2011年6月5日日曜日

中鉢美術館『えにしえの名刀展』


 開催から大分日が経ってしまったが、『中鉢美術館』の『えにしえの名刀展』へ行く。

 先月の大型連休初日に初めて『中鉢美術館』を訪れ、思いがけず館長の中鉢さんとお話しする機会を得た。刀剣をはじめ色々なお話を聞かせて頂いたのだが、そ の中に『えにしえの名刀展』を開催するという案内があった。この展示会のために『村正』をはじめ何口かの刀が用意されるということでとても楽しみなのだ が、加えて開催中(5/14~8/28)の入場料は全て義捐金として寄付されるという。これは是非参らねばなるまい。

 『中鉢博物館』に到着するが、とくに展示会を宣伝するようなものは見かけられず、いつもと変わらぬ外観の様子。前回は券売機で入場券を購入したが、今日 は受付の若い男性に直接入場料を支払う。名刀を眺められる上に、郷土への一助となれば、まさに二つのよろこびを同時に得られる。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山

・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上

・太刀 正真
・太刀 行平
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・太刀 菅原國長
・脇指 長吉
・脇指 村正
・脇指 (村正)
・刀 奥州仙䑓住安倫 武州江城住大和守安定(ウラ)仙䑓住人山野加右衛門永久監之
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作


 先日のお話の通り、村正の脇指が二口展示されていた。その内の一口は銘を作為的に潰し消されたものを、沢口希能博士が科学的手法で表出させたものだとい う。村正は世に言う妖刀伝説や、笹の葉の逸話に代表されるように何故か正宗と絡んだ俗説が多く、「相州正宗の門」とも称されるがこれは誤り。隣には村正の 師とされる長吉が展示されていた。 
 今回の目玉はやはり正真だろう。正真は友成と並ぶ古備前の祖正恒の子だそうで、その正恒は奥州舞草から移住した有正の子と伝えられる。正真が正恒の子な ら有正の孫か曾孫にあたるだろうか。正真が古の名刀として展示されるのに相応しいのは言うまでもないが、奥州の血脈を受け継ぐということでの中鉢美術館の 拘りがあるのだろう。
 ところで、宗近と同人であるという『我里馬』は元々奥州の人で、宗近は大和名なのだという。その『我里馬(k-arima)』と『有正(arima- sa)』は音が似ているのは偶々だろうか。『有(ari)』の字のつく名は『有成(ari-n-ari)』『有氏』『有永』等が居るし、そういえば『友成 (tomon-ari)』にも含まれている。

 中鉢さんは来館者を見つけては説明をしてまわられていたが、私に気付いてわざわざ話しかけて下さった。まだ二度目の来館なのだが、私の顔を憶えていて下 さったようだ。会話は来週の総会についてと軽くに留まり、「ゆっくり見ていって」とお気遣いの言葉を残して、新たな入館者のもとへと向かわれた。



 以下、『日本刀銘鑑(本間薫山 校閲/石井昌國 編著)』より。異体字の使用できないものは、□と()であらわした。
 「有行」舞草。有正の父という。出羽にてもうつと。大治という。
 「有正」舞草。安房弟。近霧同人という。保延ころ。陸奥。
 「有正」舞草。有正子。出羽・越前にてうち、のち備前にうつる。奥州太郎と号す。古備前初代正恒の父という。平治ころ。陸奥。
 「正恒」古備前。陸奥有正子。また同人ともいう。鬼切(長享)、足利又太郎忠綱の綱切太刀(観智)、太政大臣入道殿太刀の作者とあり。奥州太郎。永延という。備前
 「正真」古備前。正恒子という。建暦ころ。備前。〈注〉〈二振の太刀を経眼しているが、やはり正恒系とみえる。(薫山)〉
 「有成」宗近同人、また子という。奥州有正の門ともいう。悪源太義平の「石切」をつくる。一条院御宇。永延また正暦という。河内。
 「我里馬」陸奥秀衡の鍛冶。猛房子、鬼王丸弟。岩井郡住。応保ころ。「我里馬」は「我□(日+与のような字。旦+馬に見えるが…)」と観智院本にあるが 「我弖為」の誤写で、「我弖為」はえぞ人名である。例えば『続日本紀』にしるされる「夷大墓公阿弖利為」などであって、応保(一一六一)のころ平泉鍛冶カ テリイは猛房(もうふさ、舞草)の刀工で、藤原秀衡の抱工であるという。後世剣書は烏丸、我里宇丸、雁田丸、刈田丸、刈宇丸等の作者という。
 「雁宇」舞草。猛草子。元暦前という。我里馬同人か。
 「雁宇丸」秀衡の鍛冶。出羽鬼王丸の弟という。我□(弓+与)ときるという。雁田丸、刈田丸、我里馬いずれも同人か。応保ころ。〈注〉〈剣書では「我□(弓+与)」が古くのち我里馬となりさらに雁宇に転じ雁田となる〉
 「刈田丸」三条吉家の隠銘という。また陸奥我里馬同人ともいう。永延という。山城。〈注〉〈各系の伝承が混同している。秀衡の鍛冶我弖流為(我弖我里馬)よりきたようである。したがって平安最末のころとみるべきである〉

2011年5月1日日曜日

震災後に訪れる一関


 東北関東大震災以降、久しぶりに一関へ。

 東北関東大震災後に一関を訪れるのは今日が初めて。ずいぶんと久しぶりな気がする。宮城もそうだが、内陸部の被災状況はそれほど多く伝えられないので、 どんな様子なのかとても気になっていた。一関市博物館のサイトを見る限り、収蔵品や建物に大きな被害は受けていないようで安心したが、観音山は果たしてど うだろうか。


 先ず厳美渓へ行ってみる。震災の影響でガラガラなのではないかと思っていたが、まずまずの賑わいだった。今日は雨 のせいか、水量が多いようだ。『岩手・宮城内陸地震』の後に訪れたときは、ずいぶんと水嵩が減っていたのが印象的だった。渓流を眺めていると、名物『かっこうだんご』がロープを伝っていく様子が見られた。こういった何気ない一コマが、経済的や心情的な盛り上がりに繋がっていくように思える。


 さて次は一関市博物館。被災地では被害を受けて休館を余儀なくされている博物館や美術館がある。そんな中、こうして見学に訪れることが出来るのは有難いことだ。


・刀 (額銘) 建武寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・短刀 寶壽
・刀 奥州仙䑓住國包
・刀 一関士宗明作(ウラ)応西尾守房需
・脇指 明弘
・短刀 玉英
・太刀 行光
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・刀 万歳藤田近江守藤原継平(ウラ)天明三癸卯年八月日
・刀 備前介藤原宗次(ウラ)文久四年二月日

・先込式大筒 宗明(ウラ)(金象嵌銘)雲月
・火縄銃 一関住源充正造之応需上鍛
・傍装雷火銃 臣久保田宗明充正作 安政五年二月吉日

 
 もし建物や刀が被害を受けていれば、こうして当たり前のように見学することは出来なかったかもしれない。今こうして刀を眺められることに感謝せずにはいられない。
 今回面白かったのは、宗明の銃三挺が展示されていたことだ。宗明がもともと鉄砲鍛冶だったことは知っていたが、実物を見るのは初めて。


  最後は観音山へ向かう。バイパスはいつもと変わりなかったが、一関市内の道路は端などに隆起や陥没が見られ、ここにも震災の爪痕が残されていることを実感 した。そういった道は気をつけて通ればなんてこと無いのだが、困ったことにいつもの道(14号線)が通行止めとなっており、大きく迂回する羽目になってしまった。知らない道を進んだため、かなり迷ってしまい、相当時間を無駄にしてしまった。

 観音山は立入禁止というような事態にはなってお らず、また儛草神社もこれといって被害を受けてはいないようで一安心。ただ、『舞草神社西遺跡』の標柱が倒れてしまったようで、木に括り付けられていた。  地震の影響を受けたものか不明だが、『舞草小戸山遺跡』の標識の傾きが一層ひどくなったような気がする…。

2011年4月30日土曜日

日本刀の源流『中鉢美術館』

 今日は岩出山にある『中鉢美術館』へ行ってみる。


  大型連休前に、ネットで偶然『中鉢美術館』を見つけた。刀剣、それも奥州刀に重きを置いているようで、宮城県内にあるらしい。これまでその名を全く聞いた ことがなかったが、いつ頃からあるのだろうか。場所は岩出山で、先日の震災で被害を受けた有備館の近くらしい。はじめは一関の序でに行ってみようかとも 思ったが、一関市博物館と観音山のセットで半日ほどかかる。それに初めて行く場所を加えるのは厳しいと考え、それぞれ別の日に行くことにした。かわりに鳴 子の三条山を組み合わせることにする。

 連休スタート当日まで、岩出山・鳴子方面と一関のどちらを先にするか決めかねていたが、午前中が不意の用事で潰れてしまったため、初日は午後からでも十分間に合いそうな『中鉢美術館』を選ぶことにした。
 震災の影響なのか、県外ナンバーが殆ど見当たらず、交通量もいつもの週末と変わらない。生憎の天気で小雨がぱらついていたが、渋滞も無くのんびりと行くことが出来た。大衡村の分岐点で左側の羽後街道へ進む。
 目的地の中鉢美術館は有備館駅のすぐ傍にあった。道路を挟んで向かい側には有備館と大きな公園があり、とても見晴らしがいい。

 入り口正面のフロントで料金を払おうとしたところ、券売機での購入を促された。入場券を渡してパンフレットと展示目録を受け取っていると、奥から男性が 現れ、私を一瞥してフロントから出てきた。フロントの左手には部屋が二つあり、男性はメインと思われる右奥の展示室へ消えていった。会計を済ませ、入り口 側のもう一つの展示室へ入ると、そこには数多くの具足が展示されていた。隣の部屋には先客がいるらしく、先ほどの男性との話し声が聞こえてくる。早く刀が 見たかったので、甲冑の見学もそこそこに隣の部屋へ移動することにした。 
 室内に入ると、先ず右手に佐藤矩康先生御夫妻や日本刀のルーツについてのパネルがあり、この部屋の導入部となっている。そして残る三方と中央のショウケースに、数多くの刀が展示されている。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上
・太刀 宗吉
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・太刀 行平
・太刀 行利
・刀 奥州仙䑓住安倫 武州江城住大和守安定(ウラ)仙䑓住人山野加右衛門永久監之
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)
・太刀 法華三郎信房 (九代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作


 「日本刀の源流」と銘打つだけあって、奥州刀を中心に質・量共に素晴らしい展示内容である。舞草系三口、月山系三口、玉造系五口、その他俘囚として移住 した者や、奥州鍛冶の影響を受けた系統の作など七口と、価値のある古刀が惜しげもなく展示されている。中でも『閉寂』は在銘最古の奥州刀なのだそうだ。玉 造系というのは馴染みの薄い呼称だが、宝寿はこの系統だという。奥州の古鍛冶といえば舞草と月山のイメージだが、我がルーツの一つ玉造にも鍛冶集団があっ たというのは嬉しいことだ。三条山もこれに関係するのだろうか。
 新刀は国包と安倫、現代刀は法華三郎信房がそれぞれ代表として展示されていた。因みに国包と八代目の法華三郎信房は同じケースの中に展示されており、こ れは法華三郎信房が国包を写したものを、オリジナルと見比べられるようにとの演出だそうだ。素人目には一目で違いが判らない見事な出来だ。それにしても、 初代国包がこの展示室内では随分大人しく見えてしまう。

 その他、紀元前の青銅剣、奈良時代の直刀・刀子・倒卵形鐔など刀剣史上貴重な品が展示されており、何れもレプリカではない。中でも感動したのは平安中期 以前の上古刀である。以前から毛抜形太刀や古太刀といった、在銘太刀以前の進化の過程を見てみたいと常々思っていたが、今日ついにそれが叶った。今まで上 古刀を見る機会は何度かあったが、何れも直刀ばかりであった。しかし、目の前にあるのは日本刀完成以前の湾刀である。こういった蕨手刀から鎬造の湾刀の中 間がすっぽり抜けて、刀剣のミッシングリンクとなっていたらと考えると恐ろしくなる。

 一通り見終わり、次はじっくり見て回ろうと二巡目を始めたところ、美術館の男性が「刀はお好きですか?」と声をかけてきた。先客が帰ったので、わざわざ こちらへ挨拶に来てくれたのだろうか。世間話を五分もすれば終わるだろうと思っていたが、刀剣や歴史についてやたら詳しく、つい話し込んでしまった。そし て話をしているうちに目の前の男性がこの美術館の館長であり、舞草刀研究会の中鉢さんだということが判明し、二度驚いてしまった。ネットでこの美術館で見 つけた時、『中鉢』という名前と奥州刀の二つのキーワードから、真っ先に『舞草刀研究紀要』の中でよく見かける中鉢氏の名を連想した。しかし、確か同氏は 一関在住と記憶していたので、まさか岩出山にいるわけはない。それに『舞草刀研究紀要』で見た顔写真に比べて、かなり痩せているので同一人物とは全く気が つかなかった。大変な失礼をしてしまった。なんでも奥州刀を展示できる美術館の建設を思い立ったが、当時住んでいた一関に建てることができず、次の候補地 として生まれ故郷の岩出山を選んだのだそうだ。そして、一年ほど前に、様々な人達の協力もあって、この美術館を完成したそうだ。創立が最近のことと知っ て、少々安心した。それにしても、まずお会いできる機会が無いだろうなと思ってい方が、こうして目の前にいる。人生わからないものだ。
 刀剣そのものだけでなく、それに関わる人々や業界のお話なども沢山して頂き、私のするつまらない話や質問にもいちいち応えて下さった。中でも最も印象に 残ったのは、先日の東北関東大震災の大きな揺れで館内の新刀が落下してしまったが、古刀はびくともしなかったという話だ。鉄屎を求める人々の話も面白かっ た。

 しばらく立ち話を続けていたら、奥様に「こちらへどうぞ」と誘われてロビーへ移動し、お茶を御馳走になってしまった。恐縮しながらも頂戴し、引き続きお話を伺った。
 中鉢さんは頻りに、刀や人は自然と集まってくるということを仰有っていた。館内の収蔵品は全て中鉢さん独りの力で収集したものではなく、中には「ここに なら間違いない」と提供を申し出る方もおられるそうだ。中鉢さんがこれまで舞草鍛冶をはじめ、奥州刀の研究などや発展のために寄与貢献されてきたことが大 きいのだろう。刀剣の知識や刀剣そのものを求める段階から、刀剣界に尽くす段階へ進まれている。個人で刀剣の美術館を創立するなど、只の道楽では決して出 来ることではない。また、後進の育成についても意識されているそうで、若い人を気にかけているようだ。刀鍛冶や研ぎ師に憧れる若い人が、中鉢さんに相談を 持ちかけることがあるそうで、応援したりアドバイスをすることもあるそうだ。 
 私が中鉢さんと邂逅したのも、刀を通しての縁だ。「以○会友」という言葉があるが、この出会いが「以刀会師」となればいいのだが。

 尚、中鉢美術館では二週間後に『いにしえの名刀展』という企画展を開催するそうで、テーマは「日本刀の源流たる奥州刀をはじめ、それに関わる諸国の名刀 の展示」。刀への関心が薄い一般の方々にも向けて、一度はその名を聞いたことがあるだろう、村正を展示するそうだ。奥州刀について沢山の人々に知ってもら いたい、見てもらいたいという思いが伝わってくる。会期は5月14日から8月28日までで、なんと入館料は全額被災地に寄付されるそうだ。一部なら兎も 角、全額というのは中々出来るものではない。崇高な理念の基に開催される企画展なので、一人でも多くの方々に足を運んで頂きたい。
 
 話に夢中で随分と長居してしまったので、名残惜しいがお暇することにした。予定していた三条山は諦めることにしたが、大変有意義な時間を過ごすことがで きた。奥州鍛冶及びその流れを汲むの名刀の数々を見ることが出来たのもよかったが、なによりも素晴らしい出会いを得ることが出来た。そういえば三条山につ いても詳しくお聞きすればよかった…。

 宮城県内に刀剣を中心に扱ったスポットがあるのは大変有難い。これから足繁く通おう。



 以下、『日本刀銘鑑(本間薫山 校閲/石井昌國 編著)』より。
 「上一」舞草則常同人ともいう。大宝・天平ともしるし、天国の門ともいう。大和。〈注〉銘文の始源例。銘字は符号から始まるともみられる。
 「上一丸」奥州玉造郡住。のち大和にうつり宇陀に住すという。
 「家則」舞草。宮城玉造郡住。元暦という。
 「家則」舞草。宮城玉造郡住。建長ころ。〈注〉玉造は平泉の南、玉造軍団の在所。「太平記」に三の真国ありという。
 「真国」舞草。三の真国という。元暦という。陸奥。〈注〉奥州宮城郡の刀工。鬼丸をつくるという。(太平記)この真国が鎌倉に来て山内鍛冶の祖ともなるという。ただし作例はない。
 「真国」陸奥同人という。元暦という。伯耆。
 「貞房」舞草。宮城玉造郡住。文保ころ。

2011年3月13日日曜日

薬師堂、志波彦・鹽竃神社(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災三日目)

 震災三日目。昨日は新寺通りの寺を十宇ばかり見てきたが、どの寺も石仏や石灯籠に被害を受けていた。今日は『陸奥国分寺薬師堂』を見に行ってみることにする。

 薬師堂北方面から向かい、先ず公園内の準胝観音堂を見てみたが、やはり石仏が数体倒れていた。何れも損壊はしてはおらず、お堂も無事だった。

 次は薬師堂へ。西側から敷地に入ると、社務所前の倒れた石灯籠が目に入る。





 山門の方まで目をやると、参道脇の石灯籠が全て倒れていることがわかる。




 社殿も被害を受けたようで、窓の木枠が外れかかっていた。中の状況はわからないが、この程度で済んだのは幸いで、宮大工と神社建築技術の賜というべきだろうか。
 白山神社は入り口に紐が張られており、境内に侵入できなくなっていた。敷地の外から見る限り、お堂は無事のようだが、石灯籠が倒れているようだった。

 薬師堂は大きな被害を受けずに済んだが、志波彦神社と塩竈神社果たして無事なのだろうか。ラジオから得た情報によると、海の側は甚大な被害を受けたらし い。現在、バイパスの西側はどんな状況なのだろう。テレビもネットも使えないのでまとまった情報や映像が全く得られない。どうしても気になるので、危険な ら無理せず引き返そうと決め、塩竈へ向かう。 


 震災後に車を運転するのは、今日が初めてだ。信号が止まったままなので、そばの大通りに出るだけでもたいへんだ。最初の交差点で親切な方が路を譲ってく れたので、すぐに右折することができた。大きな通りに出てしまえば、あとは流れにそって行くだけだ。緊急事態なので、誰もが慎重な運転を心掛けているよう だ。しかし、扇町一丁目の交差点で、事故現場に遭遇してしまった。すでに警察官が実況見分をしているようだった。道路に男性が一人横たわっている。

 いつものように仙塩街道を走っていると、中野栄駅を過ぎた辺りから通行規制をしているようだった。ここから先は進めないのかと思いきや、片側交互通行 だった。前の車について行くが、極端にスピードが遅くなる。まさかここまで津波が来るわけはないし、道路に大きなヒビでも走ったのだろうか。しばらくすれ ば、規制区間も終わるだろうと高を括っていたが、どうも様子がおかしい。やがて信じられない光景が目に飛び込んできた。路は泥だらけで、沢山の車輌が車道 の両脇に止まっている。どの車もまるでスクラップ場の廃車のようだ。その横を徒歩や自転車で往来する人や、忙しそうに作業する人。普段から交通量は多い が、人通りが多いイメージは無い。一体何があったのだろう。戦争でもあったのかと思わせる、非現実的な風景。仙台から僅か数キロの多賀城市内とは思えな い。一体何があったのだろう…。徐行は続き、通行規制区域内では、家屋、車体などの撤去作業が行われていた。緊急の用があるわけでもないのにこのまま進ん でいいものかと迷ったが、この惨状を目の当たりにすると余計に神社が心配になってくる。
 後でわかったのだが、津波の影響で砂押川が氾濫し、周辺の地域が川の水に飲み込まれてしまったそうだ。道端の車は、その時流されたものだったのだ。車体 を流すほどの激流とはどれほど凄まじいのだろうか。想像もつかない。情報源が乏しいとはいえ、今まで多賀城がこんな悲惨な状態になっていたなんて、全く知 らなかった。
 
 念仏橋の辺りからスピードが出せるようになり、塩竈神社に無事辿り着くことが出来た。
 この非常事態に神社を訪れる人など少ないと思っていたのだが、駐車場には沢山の車が駐車されていた。神頼みに来たのか、それとも無事を感謝しに来たのだ ろうか。ところが境内には人の姿は殆ど見られない。やはりこんな時に、神社を訪れる人などいないようだ。恐らく駐車場の車は、避難のために停められている のだろう。

 先ず志波彦神社へ向かうが、正門が閉まっていて中に入ることはできなかった。何か被害を受けたのだろうか。心配である。




 一方、塩竈神社は境内に入ることが出来、門前の灯籠が一基倒れている以外はこれといった損害は無さそうだった。それにしても、いつもは多くの参拝客が訪れる拝殿に、今は人っ子一人いない。日曜の日中にこの状況は、一生に一度あるか無いかの希有なものだ。


 塩竈神社が津波の被害を受けずに済んだのは、当然神社が山の上にあるからだが、どうも元々一森山に鎮座していたわけではないらしい。

 菊地山哉の説では、塩竈神社はそもそも『六所神社』であり、陸奥の六所も多賀城の傍にあったのだという。蝦夷征伐のために六所が始まり、六所神社は国府 祭を行うために必ず国府の傍にあり、国司が夷狄降伏の祭りを行っていたのではないかとみている。『余目氏旧記』の「しほがまの明神とあらはれて、大同元年 に宮城のこほりに立給ふ、当永正十一年まで七百九年に成給ふ、昔は当国諸郡に神領有。」の一文を引用して、大同元年(806年)に陸奥の六所明神は成立 し、「どうも和泉三郎の寄進とあるところを見ると、大体奥州の国府は秀衡がうつしたらしく見られるので、その時に塩竈神社も移したんだろうと思う。平安末です。」と述べている。『こほり』とは国府のことであろうか。

 塩竈神社の遷宮についての史料は無いが、『神祇志料』に「塩竈神社今宮城郡塩竈村千賀山にあり、昔は神竈社の地に在りしを、後今の地に遷せり。塩竈を以 て霊とす。今本社の南、祭殿是なり。」とあり、『利府町誌(P289)』は、「塩釜神社の社人二九家のうち一五家が加瀬村に居住し、これにかつて加瀬村に 居住し藩政初期塩釜に移転した二家、さらに塩釜神社の元禄造替後、古内村只州神社に移転した只州太夫鎌田家を加えれば社人三〇家のうち、一八家が加瀬村に 居住していたことになる。(略)当時、加瀬村から塩釜神社に通うには、曲折の多い狭隘な急坂を越えなければならず、山犬や狼の危険もあったに相違いない。 それなのに、どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住したのだろうか。とくに塩釜地主の神といわれる岐神、すなわち塩土老翁神を祭る別宮の一の祢 宜、二の祢宜、若子がすべて加瀬村に居住していた。これは別宮が右左宮の後に出来たとも考えられるし、留守家分限帳さとの人数十七家のうち別宮分と後に加 えられた神官が加瀬に住んだとも考えられ塩釜神社三社の成立と関係あるかもしれない。」と塩竈神社の社人が加瀬村に多数住んでいたことを指摘している。

 塩竈神社に蝦夷政策が関係しているのは間違いないと思うが、一森山への遷宮については、この度の東北地方太平洋沖地震を経験したために、平安時代の自然災害が影響しているのではないかと思うようになってきた。
 天長七年(830)年正月に、隣の国出羽で地震があり、秋田城に被害をもたらした。承和四年(837)四月には、現在の鳴子温泉辺りで火山の爆発があっ たという。そして貞観十一年(869)五月に、陸奥国で大地震が発生した。この地震で多賀城は倒壊したそうで、津波が城下(多賀城のことと思われる)にま で押し寄せたという記録もある。六所神社が多賀城の傍にあったとすれば、地震か津波の被害を受けたかもしれない。立て直しが必要になったとしたら勿論だ が、たとえ大きな被害を受けなかったしても、何れ来るかもしれない大地震や津波に備えて、山の上へ遷宮するというのはあり得ることだと思う。因みに前々か ら、南宮明神が多賀城の西に位置しているのが不思議でならなかった。現在の位置まで流されたのであろうか。それとも津波の及ばない辺りに立て直したのだろ うか。余所の六所でも洪水で流され、お宮の位置が変わることがあったようだ。山哉曰く、総社は平安末頃に出来たといい、これが本当なら貞観までの被害は受 けていないことになる。


                     参考文献『東国の歴史と史跡/菊地山哉』『多賀城市史1 原始・古代・中世』

2011年3月12日土曜日

国包の墓の被害(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災二日目)

 震災二日目、一族の墓のことが気になるので、様子を見に行くことにする。


 昨日、神棚と仏壇を片付けたあと、近所の尼寺にある我が家の墓のことが気になりだした。墓場は一体どんな状況なのだろうか。かなりの強い揺れ(震度6)だったので、竿石の倒壊が心配だ…。

 外の様子も知りたかったので、昼食後に墓を見に行ってみることにした。
 震災後、最初の外出。信号が止まっていることに初めて気付く。

 尼寺に着いたものの、敷地内に立ち入ることは出来ず、墓の状態を確認することはできなかった。しかし、遠くから見る限りどの墓も無事のようだった。我が 家の墓は、祖父が早世した我が子の供養のために、東仙台の『大蓮寺』から三~四キロの道程を一人で運んだものなのだそうだ。宮城沖地震の際に倒れてしまい、傷を修正するために竿石がやや細くなってしまったそうだ。今回は無事で良かった。


 一安心し、その足で国包の墓がある善導寺へ行ってみることにする。
 新寺通りを目指しながら歩いていくと、いつもと変わらない風景があった。しかし、宮城野陸橋を歩いていて、視覚障害者用誘導ブロックとアスファルトの間 に長い亀裂が生じており、震災の爪痕を実感した。建物に関しては、大きく損壊しているものは見あたらなかったが、細かいヒビが入っていたり、タイルなど壁 の一部が落下しているものが幾つか見受けられた。

 ここまで大きな被害は無いようだったが、『道仁寺』の前に差し掛かって、目を疑った。正門が完全倒壊している。





 この他、通り沿いの寺は石仏や石灯籠などが軒並み倒壊していた。嫌な予感がする。


東秀院


林松院


林香院


 善導寺も例外ではなかった。よりにもよって、初代と五代目の墓が倒れていた。

 どうやら初代の墓石は前に倒れ、真下の香炉にぶつかって地面に転がったようだ。全面の法号『慧眼了真信男』の『慧』の字に白く長い筋が走っている。 『丰』の辺りに大きい傷が付いるが、これは以前からあったようだ。宮城沖地震の際に出来たものだろうか。香炉は今回の地震で欠けたのかわからないが、もし 宮城沖地震の時だとしたら、角がとれていたために、大きな傷が付かずに済んだのかもしれない。割れたり、大きく欠けなかったのは幸いだが、何だか顔に傷が ついたようで痛ましい。





 一方、五代目は真後ろにうつ伏せになって倒れている。墓石の後背に傷があり、左下の外柵が欠損しているので、大きな揺れのために斜め後ろに倒れ、外柵にぶつかり右横にうつ伏せになったのではないだろうか。倒れたのが土の上で良かった。





 その他、標識や記念碑などは一切無事である。しかし、隣の敷地の石仏などが無残にも転倒していた。





 『刀剣美術』の第83号(昭和38年9月10日)に日刀保の宮城県支部が『仙台国包の墓』という記事を寄せており、その中で「国包代々の没年、戒名については一部は誤り伝えられている向きも見受けられるが、火災のため焼失し、寺に過去帳も残されていない現在では墓標が唯一の手がかりなので、墓標に刻まれ ている文字をそのまま掲記してみると次の通りである。なお碑面は風化のため文字の判読が困難なものもあり、特に五代、八代等は、石質の関係もあって幾許もなく文字も消滅することが予想されるので、なんらかの方法で後世に記録を残す必要が痛感される次第である。」と碑面の状態について危惧している。拓本を取っておくべきとは安易な発想だろうか。今なら、3Dスキャナーなどのデジタル技術でデータをとることも可能だろう。五代目はうつ伏せの状態なので、碑面がどのようになっているのか、今の時点では残念ながら確認できない。

2011年1月3日月曜日

『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』

 今年の塩竈神社博物館の新春特別展は、『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』だそうである。

例年なら初詣は三が日を避けるのだが、今年は気紛れで正月の三日に参拝へ出かける。今年の新春特別展は、奉納太刀の特集のようで楽しみである。
   しかし、やはり混んでいた。途中まで順調だったが、3号線と35号線の交差点手前から急に混み出し、遅々として進まない。何度も引き返そうと思ったが、時 間が半端で他に行ける所もない。渋滞にウンザリしていると、パトカーがアナウンスを始めた。どうやら駐車場まで、一時間待ちらしい。駐禁解除区域が設けら れているそうなので、そこに車を停める。神社まで坂道を歩くことになったが、然したる苦ではない。




  今回圧巻だったのは、一階の展示物の殆ど全てが太刀と拵だったことだ。なんと、現存する藩主奉納太刀三十五口全てが展示されている。以前から現存する奉納 太刀と拵を一通り見てみたいと思ったことがあったが、まさか本当に、それもこれ程早く実現するとは夢にも思わなかった。

・太刀 安倫
・太刀 家定
・太刀 重次
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 重勝
・太刀 家定
・太刀 来國光
・太刀 兼次
・太刀 源兼次
・太刀 包蔵
・太刀 包吉
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 兼次
・太刀 安倫
・太刀 永茂造
・太刀 兼次
・太刀 藤原國包
・太刀 騰雲子包光
・太刀 包倫作
・太刀 安倫
・太刀 騰雲子包光
・太刀 永茂
・太刀 田代秀太郎長俊(ウラ)文政十三年二月日
・太刀 藤原國包作
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 包蔵
・太刀 國次
・太刀 兼次
・太刀 國包(ウラ)天保十三歳八月日
・太刀 田代秀太郎藤原長俊造之(ウラ)天保十三年八月日
・太刀 國次(ウラ)天保十三年八月吉日

・別当法蓮寺記(安永三年頃)
・一宮秘蔵記(宝暦八年頃)
・鹽竈社寶物記(文久二年)
・一宮御寶庫御寶物録(安政四年)


  『一宮御宝庫御宝物録』の解説によると、寛政四年と文政十二年に宝蔵が盗難にあったという。現存しない『家定』、『包吉』、『安倫』、『国次』の四口は、 この何れかの時に盗まれたのだろうか。刀身が失われて残った糸巻太刀拵が、三口展示されていた。いつもなら拵だけでも何も気にせず見入るのだが、事情を知 ると複雑だ。

 メモをとりながら見学していると、隣にいた女性に「お好きなんですか?」と声をかけられる。突然のことに、「あ、はい…」 としか答えられなかった。気味悪がったのか気を使ったのかわからないが、会話はたったそれだけで終了。時間が迫っていてゆっくり話をしてる余裕はなかった ので、手短に終わって良かったのかもしれないが、なんだか居た堪れない気持ちになってしまった…。

 今回は時間があまりなく、思うように見学できなかったのが悔やまれる。期間中にまた来られればよいのだが。




 『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』には、奉納太刀の目録が記載されている。

 別当法蓮寺記
    御太刀之部
一 御太刀
 一 左宮安倫
 一 右宮家定
 一 別宮家定
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥入、結緒有、各三箱ニ入。
   右ハ 吉村君御家督御相續ニ付元祿十六年九月廿六日御奉納
       左宮家定
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家次
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥各三箱入、結緒有。
   右ハ 吉村君御入部以後、始而御参詣被遊候ニ付、寶永元年七月十日御奉納。
       左宮安倫
 一 御太刀 右宮家定
       別宮家定
   但御拵、右同斷、白鞘袋結緒等、一宇右同。寶永元年九月十日、右ハ御造替
    御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納。
       左宮重勝
 一 御太刀 右宮包吉
       別宮安倫
    但御拵各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右同斷ニ付、同年同月從 前太守綱村君御奉納。
       左宮包吉
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮兼次
    但御拵一宇箱之内外共ニ右同 各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右ハ 宗吉君御家督御相續ニ付、寛保三年九月二日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家定
    但御拵等、筥入迄前々 吉村君御奉納被遊候通。
    宗村君御入部始而被遊候上、延享元年七月十日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵、筥入 吉村君御奉納之通。
    右ハ 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納。
       左宮永茂
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵等、前々御奉納之通。
    右ハ 重村君御入部以後、始而御参詣、寶暦八年七月十日被遊奉納候事。
    右御太刀三振ハ毎年七月大祭禮ニ御用立申候
    但七月大祭禮ニ付御用立申候、右御太刀ハ 御當代様ヨリ御奉納被遊候内、
    新ヲ御用立、古ヲ指置申候舊例之事。


 『鹽竃社寶物記』
  一宮鹽竃社御寶庫御寶物記
    第壹番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵一宇金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入右者 吉村君御家督御相續ニ付元祿拾六年九月廿六日御奉納也
       別宮重次
 一 御太刀 左宮家定
       右宮包蔵
    但御拵金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入結緒有右者 吉村君御入部以後始而御参詣ニ付寶永元年七月十日御奉納
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵右同斷白鞘結緒共一宇右同斷寶永元年九月十日右者御造替御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮重勝
    但御拵各三箱ニ入内外共ニ右同斷 右同斷ニ付同年同月從 前太守綱村君御奉納
       別宮兼次
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮包蔵
    但御拵一宇箱之内外右同斷右者 宗吉君御家督御相續ニ付寛保三年九月二日御奉納

    第二番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮兼次
       右宮包蔵
    但御拵箱入迄前年 吉村君御奉納之通右者 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納

    第三番
       別宮國包 白鞘無之
 一 御太刀 左宮包倫
       右宮包光
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者文化十一年八月十一日 齊宗君始御参詣之節 御奉納也
       別宮安倫 身柄關金兩方共無之
 一 御太刀 左宮包倫 袋紐ノミニテ身無之
       右宮包光 袋坐金關金壹ツ無之
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者 齊宗君御家督御相續ニ付、文化九年三月十三日御奉納也、桐之白箱ニ入結緒在各三箱ニ入
       別宮
 一 御太刀 左宮
       右宮 作者脱落
    但御拵等前年御奉納之通右者 太守齊義君御入部以後初御参詣之節御奉納、文政三年七月十九日
    右御太刀者毎年七月大祭禮ニ御用以下文意不詳御當代御奉納之物納古用新
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包光
       右宮永茂
    但御拵同前文政三年七月十九日 齊義君御奉納内外前年之通 按恐愆尤
       別宮國包
 一 御太刀 左宮長俊
       右宮兼次
    但御拵一宇前年之通文政十二年二月廿六日 齊邦君御奉納

  『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』を見比べてみると幾つかの相違がある。宝永元年の別宮が『別当~』は家次なのに対し、『鹽竃~』は重次。『別当~』の 延暦元年の三口が『鹽竃~』では宝暦七年となっている。そして、『別当~』の宝暦七年の三口が『鹽竃~』には見あたらない。鹽竃神社博物館配布の資料と見 比べてみると、「宝永元年の別宮」は重次が正解で、『別当~』の家次は誤り。『鹽竃~』の宝暦七年は延暦元年の誤り。宝暦七年は『別当~』のが正しく、 『鹽竃~』の方が抜けている。