2014年2月22日土曜日

妖怪根付【三】〜立体図百鬼夜行〜

海洋堂から発売されている『妖怪根付』というストラップのガチャガチャを見つける。

 先日、ヨドバシカメラ二階、オモチャ売り場エリアのカプセルトイコーナーを何気なく見ていたら、海洋堂の販売機(海洋堂カプセルQミュージアム)の中に『妖怪根付』というガチャガチャがあるのが目に止まった。妖怪フィギュアのストラップなのだが、見本の画像を見る限りかなり出来が良さそうだ。『ぬらりひょん』のアップの下に数種類の妖怪が並び、それぞれ茶色と色付きの各二種が用意されているようだ。よく見ると『妖怪根付』の横に「竹谷工房謹製」と銘打たれている。竹谷とは『竹谷隆之』のことで間違いないだろうが、それならフィギュアの出来の良さも頷ける。これで一気に購買意欲を擽られたが、『工房』という文字が少々引っ掛かる。よく『竹谷監修』、『竹谷総指揮』というシリーズがあるが、あれは竹谷本人が全て造形しているのではなく、竹谷の元で他の造型師が原型を担当しているのだ。もちろん何れも下手な物は竹谷の名を冠してリリースすることはないだろうが、純然たる竹谷原型品を欲する場合、厳密には別物と言わざるを得ない。それでも兜をかぶった髑髏の出来が特に良く心惹かれる。これなら竹谷以外の造型師の作品でも構わないと思わせる出来だ。しかし、衝動買いを躊躇させる要因がもう一つのある。一回300円という価格だ。見本から伺えるクオリティからも、300円分の価値が十分あるのはわかる。しかし、欲しい物が必ず当たるとは限らないというのがネックだ。商品自体に価値は見出せるが、ガチャガチャの商品がランダムに出てくるというシステムが購入を躊躇わせるのだ。それにしてもガチャガチャといえば昔は百円玉一枚でできたものだが、物価の上昇のせいもあるだろうが昔の三倍の価格とは驚きである。


 どうしようか迷ったが、いつも迷ったときは見合わせると決めているので、その日は購入を控えることにした。販売機を横から見てみるとカプセルはほぼ満杯で、まだ焦る必要はないようだ。

 帰宅してから『妖怪根付』についてネットで検索してみると、ヨドバシで見てきたのは『妖怪根付』シリーズの第三弾で、二月二十日に発売したばかりの新商品だそうだ。やはり竹谷は『竹谷隆之』のことで、『リボルテック山口』で有名な『山口隆』の二人で原型総指揮を執っており、嬉しいことに本人達も原型制作を担当しているそうだ。さらには気になっていた『古戦場火』は、なんと竹谷が原型制作だという。骨好きだと自身が語っているのを読んだことがあるので、もしやとは思ったのだがこれで益々欲しくなってしまった。因みに第三弾はお気に入りの『古戦場火(こせんじょうのひ)』の他、『河童』、『姑獲鳥(うぶめ)』、『ぬらりひょん』、『土蜘蛛』の全五種。更にそれぞれ『フル彩色』と『木彫風彩色』の二パターンがあって、前者の方がレアリティが高いそうだ。シークレットの類がないので有り難い。第一希望はもちろん『古戦場火』で、第二は『土蜘蛛』、第三は『河童』といったところか。逆に『姑獲鳥』は全く欲しくない…。因みに第一弾は『鬼太郎百鬼抄』と題したお馴染みの水木キャラの特集で、『鬼太郎』、『一つ目小僧と傘化け』、『がしゃどくろ』、『さがり』、『百目』、『目玉おやじ』と、石燕とは無関係なものばかり。第二弾『立体図百鬼夜行』から、鳥山石燕の画集に収められた妖怪の立体化がスタートした模様。『天狗』、『鬼』、『道成寺鐘』、『目競』、『松明丸』といったラインナップ。この弾から第三弾以前が手に入るか不明だが、機会があったら探してみよう。


 そして本日、意を決して『妖怪根付』を手に入れるべく、ヨドバシ2Fカプセルトイコーナーへ。最近、甥がハマってる『妖怪ウォッチ』の筐体に親子連れが列を作っている。それを横目に、目当ての『妖怪根付』の販売機の前へ。
三百円を入れ、ハンドルを回す。緑色のカプセルが出てきた。何が入っているのだろう…。どうしても我慢できずその場で開封。何と!一発目で『古戦場火』を当てたのだ!しかし、惜しむらくは『フル彩色』ではなく『木彫風彩色』であったことだ。今日は中々引きが良さそうなので、欲が出てあと二回挑戦することにした。今すぐ開けたい気持ちをグッと堪えて、帰宅の途へ。一体何が当たったのだろうか…?帰りの道すがら、気になって幾度となく開封してみようと思ってはそれを思い留まり、付属の解説書で気を紛らわせることとなった。

 さて、帰宅後先ずは改めて『古戦場火』を御開帳。開封前のカプセルはこんな感じ。







 さて、いよいよお楽しみの残る二個の開封。バッグの中で混ざってしまったので、どちらが二個目だったのかわからなくなってしまったが、手にした方のカプセルを開けてみると…



第二希望の『土蜘蛛』であった。嬉しいことに『フル彩色』のQペグ付き。かなり打率が良いではないか!




 気を良くして三つ目開封。



 『木彫風彩色』バージョンのぬらりひょんであった。Qペグ無し、つまりハズレ。『古戦場火』のフル彩色、或いは『河童』が当たれば言うこと無しだったが、そこまで思い通りにはならなかった。『姑獲鳥』よりはマシだが、残念感が漂う。しかし、『木彫風彩色』バージョンとはいえ、Qペグ付きの『古戦場火』を入手できたのだから良しとしよう。

 『ぬらりひょん』をビニールから出してみる。



 『木彫風彩色』は全体的に茶色で、所々ワンポイントとして墨入れのように黒が塗られている。これで本物の根付の『なれ』を表現しているのだろうが、欲を言えば黒地の上に茶色を塗って、茶が禿げると地の黒が出てくるような工夫をして欲しかった。そこまで拘ったらコストがかかって三百円では収まらなくなってしまうのかもしれないが、恐らく実用していれば色んな所にぶつかって素材の地が出てくるだろう。その際、素材の人工的な露出するのは味気ない。全体的に硬いが、細い部分は多少柔軟性がある。座布団が本体から離れるようになっており、紐止めにもなっている。


 『ぬらりひょん』は『福元徳宝』という原型師の作品なのだそうだが、第一弾では鬼太郎や目玉親父など制作しており、どれも上手い。ぬらりひょんが当たったときは少々ガッカリしてしまったが、改めて見ると良く出来ている。残念ながら画図百鬼夜行と違って帯刀していないが、その代わりに扇子と酒器を持っている。

 『土蜘蛛』はフル彩色だが、とても丁寧に塗り分けされている。切り裂かれた腹から大量の髑髏が出てくるギミックになっている。デザインは水木版をコミカルにした様な感じである。

 『古戦場火』は自称『骨マニア』の竹谷原型だけあって素晴らしい出来映え。髑髏の出来は言うに及ばず、兜も良く出来ている。前立てが無いのが朽ち果てた感じを一層強めている。石燕画の『古戦場火』は垣根と笈、笠、杖のそばを無数の燐火が彷徨ってるだけで、死霊と化した兵の首を表現したのは竹谷のオリジナル。
 解説書には「妖怪たちのルーツ鳥山石燕に竹山工房が挑む」と冒頭にあるように、石燕の「画図百鬼夜行」に掲載されている妖怪をリデザインして立体化するのがコンセプトで、必ずしも石燕の画を忠実に再現することを重要視しているわけではないようだ。五種類の見本を見てみると、石燕版に近いのは『ぬらりひょん』だけのようである。

 酒を飲みながら『ぬらりひょん』を眺めていると、出来の良さのために愛着が湧いてくる。それに『木彫風彩色』バージョンの方が味があって良い。
 今までも何種類かの妖怪をモチーフにしたフィギュアが発売されているが、この『妖怪根付』シリーズの出来が一番ではないだろうか。従来の飾って楽しむ物も結構だが、今作のように紐で取り付けて携帯できるのが良い。第四弾が発売されることを期待するが、近世に「創作」されたものよりは正統派の立体化、特に竹谷の骨モノを切に願う。


古戦場火
一将功なりて万骨かれし枯野には
燐火とて火のもゆるあり
是は血のこぼれたる跡よりもえ出る火なりといへり

土蜘蛛
源来光土蜘蛛を退治し給ひ事
児女のしる所也

ぬらりひょん

2012年6月17日日曜日

『大震災から救われた伝家の宝刀展』~『早坂信正 現代刀展』

 本日は中鉢美術館へ『大震災から救われた伝家の宝刀展』を見に行く。

 ゴールデンウィークに中鉢美術館へお邪魔したとき、被災された方などから中鉢さんが託された刀を展示するという企画展を開くと伺っていた。企画展は月末の 27日からスタートだそうで、初日から見に行きたい気持ちもあったが、廿日には総会もあるし、月が変わってから見学することにした。


 美術館に入ると受付にいらしたのは奥様で、中鉢さんは不在だという。展示刀や寄贈者について色々お伺いしたかったので誠に残念だ。それにしても、主がいないと随分物寂しいものだ。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山

・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上
・太刀 國□(五条國永)

・太刀 包平
・太刀 次忠
・短刀 國吉
・刀 無銘(豊後正宗)
・太刀 豊後國行平作(紀州徳川家伝来)
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・脇指 長吉
・脇指 村正
・脇指 (村正)
・刀 上林恒平作
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作

被災刀剣
・薙刀 兼元
・太刀 舞草
・刀 豊後住藤原實行
・脇指 陸奥會津住道長
・刀 備州(以下切)
・短刀 備州長船守光
・短刀 宮入行平作


 事前に「凄いのが入ってくる」といくつかの作品が追加されることを予告されていたが、その内の二つは国吉と行平だったのだ。この二人の作品が宮城県外に 出ずとも見られるのは大変有り難いことだ。中鉢美術館に来れば、名刀を見られるのが当たり前のように思いがちだが、その機会を与えて下さっている中鉢さん に感謝せねばならない。楽しみにしていた「あの刀」は今回お目にかかれなかったが、次回かその次のお楽しみである。
 行平は僧定秀の子と伝え、紀新太夫行平ともいい、御番鍛冶として有名。「一説に下野日光へ配流の時は銘有風、方土、日本一又桜花を切る、承元頃。(刀工総覧)」
「この作は昔から珍重されたものらしく、原著『観智院銘尽』に当時すでに偽物があることを記述している。(略)地鉄は板目よく錬れて軟らかく感じられ、綺 麗であり、刃文は直刃小沸つき小沸足も入り、匂口うるみ、刃中初霜のごとく白い。帽子丸くあるいは焼きつめて小沸つく。すべての太刀、短刀ともに鎺元上に 焼落しがある。また、経眼したものの大部分に、腰に櫃の内に倶利伽羅、不動明王、地蔵、松喰鶴などの古雅な浮彫がある。銘はこの時代の刀工の多くが太刀銘 に切るが、行平はほとんど刀銘に切っている。上記のごとく古来偽銘が多く正真のものは字がむしろ下手であると伝えている。(日本刀講座3古刀鑑定編 (中)P340,343)」
 粟田口の国吉はエピソードが殆ど無い。
「建長ごろ。則国の子。藤原姓で、左兵衛尉と称した。太刀はきわめて少なく、短刀が多く、まれに寸延びの平造がある。短刀は筍反が多く、無反もある。刃文 は直刃が多く、帽子は小丸に反り、沸・匂は深く、足入り、まま二重刃がある。鍛は小板目が多く地沸が厚く、茎は棟が角、鑢は横、先は栗尻で、銘は「国吉」 と二字に打つものが多く、まま「左兵衛尉藤原国吉」と長銘に打ったものもある(日本刀講座2古刀鑑定編(上)P41)」
 上林恒平は以前、上山城で作品展を見たことがあったが、そういえばあの時も師匠の宮入行平の短刀が展示されていた。

 企画展のメインである『被災刀剣』は赤錆の薙刀と、海水を被ったと思われる『実行』と『道長』の状態が特に酷い。鑑賞会で実際に触れることのできた『舞 草』が展示されており、あの時のズッシリとした重みが思い浮かんだ。次回は是非、中鉢さんに被災刀の詳細をお聞きしたい。

 そろそろ帰ろうかと奥様にご挨拶したところ、お茶を一杯くらいどうですかと仰って下さった。一瞬お断りしようかとも思ったが、折角のご厚意なのでお言葉に甘えさせて頂くことにした。奥様のミルクティ、大変美味しゅう御座いました。
 話の最中、帰り道にあるから寄ってみてはどうですかと、早坂さんの企画展のチラシを頂いた。場所は457号線沿いにあるらしい。今日は明るいうちに帰宅しようと思っていたが、まだ時間に余裕があるので帰りがてらのぞいてみることにした。


 場所は『色麻町農業伝習館資料展示室』。国道から脇にそれ、小さい山をのぼっていったところにあった。




・刀 早坂信正作(ウラ)平成二十一年二月日
・短刀 早坂信正(ウラ)平成二十二年二月日吉春
・脇指 早坂信正
・刀 船形山麓 早坂信正(ウラ)平成七年八月日 野州ニ眠ル以古鉄造之
・脇指 早坂信正(ウラ)平成七年八月日 野州ニ眠ル以古鉄造之
・脇指 早坂信正(ウラ)平成十年二月日
・刀 船形山麓色麻住 早坂信正(ウラ)平成十三年二月日
・刀 信正(ウラ)平成六年二月日
・脇指 信正(ウラ)平成三年八月日
・刀 早坂信正(ウラ)平成十年八月日
・太刀 早坂信正

・刀 色麻住信正(ウラ)平成五年八月日
・短刀 信正(ウラ)平成七年八月日
・刀 船形山麓 早坂信正(ウラ)平成八年二月日

・短刀 早坂信正(ウラ)平成十七年八月日
・剣 早坂信正(ウラ)平成十一年二月日
・太刀 信正(ウラ)平成六年二月日
・短刀 信正(ウラ)平成十三年八月日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十年五月五日


 残念ながら照明が悪く、まるでステンレス製品を眺めているようだった。その中でぼんやりとだが、唯一地鉄を確認できたのは山城伝の太刀『信正(ウラ)平 成六年二月日』で、たまたま好みの鍛だった。この太刀は以前にも切込焼記念館で見たことがあり、『豊後国行平作(古今伝授行平)の写し』とあったことを思 い出した。そういえば先ほど、行平を中鉢美術館で行平を見てきたばかりだ。
 この展示会は6月24日(午前9時半から午後5時まで)まで開催されている。

2012年1月3日火曜日

『明日への煌めき - 宮城の刀匠 四人展 -』

 新年を迎え、今年も志波彦神社と塩竃神社へ初詣に行く。

 去年の震災で神社は大きな被害を免れたようだが、博物館は閉館状態がしばらく続いていた。震災後に何度か神社を訪れたが、いつ行っても博物館は休館したま まで、一向に再開する兆しが見られない。一体いつになったら再開されるのかと待ちわびていたが、サイトでアナウンスされることもなく、半年以上が過ぎて いった。例年なら、正月は新春特別展が催されているのだが、営業しているかどうかも怪しい。


 あと二月ほどで震災から一年が経とうとしている。震災直後に仙塩街道を何も知らずに走ったときは、まるで戦場かと見紛うばかりの有様だったが、今はかな り元の風景に戻りつつある。それでも被災者にしかわからない爪痕はそこかしこに残されているのだろう。泥だらけの道路や車両、瓦礫、そして憔悴しきった人 達。あの時の様子は今でも忘れることができない。

 塩釜駅を過ぎた先の下り坂から渋滞していたが、例年ほどでは無いような気がする。震災や不況の影響だろうか。運良く第一駐車場に駐めることができた。
 気になってしょうがないので、参拝前に博物館へ行ってみると、嬉しいことに博物館が営業されていた。これで安心してお詣りができる。




 お詣りを済ませ、いよいよ博物館へ。博物館が再開されているだけでも嬉しかったが、恒例の新春特別展も開催されているようだ。入場料はわずか100円で、高校生以下は無料だそうだ。
 今年は『明日への煌めき - 宮城の刀匠 四人展 -』と銘打った、宮城の現代刀匠四人の企画展らしい。宮城昭守氏の作品は『白石城歴史探訪ミュージアム』で見たことがあるが、典真氏のものは未見である。 そいえば、ローカル番組で白石市の日本刀鍛錬所が紹介されたときに、お二人が出演されていた。早坂信正氏は以前、『切込焼記念館』での個展を見る機会が あったが、他では見たことがない。


・短刀 昭守(ウラ)贈青木家重代娘求利郎 平成十一年八月日
・短刀 昭守作(ウラ)平成二十一年八月日
・短刀 典真作(ウラ)平成八年二月日
・短刀 白石住典真(ウラ)為大樹祖父卓 平成九年二月日
・短刀 法華三郎信房(ウラ)平成拾寅年二月日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十年五月五日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十二年吉春
・短刀 悠貴 典真作(ウラ)平成十九年九月二十日
・脇指 白石住典真(ウラ)平成廿一年八月日

・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成七年五月日
・刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿寿龍集戊子年二月日
・刀 早坂信正作(ウラ)平成二十一年二月日
・太刀 宮城典真作(ウラ)平成二十一年八月吉日
・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成六年二月吉日
・脇指 早坂信正(ウラ)平成十年二月日
・太刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿禄甲申年二月日
・刀 還暦記念 宮城典真作(ウラ)平成二十三年二月一日
・刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿戊寅年八月日
・脇指 法華三郎信房(ウラ)平成寿戊寅年八月日
・脇指 色麻住信正(ウラ)御神刀
・脇指 宮城昭守作之(ウラ)贈青木家重代家督求利郎 平成十三年二月日
・太刀 白石住典真(ウラ)平成十年三月日
・横刀 法華三郎信房 昭和甲子文化ノ日(ウラ)伊勢神宮御神宝御太刀 影打
・太刀 白石住宮城典真作(ウラ)平成十八年三月日
・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成二年二月日 還暦記念 日本美術刀剣保存協会いわき支部長鈴木喬二
・太刀 法華三郎信房(ウラ)平成癸酉年春
・脇指 法華三郎信房(ウラ)平成癸酉二月日

・太刀 奉納宮城昭守典真謹作(ウラ)平成二十三年六月十一日
・太刀 奉納九拝 法華三郎信房(花押)(ウラ)宮城県知事山本壮一郎打之
・刀 奉納九拝 法華三郎信次(ウラ)昭和四十九年二月日押木塩竃宮司打之
・刀 昭和六十一年吉春

・太刀 来國光


 以下、博物館内の紹介パネルより。
 「宮城昭守(みやぎあきもり) 本名・宮城真一。宮城県白石市の刀匠・宮城守国の嫡子として大正十四年に生まれる。昭和十五年、栗原昭秀に入門し日本刀 鍛錬伝習所において作刀を学ぶ。日本刀展覧会金賞、陸軍軍刀展覧会会長賞など高い評価を得る。戦後、やむ無く作刀を中断するも、昭和四十五年に作刀承認を 受けて製作を再開、以後コンクール等において入賞・入選多数。日本刀鍛錬技術保持者として、昭和五十八年に白石市無形文化財、平成十六年に宮城県無形文化 財の指定を受ける。白石市在住。」

 「法華三郎信房(ほっけさぶろうのぶふさ) 本名・高橋大喜。八代目・法華三郎信房(本名・高橋昇)の嫡子として昭和十四年に松山町に生まれる。父につ いて作刀を学び、昭和四十一年に作刀承認を受ける。以後、信次と銘して作刀し、コンクール等において入賞・入選を重ねる。平成十四年、九代目・法華三郎信 房を襲名。八代信房が復元した大和伝保昌派の作風を継承するとともに、さらなる追求を続けている。」

 「早坂信正(はやさかのぶまさ) 本名・早坂政義。昭和三十三年生まれ。昭和五十一年に八代目・法華三郎信房に入門して作刀を学び、昭和五十九年に作刀承認を受ける。昭和六十二年に独立、以後コンクール等において受賞・入選多数。加美郡色麻町在住。」

 「宮城典真(みやぎのりざね) 本名・宮城正年。昭和三十五年、刀匠・宮城昭守の嫡男として白石市に生まれる。昭和五十五年より父について作刀を修行し、昭和六十年に作刀承認を受ける。以後コンクール等において受賞・入選多数。白石市在住。」


 宮城親子も上手だが、早坂さんの板目と杢目混じりの作風が一番好みだった。それにしても、縦置きの短刀は見づらい…。
 「色麻住信正 御神刀」は南三陸町の戸倉神社に奉納された脇指なのだが、東日本大震災の際に神社が津波に流されこの奉納刀も流失してしまったという。幸い発見されたが拵 は泥と砂にまみれ、残念ながら刀身も錆に覆われていたそうだ。それを作者の早坂さんが錆を取り除いた状態で現在博物館に特別に展示されている。初めて見た 時はなんだかノッペリとした印象だったが、そんな悲しい事情があったのだ…。
 そのお隣の『法華三郎信房 昭和甲子文化ノ日 伊勢神宮御神宝御太刀 影打』は珍しいことに横刀で、大船渡三陸町『天照御祖神社』へ伊勢神宮式年遷宮の際に宝刀として鉾と共に製作されたそうだ。『影打』とは、「実際に神宮御 神宝として納められた作品に対して同時に製作された作品のことを指しています。」だそうだ。数振打った中で特に出来の良いものを選んで奉納刀とし、残りの ことを『影打』というのだろう。
 『奉納宮城昭守典真謹作 平成二十三年六月十一日』は塩竃神社の式年遷宮を記念して製作されたものだが、被災地復興への強い願いも込めて神前に捧げられたという。
 現代刀匠の目指すものがこの一口の中に凝縮されているとし、また「新しい年が「来」たりて、私たちの「国」が輝かしく「光」ように願って」との祈りも含め、最後は来国光で締め括られていた。


東参道方面


志波彦神社

塩釜湾の空。なんだか雲が刃中の働きのように見える。


 今回のテーマを知ったとき、正直「現代刀か…」と少々期待外れの感もあったが、実際に作品を見て色々考えさせられた。未曾有の天災に見舞われて様々な困 難に喘いでいるこんな時世だからこそ、『今を生きる』そして地元宮城の現代刀匠の作が展示されていることに大きな意義があるように感じられた。地元の刀匠 の作品を見る機会はあまり多くはないので、こういう場がもっと増えればと思う。未来へ向かって一歩一歩進んでいくわけだが、先人達の遺物から色々なことを 学び、そして大切に守っていかねばならない。
 ニュースでしか見たことがないが、機会があれば一度『打ち初め』を見学してみたいものだ。

2011年6月5日日曜日

中鉢美術館『えにしえの名刀展』


 開催から大分日が経ってしまったが、『中鉢美術館』の『えにしえの名刀展』へ行く。

 先月の大型連休初日に初めて『中鉢美術館』を訪れ、思いがけず館長の中鉢さんとお話しする機会を得た。刀剣をはじめ色々なお話を聞かせて頂いたのだが、そ の中に『えにしえの名刀展』を開催するという案内があった。この展示会のために『村正』をはじめ何口かの刀が用意されるということでとても楽しみなのだ が、加えて開催中(5/14~8/28)の入場料は全て義捐金として寄付されるという。これは是非参らねばなるまい。

 『中鉢博物館』に到着するが、とくに展示会を宣伝するようなものは見かけられず、いつもと変わらぬ外観の様子。前回は券売機で入場券を購入したが、今日 は受付の若い男性に直接入場料を支払う。名刀を眺められる上に、郷土への一助となれば、まさに二つのよろこびを同時に得られる。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山

・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上

・太刀 正真
・太刀 行平
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・太刀 菅原國長
・脇指 長吉
・脇指 村正
・脇指 (村正)
・刀 奥州仙䑓住安倫 武州江城住大和守安定(ウラ)仙䑓住人山野加右衛門永久監之
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作


 先日のお話の通り、村正の脇指が二口展示されていた。その内の一口は銘を作為的に潰し消されたものを、沢口希能博士が科学的手法で表出させたものだとい う。村正は世に言う妖刀伝説や、笹の葉の逸話に代表されるように何故か正宗と絡んだ俗説が多く、「相州正宗の門」とも称されるがこれは誤り。隣には村正の 師とされる長吉が展示されていた。 
 今回の目玉はやはり正真だろう。正真は友成と並ぶ古備前の祖正恒の子だそうで、その正恒は奥州舞草から移住した有正の子と伝えられる。正真が正恒の子な ら有正の孫か曾孫にあたるだろうか。正真が古の名刀として展示されるのに相応しいのは言うまでもないが、奥州の血脈を受け継ぐということでの中鉢美術館の 拘りがあるのだろう。
 ところで、宗近と同人であるという『我里馬』は元々奥州の人で、宗近は大和名なのだという。その『我里馬(k-arima)』と『有正(arima- sa)』は音が似ているのは偶々だろうか。『有(ari)』の字のつく名は『有成(ari-n-ari)』『有氏』『有永』等が居るし、そういえば『友成 (tomon-ari)』にも含まれている。

 中鉢さんは来館者を見つけては説明をしてまわられていたが、私に気付いてわざわざ話しかけて下さった。まだ二度目の来館なのだが、私の顔を憶えていて下 さったようだ。会話は来週の総会についてと軽くに留まり、「ゆっくり見ていって」とお気遣いの言葉を残して、新たな入館者のもとへと向かわれた。



 以下、『日本刀銘鑑(本間薫山 校閲/石井昌國 編著)』より。異体字の使用できないものは、□と()であらわした。
 「有行」舞草。有正の父という。出羽にてもうつと。大治という。
 「有正」舞草。安房弟。近霧同人という。保延ころ。陸奥。
 「有正」舞草。有正子。出羽・越前にてうち、のち備前にうつる。奥州太郎と号す。古備前初代正恒の父という。平治ころ。陸奥。
 「正恒」古備前。陸奥有正子。また同人ともいう。鬼切(長享)、足利又太郎忠綱の綱切太刀(観智)、太政大臣入道殿太刀の作者とあり。奥州太郎。永延という。備前
 「正真」古備前。正恒子という。建暦ころ。備前。〈注〉〈二振の太刀を経眼しているが、やはり正恒系とみえる。(薫山)〉
 「有成」宗近同人、また子という。奥州有正の門ともいう。悪源太義平の「石切」をつくる。一条院御宇。永延また正暦という。河内。
 「我里馬」陸奥秀衡の鍛冶。猛房子、鬼王丸弟。岩井郡住。応保ころ。「我里馬」は「我□(日+与のような字。旦+馬に見えるが…)」と観智院本にあるが 「我弖為」の誤写で、「我弖為」はえぞ人名である。例えば『続日本紀』にしるされる「夷大墓公阿弖利為」などであって、応保(一一六一)のころ平泉鍛冶カ テリイは猛房(もうふさ、舞草)の刀工で、藤原秀衡の抱工であるという。後世剣書は烏丸、我里宇丸、雁田丸、刈田丸、刈宇丸等の作者という。
 「雁宇」舞草。猛草子。元暦前という。我里馬同人か。
 「雁宇丸」秀衡の鍛冶。出羽鬼王丸の弟という。我□(弓+与)ときるという。雁田丸、刈田丸、我里馬いずれも同人か。応保ころ。〈注〉〈剣書では「我□(弓+与)」が古くのち我里馬となりさらに雁宇に転じ雁田となる〉
 「刈田丸」三条吉家の隠銘という。また陸奥我里馬同人ともいう。永延という。山城。〈注〉〈各系の伝承が混同している。秀衡の鍛冶我弖流為(我弖我里馬)よりきたようである。したがって平安最末のころとみるべきである〉

2011年5月1日日曜日

震災後に訪れる一関


 東北関東大震災以降、久しぶりに一関へ。

 東北関東大震災後に一関を訪れるのは今日が初めて。ずいぶんと久しぶりな気がする。宮城もそうだが、内陸部の被災状況はそれほど多く伝えられないので、 どんな様子なのかとても気になっていた。一関市博物館のサイトを見る限り、収蔵品や建物に大きな被害は受けていないようで安心したが、観音山は果たしてど うだろうか。


 先ず厳美渓へ行ってみる。震災の影響でガラガラなのではないかと思っていたが、まずまずの賑わいだった。今日は雨 のせいか、水量が多いようだ。『岩手・宮城内陸地震』の後に訪れたときは、ずいぶんと水嵩が減っていたのが印象的だった。渓流を眺めていると、名物『かっこうだんご』がロープを伝っていく様子が見られた。こういった何気ない一コマが、経済的や心情的な盛り上がりに繋がっていくように思える。


 さて次は一関市博物館。被災地では被害を受けて休館を余儀なくされている博物館や美術館がある。そんな中、こうして見学に訪れることが出来るのは有難いことだ。


・刀 (額銘) 建武寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・短刀 寶壽
・刀 奥州仙䑓住國包
・刀 一関士宗明作(ウラ)応西尾守房需
・脇指 明弘
・短刀 玉英
・太刀 行光
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・刀 万歳藤田近江守藤原継平(ウラ)天明三癸卯年八月日
・刀 備前介藤原宗次(ウラ)文久四年二月日

・先込式大筒 宗明(ウラ)(金象嵌銘)雲月
・火縄銃 一関住源充正造之応需上鍛
・傍装雷火銃 臣久保田宗明充正作 安政五年二月吉日

 
 もし建物や刀が被害を受けていれば、こうして当たり前のように見学することは出来なかったかもしれない。今こうして刀を眺められることに感謝せずにはいられない。
 今回面白かったのは、宗明の銃三挺が展示されていたことだ。宗明がもともと鉄砲鍛冶だったことは知っていたが、実物を見るのは初めて。


  最後は観音山へ向かう。バイパスはいつもと変わりなかったが、一関市内の道路は端などに隆起や陥没が見られ、ここにも震災の爪痕が残されていることを実感 した。そういった道は気をつけて通ればなんてこと無いのだが、困ったことにいつもの道(14号線)が通行止めとなっており、大きく迂回する羽目になってしまった。知らない道を進んだため、かなり迷ってしまい、相当時間を無駄にしてしまった。

 観音山は立入禁止というような事態にはなってお らず、また儛草神社もこれといって被害を受けてはいないようで一安心。ただ、『舞草神社西遺跡』の標柱が倒れてしまったようで、木に括り付けられていた。  地震の影響を受けたものか不明だが、『舞草小戸山遺跡』の標識の傾きが一層ひどくなったような気がする…。

2011年4月30日土曜日

日本刀の源流『中鉢美術館』

 今日は岩出山にある『中鉢美術館』へ行ってみる。


  大型連休前に、ネットで偶然『中鉢美術館』を見つけた。刀剣、それも奥州刀に重きを置いているようで、宮城県内にあるらしい。これまでその名を全く聞いた ことがなかったが、いつ頃からあるのだろうか。場所は岩出山で、先日の震災で被害を受けた有備館の近くらしい。はじめは一関の序でに行ってみようかとも 思ったが、一関市博物館と観音山のセットで半日ほどかかる。それに初めて行く場所を加えるのは厳しいと考え、それぞれ別の日に行くことにした。かわりに鳴 子の三条山を組み合わせることにする。

 連休スタート当日まで、岩出山・鳴子方面と一関のどちらを先にするか決めかねていたが、午前中が不意の用事で潰れてしまったため、初日は午後からでも十分間に合いそうな『中鉢美術館』を選ぶことにした。
 震災の影響なのか、県外ナンバーが殆ど見当たらず、交通量もいつもの週末と変わらない。生憎の天気で小雨がぱらついていたが、渋滞も無くのんびりと行くことが出来た。大衡村の分岐点で左側の羽後街道へ進む。
 目的地の中鉢美術館は有備館駅のすぐ傍にあった。道路を挟んで向かい側には有備館と大きな公園があり、とても見晴らしがいい。

 入り口正面のフロントで料金を払おうとしたところ、券売機での購入を促された。入場券を渡してパンフレットと展示目録を受け取っていると、奥から男性が 現れ、私を一瞥してフロントから出てきた。フロントの左手には部屋が二つあり、男性はメインと思われる右奥の展示室へ消えていった。会計を済ませ、入り口 側のもう一つの展示室へ入ると、そこには数多くの具足が展示されていた。隣の部屋には先客がいるらしく、先ほどの男性との話し声が聞こえてくる。早く刀が 見たかったので、甲冑の見学もそこそこに隣の部屋へ移動することにした。 
 室内に入ると、先ず右手に佐藤矩康先生御夫妻や日本刀のルーツについてのパネルがあり、この部屋の導入部となっている。そして残る三方と中央のショウケースに、数多くの刀が展示されている。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上
・太刀 宗吉
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・太刀 行平
・太刀 行利
・刀 奥州仙䑓住安倫 武州江城住大和守安定(ウラ)仙䑓住人山野加右衛門永久監之
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)
・太刀 法華三郎信房 (九代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作


 「日本刀の源流」と銘打つだけあって、奥州刀を中心に質・量共に素晴らしい展示内容である。舞草系三口、月山系三口、玉造系五口、その他俘囚として移住 した者や、奥州鍛冶の影響を受けた系統の作など七口と、価値のある古刀が惜しげもなく展示されている。中でも『閉寂』は在銘最古の奥州刀なのだそうだ。玉 造系というのは馴染みの薄い呼称だが、宝寿はこの系統だという。奥州の古鍛冶といえば舞草と月山のイメージだが、我がルーツの一つ玉造にも鍛冶集団があっ たというのは嬉しいことだ。三条山もこれに関係するのだろうか。
 新刀は国包と安倫、現代刀は法華三郎信房がそれぞれ代表として展示されていた。因みに国包と八代目の法華三郎信房は同じケースの中に展示されており、こ れは法華三郎信房が国包を写したものを、オリジナルと見比べられるようにとの演出だそうだ。素人目には一目で違いが判らない見事な出来だ。それにしても、 初代国包がこの展示室内では随分大人しく見えてしまう。

 その他、紀元前の青銅剣、奈良時代の直刀・刀子・倒卵形鐔など刀剣史上貴重な品が展示されており、何れもレプリカではない。中でも感動したのは平安中期 以前の上古刀である。以前から毛抜形太刀や古太刀といった、在銘太刀以前の進化の過程を見てみたいと常々思っていたが、今日ついにそれが叶った。今まで上 古刀を見る機会は何度かあったが、何れも直刀ばかりであった。しかし、目の前にあるのは日本刀完成以前の湾刀である。こういった蕨手刀から鎬造の湾刀の中 間がすっぽり抜けて、刀剣のミッシングリンクとなっていたらと考えると恐ろしくなる。

 一通り見終わり、次はじっくり見て回ろうと二巡目を始めたところ、美術館の男性が「刀はお好きですか?」と声をかけてきた。先客が帰ったので、わざわざ こちらへ挨拶に来てくれたのだろうか。世間話を五分もすれば終わるだろうと思っていたが、刀剣や歴史についてやたら詳しく、つい話し込んでしまった。そし て話をしているうちに目の前の男性がこの美術館の館長であり、舞草刀研究会の中鉢さんだということが判明し、二度驚いてしまった。ネットでこの美術館で見 つけた時、『中鉢』という名前と奥州刀の二つのキーワードから、真っ先に『舞草刀研究紀要』の中でよく見かける中鉢氏の名を連想した。しかし、確か同氏は 一関在住と記憶していたので、まさか岩出山にいるわけはない。それに『舞草刀研究紀要』で見た顔写真に比べて、かなり痩せているので同一人物とは全く気が つかなかった。大変な失礼をしてしまった。なんでも奥州刀を展示できる美術館の建設を思い立ったが、当時住んでいた一関に建てることができず、次の候補地 として生まれ故郷の岩出山を選んだのだそうだ。そして、一年ほど前に、様々な人達の協力もあって、この美術館を完成したそうだ。創立が最近のことと知っ て、少々安心した。それにしても、まずお会いできる機会が無いだろうなと思ってい方が、こうして目の前にいる。人生わからないものだ。
 刀剣そのものだけでなく、それに関わる人々や業界のお話なども沢山して頂き、私のするつまらない話や質問にもいちいち応えて下さった。中でも最も印象に 残ったのは、先日の東北関東大震災の大きな揺れで館内の新刀が落下してしまったが、古刀はびくともしなかったという話だ。鉄屎を求める人々の話も面白かっ た。

 しばらく立ち話を続けていたら、奥様に「こちらへどうぞ」と誘われてロビーへ移動し、お茶を御馳走になってしまった。恐縮しながらも頂戴し、引き続きお話を伺った。
 中鉢さんは頻りに、刀や人は自然と集まってくるということを仰有っていた。館内の収蔵品は全て中鉢さん独りの力で収集したものではなく、中には「ここに なら間違いない」と提供を申し出る方もおられるそうだ。中鉢さんがこれまで舞草鍛冶をはじめ、奥州刀の研究などや発展のために寄与貢献されてきたことが大 きいのだろう。刀剣の知識や刀剣そのものを求める段階から、刀剣界に尽くす段階へ進まれている。個人で刀剣の美術館を創立するなど、只の道楽では決して出 来ることではない。また、後進の育成についても意識されているそうで、若い人を気にかけているようだ。刀鍛冶や研ぎ師に憧れる若い人が、中鉢さんに相談を 持ちかけることがあるそうで、応援したりアドバイスをすることもあるそうだ。 
 私が中鉢さんと邂逅したのも、刀を通しての縁だ。「以○会友」という言葉があるが、この出会いが「以刀会師」となればいいのだが。

 尚、中鉢美術館では二週間後に『いにしえの名刀展』という企画展を開催するそうで、テーマは「日本刀の源流たる奥州刀をはじめ、それに関わる諸国の名刀 の展示」。刀への関心が薄い一般の方々にも向けて、一度はその名を聞いたことがあるだろう、村正を展示するそうだ。奥州刀について沢山の人々に知ってもら いたい、見てもらいたいという思いが伝わってくる。会期は5月14日から8月28日までで、なんと入館料は全額被災地に寄付されるそうだ。一部なら兎も 角、全額というのは中々出来るものではない。崇高な理念の基に開催される企画展なので、一人でも多くの方々に足を運んで頂きたい。
 
 話に夢中で随分と長居してしまったので、名残惜しいがお暇することにした。予定していた三条山は諦めることにしたが、大変有意義な時間を過ごすことがで きた。奥州鍛冶及びその流れを汲むの名刀の数々を見ることが出来たのもよかったが、なによりも素晴らしい出会いを得ることが出来た。そういえば三条山につ いても詳しくお聞きすればよかった…。

 宮城県内に刀剣を中心に扱ったスポットがあるのは大変有難い。これから足繁く通おう。



 以下、『日本刀銘鑑(本間薫山 校閲/石井昌國 編著)』より。
 「上一」舞草則常同人ともいう。大宝・天平ともしるし、天国の門ともいう。大和。〈注〉銘文の始源例。銘字は符号から始まるともみられる。
 「上一丸」奥州玉造郡住。のち大和にうつり宇陀に住すという。
 「家則」舞草。宮城玉造郡住。元暦という。
 「家則」舞草。宮城玉造郡住。建長ころ。〈注〉玉造は平泉の南、玉造軍団の在所。「太平記」に三の真国ありという。
 「真国」舞草。三の真国という。元暦という。陸奥。〈注〉奥州宮城郡の刀工。鬼丸をつくるという。(太平記)この真国が鎌倉に来て山内鍛冶の祖ともなるという。ただし作例はない。
 「真国」陸奥同人という。元暦という。伯耆。
 「貞房」舞草。宮城玉造郡住。文保ころ。

2011年3月13日日曜日

薬師堂、志波彦・鹽竃神社(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災三日目)

 震災三日目。昨日は新寺通りの寺を十宇ばかり見てきたが、どの寺も石仏や石灯籠に被害を受けていた。今日は『陸奥国分寺薬師堂』を見に行ってみることにする。

 薬師堂北方面から向かい、先ず公園内の準胝観音堂を見てみたが、やはり石仏が数体倒れていた。何れも損壊はしてはおらず、お堂も無事だった。

 次は薬師堂へ。西側から敷地に入ると、社務所前の倒れた石灯籠が目に入る。





 山門の方まで目をやると、参道脇の石灯籠が全て倒れていることがわかる。




 社殿も被害を受けたようで、窓の木枠が外れかかっていた。中の状況はわからないが、この程度で済んだのは幸いで、宮大工と神社建築技術の賜というべきだろうか。
 白山神社は入り口に紐が張られており、境内に侵入できなくなっていた。敷地の外から見る限り、お堂は無事のようだが、石灯籠が倒れているようだった。

 薬師堂は大きな被害を受けずに済んだが、志波彦神社と塩竈神社果たして無事なのだろうか。ラジオから得た情報によると、海の側は甚大な被害を受けたらし い。現在、バイパスの西側はどんな状況なのだろう。テレビもネットも使えないのでまとまった情報や映像が全く得られない。どうしても気になるので、危険な ら無理せず引き返そうと決め、塩竈へ向かう。 


 震災後に車を運転するのは、今日が初めてだ。信号が止まったままなので、そばの大通りに出るだけでもたいへんだ。最初の交差点で親切な方が路を譲ってく れたので、すぐに右折することができた。大きな通りに出てしまえば、あとは流れにそって行くだけだ。緊急事態なので、誰もが慎重な運転を心掛けているよう だ。しかし、扇町一丁目の交差点で、事故現場に遭遇してしまった。すでに警察官が実況見分をしているようだった。道路に男性が一人横たわっている。

 いつものように仙塩街道を走っていると、中野栄駅を過ぎた辺りから通行規制をしているようだった。ここから先は進めないのかと思いきや、片側交互通行 だった。前の車について行くが、極端にスピードが遅くなる。まさかここまで津波が来るわけはないし、道路に大きなヒビでも走ったのだろうか。しばらくすれ ば、規制区間も終わるだろうと高を括っていたが、どうも様子がおかしい。やがて信じられない光景が目に飛び込んできた。路は泥だらけで、沢山の車輌が車道 の両脇に止まっている。どの車もまるでスクラップ場の廃車のようだ。その横を徒歩や自転車で往来する人や、忙しそうに作業する人。普段から交通量は多い が、人通りが多いイメージは無い。一体何があったのだろう。戦争でもあったのかと思わせる、非現実的な風景。仙台から僅か数キロの多賀城市内とは思えな い。一体何があったのだろう…。徐行は続き、通行規制区域内では、家屋、車体などの撤去作業が行われていた。緊急の用があるわけでもないのにこのまま進ん でいいものかと迷ったが、この惨状を目の当たりにすると余計に神社が心配になってくる。
 後でわかったのだが、津波の影響で砂押川が氾濫し、周辺の地域が川の水に飲み込まれてしまったそうだ。道端の車は、その時流されたものだったのだ。車体 を流すほどの激流とはどれほど凄まじいのだろうか。想像もつかない。情報源が乏しいとはいえ、今まで多賀城がこんな悲惨な状態になっていたなんて、全く知 らなかった。
 
 念仏橋の辺りからスピードが出せるようになり、塩竈神社に無事辿り着くことが出来た。
 この非常事態に神社を訪れる人など少ないと思っていたのだが、駐車場には沢山の車が駐車されていた。神頼みに来たのか、それとも無事を感謝しに来たのだ ろうか。ところが境内には人の姿は殆ど見られない。やはりこんな時に、神社を訪れる人などいないようだ。恐らく駐車場の車は、避難のために停められている のだろう。

 先ず志波彦神社へ向かうが、正門が閉まっていて中に入ることはできなかった。何か被害を受けたのだろうか。心配である。




 一方、塩竈神社は境内に入ることが出来、門前の灯籠が一基倒れている以外はこれといった損害は無さそうだった。それにしても、いつもは多くの参拝客が訪れる拝殿に、今は人っ子一人いない。日曜の日中にこの状況は、一生に一度あるか無いかの希有なものだ。


 塩竈神社が津波の被害を受けずに済んだのは、当然神社が山の上にあるからだが、どうも元々一森山に鎮座していたわけではないらしい。

 菊地山哉の説では、塩竈神社はそもそも『六所神社』であり、陸奥の六所も多賀城の傍にあったのだという。蝦夷征伐のために六所が始まり、六所神社は国府 祭を行うために必ず国府の傍にあり、国司が夷狄降伏の祭りを行っていたのではないかとみている。『余目氏旧記』の「しほがまの明神とあらはれて、大同元年 に宮城のこほりに立給ふ、当永正十一年まで七百九年に成給ふ、昔は当国諸郡に神領有。」の一文を引用して、大同元年(806年)に陸奥の六所明神は成立 し、「どうも和泉三郎の寄進とあるところを見ると、大体奥州の国府は秀衡がうつしたらしく見られるので、その時に塩竈神社も移したんだろうと思う。平安末です。」と述べている。『こほり』とは国府のことであろうか。

 塩竈神社の遷宮についての史料は無いが、『神祇志料』に「塩竈神社今宮城郡塩竈村千賀山にあり、昔は神竈社の地に在りしを、後今の地に遷せり。塩竈を以 て霊とす。今本社の南、祭殿是なり。」とあり、『利府町誌(P289)』は、「塩釜神社の社人二九家のうち一五家が加瀬村に居住し、これにかつて加瀬村に 居住し藩政初期塩釜に移転した二家、さらに塩釜神社の元禄造替後、古内村只州神社に移転した只州太夫鎌田家を加えれば社人三〇家のうち、一八家が加瀬村に 居住していたことになる。(略)当時、加瀬村から塩釜神社に通うには、曲折の多い狭隘な急坂を越えなければならず、山犬や狼の危険もあったに相違いない。 それなのに、どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住したのだろうか。とくに塩釜地主の神といわれる岐神、すなわち塩土老翁神を祭る別宮の一の祢 宜、二の祢宜、若子がすべて加瀬村に居住していた。これは別宮が右左宮の後に出来たとも考えられるし、留守家分限帳さとの人数十七家のうち別宮分と後に加 えられた神官が加瀬に住んだとも考えられ塩釜神社三社の成立と関係あるかもしれない。」と塩竈神社の社人が加瀬村に多数住んでいたことを指摘している。

 塩竈神社に蝦夷政策が関係しているのは間違いないと思うが、一森山への遷宮については、この度の東北地方太平洋沖地震を経験したために、平安時代の自然災害が影響しているのではないかと思うようになってきた。
 天長七年(830)年正月に、隣の国出羽で地震があり、秋田城に被害をもたらした。承和四年(837)四月には、現在の鳴子温泉辺りで火山の爆発があっ たという。そして貞観十一年(869)五月に、陸奥国で大地震が発生した。この地震で多賀城は倒壊したそうで、津波が城下(多賀城のことと思われる)にま で押し寄せたという記録もある。六所神社が多賀城の傍にあったとすれば、地震か津波の被害を受けたかもしれない。立て直しが必要になったとしたら勿論だ が、たとえ大きな被害を受けなかったしても、何れ来るかもしれない大地震や津波に備えて、山の上へ遷宮するというのはあり得ることだと思う。因みに前々か ら、南宮明神が多賀城の西に位置しているのが不思議でならなかった。現在の位置まで流されたのであろうか。それとも津波の及ばない辺りに立て直したのだろ うか。余所の六所でも洪水で流され、お宮の位置が変わることがあったようだ。山哉曰く、総社は平安末頃に出来たといい、これが本当なら貞観までの被害は受 けていないことになる。


                     参考文献『東国の歴史と史跡/菊地山哉』『多賀城市史1 原始・古代・中世』