行』と『一期一振藤四郎』が『日本名刀100選』で紹介されている。
 信長の愛刀だった『不動国行』は本能寺の変の際、安土城にあり、これを明智左馬介が分捕った。しかし坂本城が落城するとき、『二字国俊』の刀、『薬研藤 四郎』の小脇差、その他茶入れや釜などの名品と一緒に肩衣に包み、天守から投げ下ろして堀久太郎に託し、自らは自害したという。こうして秀俊の英断により、せっかく国行の太刀は焼失の愁いを逃れたのだが、上出『明暦の大火』で焼けてしまったというのだ。せめてもの救いは信国重包によって再刃され、未だ現 存するといことだ。
 今一つ、短刀の上手な吉光の唯一の太刀と云っていい、『一期一振藤四郎』は大阪落城で焼けてしまった。これも焼失は免れ康継が再刃したが、『光徳絵図』にある焼ける前と比べると、殆ど別物の様だという。秀吉が約23センチも刷上げてしまったというのも、少々残念だ。

 その他、関東大震災や世界大戦で失われた刀剣も数多いことだろう。そのことを思うと胸が痛くなる。


 『二荒山神社宝物館』にも是非寄りたかったのだが、時間の都合で今回は断念。

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