2009年2月15日日曜日

鹿島神宮

 今回は思い切って『鹿島神宮』へ行ってみることに。

 土曜の夕方、父に「明日、朝の6時半までに仙台駅へ送って欲しい」と頼まれる。そういえば、両親が東京へ出かけると云ってたっけ。起きられるか自信が無かったが、早起きすれば遠出が出来るし、父の車を借りればナビが使える。早速、何所へ行こうか幾つか候補を考え、その中から『日光東照宮』と迷ったあげく、『鹿島神宮』へ出かけることに決めた。『鹿島神宮宝物館』 には20口近くの刀剣が常設展示されているらしく、加えて武術の聖地に行ってみたいと思う気持ちが決め手だった。
 時間はかかるが、金がかからない下の道を行くことにし、ネットでルートを検索する。すると距離が290㎞、時間にして7時間超。一瞬たじろいでしまい、日光か山形に変更しようかとも考えたが、太平洋側を直走る簡単そうな道のりだったので肚を決める。

 そして今朝、両親を駅に送り届け、朝食を取りに一度帰宅する。その間考えたのだが、「慣れている自分の車が良いのでは」と思い立ち、結局ナビに頼ることは出来なくなった。食事の後、急いで大まかなルートを頭に入れ、いざ出発。
 先ず、国道4号線(仙台バイパス→奥州街道→岩沼バイパス)→6号線(陸前浜街道)をひたすら南下。朝早いので交通量は少ないが、殆ど一車線なので、遅い車が一台でもあるとスピードが出ない。単調な景色が暫く続いたが、福島に入ってから海が見えるようになり、途中海岸沿いの鳥居良い気分転換になった。
 中弛みの感が出てきた頃、いよいよ茨城に突入。水戸で51号線に乗らなければならないので、気を引き締める。気がつけば知らない地名、車は茨城ナンバー ばかりが目につく。ああ、他所に来たという実感が湧いてくる。『御先祖様万々歳!』を連想してしまう、海水浴場で有名な大洗を通り、漸く鹿島市内に入る。 あとちょっとだと安心していたところ、暴走族の集団と遭遇。十数台のグループと4~5回擦れ違う。東北ではこれだけの数をそれも昼間に見かけることは殆ど 全く無いのでドキドキしてしまった。やがて『鹿島サッカースタジアム』の横をを通り過ぎ、『鹿島神宮』への案内が目立ってくる。そして程なく到着。朝7時に出発し、着いたのは午後1時。


 昼食のことは頭に無く、早速本殿へお参りを済ませ、宝物館へ。

・直刀 金銅黒漆塗平文拵 (附)刀唐櫃 一合
・太刀 藤一貫齋政丞作(現代)
・脇指 長谷部國重
・刀 加州住田向藤原翥武(とびたけ) 嘉永五年八日吉日
・現代刀 堀井胤次作
・刀 武州下原住廣重 奉納廣重
・刀 筑前住源信國吉貞
・刀 肥前國住近江大掾藤原忠吉
・脇指 備州長船則光
・薙刀 無銘(富上家奉納)
・短刀 常州住綱吉作
・脇指 伊賀守藤原金道
・刀 総州佐倉士細川忠義
・現代刀 納鈴木家重代 渡辺繁平作
・刀 菊紋 信濃守藤原信吉
・脇指 渡辺繁平(現代)
・刀 大和守安定
・脇指 祐定作
・脇指 但馬守田原住藤原國重
・太刀 景安(初代水戸藩主徳川頼房公奉納)
・刀 金象嵌銘國俊
・直刀 常陸國岩間住 岡島正忠(現代)
・刀 無銘(伝了戒)
・太刀(小烏丸造) 荘司美濃介直胤
・刀 荘司次郎太郎藤原直勝精練
・太刀(飾太刀) 奉納 鹿島神宮御宝前

 一番の目玉は『金銅黒漆塗平文太刀』で、『韴霊剣』とも呼ばれ、俗に『直刀』とも。国宝の登録名称は『直刀・大刀拵』。何と全長が2.25㎝(七尺三寸 八分)もあり、拵を合わせると2.71㎝(八尺九寸四分)にもなる巨大な直刀。『刀身・拵・刀唐櫃』の三点セットでの国宝指定だそうである。刀身は切刃造 で角棟、鍛えは小板目。刃文は直刃、小湾たれごころに乱れる。『古代刀と鉄の科学(石井昌国・佐々木稔)』によると、「きわめて長大であるため、三折に緞 着されているといい、その接着部の上下には小疵が遺る。研師の小野光敬氏は、緞接された地鉄はおのおの相違するという。地肌は板目肌のようであるが、白研 ぎのため、その肌目はよく見えない。やはり拭い清めることが必要である。刃文は、七尺余りの大太刀にみごとな直刃があると示されているが、実はそうではな く、無焼刃である。この直刃は、研師が作った直刃である。したがって、現在はほとんど見えない。」とある。
 展示作中、最も好みだったのは『肥前國住近江大掾藤原忠吉』だった。『初代忠吉』でも『初、二代忠廣』でもないのだが、肥前刀を見たのは初めてだった し、姿が素晴しかった。四代忠吉は19の時、父である『三大忠吉』を亡くしその跡を継ぐ。父からも緞刀について学んでいただろうが、父の没後は祖父である 『二代忠廣』に教えを受けたそうで、その影響はかなり強いものと思われる。多分代打を任されたこともあっただろう。私は世間で評価の高い三代より二代の方 が好みなのだが、四代が父である三代から薫陶を受けていたら、作柄は違ったものになったであろうか。残念ながら、長命の割に四代の現存刀は数が少ないそう である。そういえば、私の他に父と息子の二人連れがいたのだが、父親の方が『肥前國住近江大掾藤原忠吉』をすっかり気に入ったようで、頻りに刀身の姿形を 褒めていた。その口ぶりから、あまり刀剣に詳しくないようだったが、「お父さん、趣味が合いますね」と心の中で思ってしまった。そのお父さんのセンスがい いのか、刀剣に関わりのない人々まで魅了する四代忠吉が素晴しいのか。

 その他、
・香木 沈香(ラオス産)
・悪路王の首と首桶
・鎧、胴丸、兜
・常陸国風土記
 などが展示されていた。香木は見事な大きさだが、温めないと香りが楽しめないので、ガラス越しではただの『木っ端』にしか見えない…。
 『悪路王の首』と『首桶』は本物を見られると思っていなかったので嬉しかった。『悪路王の首』は田村麻呂の口伝をもとに復元したものを、1664年に奥州の藤原満清が鹿島神宮に奉納したと伝わっているそうだ。もちろん写実的では無いし、幾分ディフォルメされている感があるが、実際見る者はそんな印象を受けたのかもしれない。
 胴丸は初代明珍家作で、在銘『大永六年丙戌八月吉日花押』。


 宝物館を出た後、『鹿園』、『奥宮』、『要石』、『御手洗池』などを見てまわる。境内は広く緑豊かで、聖域を散策しているせいか、何だか心身に良い効果 をもたらされるような気がしてくる。一通り見て歩くと時は既に3時半を過ぎていた。帰りの時間を考え、神社をあとにする。


 もうすぐ福島を抜けるという頃、ガソリンのエンプティ・ランプがオレンジ色に点滅しだした。どこかで給油しようと思いながらもチャンスが無く、結局給油 せずに家に辿り着いた。朝満タンだったのが、帰宅したときはランプが赤く点滅しており、ガス欠寸前。走行距離は約640㎞。長距離だからこれだけ燃費良く走られたようだ。

 結局、家に着いたのは10時半過ぎだった。ほとほと疲れていたが、遅い夕食を取り、旅の余韻に浸ることも出来ずに就寝。

 今回は塚原卜伝や新當流に因んだ場所を巡ることが出来なかったが、次回は是非訪れてみたいと思う。

2009年2月8日日曜日

舞草神社探訪 其之一

 本日は『儛草神社』の場所を確認しに行ってみることに。

 正午前に目が覚め、起き抜けに昼食を取る。
 何処かに行きたいけれど、時間が半端で遠出は出来ない。移動距離が片道三時間を越えてしまうと、見学のための時間が十分にとれない。そんな中、思いつい たのが『儛草神社』の場所を確認することだった。一関を訪れる度に「早く舞草神社へ行かねば」と思うのだが、一度も果たせずにいた。いつも『一関市博物館』の見学だけで、あっという間に帰りの時間になってしまうからだ。同じ理由で『平泉』にも行けないでいる。一関までだったら片道約二時間半なので、午後1時に出発すれば、3時半頃に到着できる。帰りの時間を逆算して、四時半頃まで神社の探索ができる。早々に神社を見つけられれば参拝や散策も出来そうだ。 実際はそう上手くいかないものだが…。

 早速、場所を確認して手書きの簡単な地図を作る。市内中心部は目印になるものが豊富だが、郡部はそれらが少ない。本当は神社のある観音山周辺こそ詳細に書かなければならないのだが、あまり時間に余裕が無いこともあり、神社周辺は『鍛冶伝承地周辺図』を参考にすることにした。 

 いつものように4号線を北上し、予定通り三時台に一関入りすることができた。博物館に行きたいところだが、グッと堪えて一関署の前で右折し、厳美渓とは 逆の東へ向かう。しばらくは手書きの地図を見ながら、信号と橋の数を頼りに進む。途中までは良かったのだが、北上川を越えた途端、急に迷いだしてしまった。ただでさ初めての道なのに、目印が少なく、加えて一面の雪景色のせいで、自分が何所を走っているのかよくわからない。しばらく走っていれば、そのうち神社か案内を見つけるのではないかと軽い気持ちでいたが、そう上手くはいかなかった。そんな調子で30分以上迷走していたが、雪かきしている男性を見つけ、道を尋ねることにした。そのお父さんが云うには、ここの先にバス停があり、そこを左に曲り、しばらく行った所にあるという。ただ、今日は雪が積もっているため、神社までは辿り着けないだろうと忠告された。私も始めからそのつもりだったので、「今日は場所を確認に来ただけなんです」と忠告に従うことを告げ、お礼を述べて車に乗り込んだ。
 一先ず教わったバス停を目指したが、目印が雪に埋もれて判然としない。どうやら通り過ぎたらしくまた引き返すハメになった。つもった雪がここまで邪魔するとは。戻る途中、石柱の立ったそれらしい丁字路を見つけた。それが何と標されているか確認もせず、取り敢えずその道を進んだ。半ば自棄になっていた。
 辺に注意を向けながらしばらく進むと、神社への入り口を示す『儛草神社東参道』の標示板を見つけることができた。その時の嬉しさと安堵感といったら…。


一関市教育委員会による『舞草鍛冶』の解説。今回、神社探索の参考にした『鍛冶伝承地周辺図』が横に載せられている。
 この上に神社があると思うとえも言われぬ気持ちになってくるが、先程のお父さんの言葉を思い出し、今回は諦めて大人しく帰ることにした。山道でスタックしては大変である。
 散々迷ったせいで、時刻は4時半を回っていた。今日は本当に神社の場所を確認して終わってしまった。もし雪が無くて上まで登られたとしても、夕暮れの中、短時間しか参拝することができなかっただろう。

 帰りは意外とすんなり4号線に乗ることができた。道すがら、当然のように奥州鍛冶への思いを馳せていた。

 ところで、道州制が導入されたら、東北地方は何州になるのだろう。やはり東北州なのだろうか?それではつまらないから、『奥州』の方が良いような気がする。「奥州仙台住」。うん、好い響きだ。しかし、岩手には奥州市がある…。田中義一内閣の時代(1927年)、全国を6つの州に分ける「州庁設置案」というのがあったそうで、その案の中で東北は『仙台州』だったそうだ。