2009年5月23日土曜日

塩釜神社博物館

 今日は約半年ぶりに『塩釜神社博物館』へ。
 
 ゴールデンウィークの刀剣見学は、質・量ともに大満足だったが、私には過食気味のコース内容であった。あれだけの量が果たして、きちんと栄養として体内に行渡ったのかどうか。それでも、一口でも多く見たいと思うのが人情というものである。卑しいだけか…。
 本日は、新しい場所へ刀剣を見に行くと、何故か足を運びたくなる塩釜神社博物館へ。


・太刀 来國光
・刀 安倫 75.4 2.4  延宝三年(1675)
・刀 國包 62.4 1.6  二代目
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
   (ウラ)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・刀 月山金利 69.2 1.5


 今回は思いがけず、『二代国包』と『月山』を見とことができた。その他、糸巻太刀拵が来国光附属のものを含め計五口、葵木瓜形鐔三点が展示されていた。何れも初見ではないが、太刀拵の美観的完成形と云える糸巻太刀、特に葵鐔はつい見蕩れてしまう。

2009年5月6日水曜日

憧れの二大博物館

 ゴールデンウィークのラストを飾るのは東京。
 また一日休息日を挟んで、今日は東京へ向かうことにした。以前から、早く行かなければと思っていた『東京国立博物館』や『刀剣博物館』を見学するためだ。貧乏旅行のために高速は使わず、ひたすら国道4号を行く。疲れを残さず東京行きを迎 えることができたが、今までで一番の長距離のため一抹の不安が残る。それに早朝の出発は辛い…。

 流石に朝早いと道路は空いているので、始めは快適に進めた。これは毎度のことである。しかし、行けども行けども東京までの距離は縮まらない…。「やっと 福島に入った」、「やっと福島を抜けた」、「やっと栃木に入った」とこんな調子である。「東京まで○○km」という案内が路肩にあるのだが、その数字がな かなか減らない。それもそのはず、 4日前は日光(約250km)まででヒイヒイ言っていたのに、さらに100km離れた東京へ向かうのである。中々着かないのは当然だ。
 それでも埼玉に入る頃には、様々な名刀に出会えることへの期待に胸を高鳴らせていたが、同時にちゃんと駐車場まで辿り着けるか心配になってしまった。

 上野駅の近くまで来られたのは良かったが、予定していた駐車場へ行くのに中央通りを右折しなければならないのに、土地勘が無いせいで左折してしまい、グ ルッと遠回りするハメになってしまった。二度目は右折できたが、上野恩賜公園の駐車場を順番待ちする車が長蛇の列をつくっており、松竹デパートの前から 中々進まなかった。
 ようやく駐車場に車を置き、「いざ国立博物館へ」と思ったら雨が降ってきた。折り畳み傘を持っていたが、「どうせ博物館に入ったら仕舞わなければならな いんだし」と何だか傘を出すのが億劫になってしまい、そのまま博物館へ向かうことにした。ところが、博物館までの距離が結構(約700m)あり、少し濡 れてしまった。
 正門で入場券を買うらしく、二ヶ所ある券売所のうち、込み合っている方に並んでみると、それは今話題の『興福寺創建1300年記念「国宝阿修羅展」』の 観覧券を購入する人達の列だった。阿修羅像を拝めるのは滅多に無いことだが、観覧料は1,500円と知り悩む。一般の二倍以上である。それに多分、相当混 んでいてゆっくり見学するのは難しいのではないかと判断し、一般券を購入することにした。こちらはがらんとしていた…。




 正門を潜ると、正面に『帝冠様式』というのだそうだが、立派な外観の『本館』がすぐ見える。これからどんな名刀に合えるのか、期待と不安が交錯する。右手にある『阿修羅展』の会場である『東洋館』を横目にしながら、『本館』を目指す。
 玄関に入ると、前方、左右と三方向に部屋が分かれており、順路がわからず一瞬迷ってしまった。取り敢えず右手から見学を始めることにしたが、それで正解 だった。先ず仏像などがが展示されている『彫刻』から始まり、『彫刻と金工』、『陶磁』、『漆工』と続き、次はお待ちかねの刀剣コーナーである。


 ・太刀 三条(名物 三日月宗近) 80
 ・短刀 来國俊(ウラ)正和五年十一月日 21.5
 ・太刀 則國
 ・短刀 □(南)都高市郡住藤原貞吉 □(文)保元年丁巳年二月吉日
 ・刀 金象嵌銘 光忠 本阿(花押) 
 ・太刀 備前國長船長義
 ・短刀 國廣鎌倉住人(裏)元亨四年十月三日 24.3
 ・刀 金象嵌銘 江磨上光徳(花押)(名物 北野江)
 ・太刀 左衛門尉藤原國友 正中元年□月日
 ・短刀 左安吉(名物 一柳安吉)
 ・刀 國廣
 ・刀 肥前國忠吉


 なんと、初っ端が『宗近』である。本でしか見たことのない、あの名刀が目の前にある。感動や興奮が起りそうなものだが、突然すぎて実感が湧かない…。宗 近は佩裏に銘をきったというのは知っていたが、本当に鋒が左を向いた状態で展示されていた。よく見れば、号の所以である所謂、三日月形の『うちのけ』が 所々に見て取れる。刀の特徴を、実際に見てみて確認出来ると、えも言われぬ喜びがある。
 
 川口陟の『定本 日本刀剣全史』によると、昔の刀剣書に「三条宗近は河内国有成同人」とあるそうで、それが本当なら、河内の有成が山城へ移住し、名を宗近と改めたというこ とになる。著者は「では何故に河内国に刀匠が発生したか、その名が有成と称する点から考察すれば、同時代の備前国に、実成、友成、介成らの刀匠があり、ま た備前正恒は奥州有正の子とあれば、これら一派の刀工らと共に、奥州から大和、河内などに移住したものと見なければならぬ。」と、名前の『成』の共通性か ら有成が奥州から俘囚として移住してきた可能性を述べている。もし、宗近と有成が同一人物であるならば、宗近も奥州と関わりがあることになる。有成は宗近 の子とするのが一般的だが、京の都からわざわざ河内へ移った理由は何だったのだろうか。
 同じく『定本 日本刀剣全史』の中で、江戸時代のものではあるが、『摂陽群談』という地誌の「三条小鍛冶宗近並国久旧屋、有馬郡小名田村にあり、旧栖家伝云、宗近、国久 出生の地、或は当領主都より呼下して剣戟を作らしむとも云へり、金床の跡、于今あり、此旧屋に住する者、宗近の誰、国久の誰と諱を以て氏と為す、世俗剣を 作れる所を金床と云へり、毎年正月、注連を曳て燈明を置り、宗近、国久等剣を作るの妙術を感じて当所の埴土、金工于今所設之、「神社啓蒙」云、稲荷社者、 金工専為主神可也、曰有小鍛冶者、造剣戟、其利無能及無及也、一旦取当山埴土、以覚堪鎔刃也、仍数為埴土来住、且拝神矣、世不構此埋、徒為金工守神、 云々」という一文を紹介している。摂津国有馬郡は現在の兵庫県南東部にあたる。
 その他、「備前住為吉の子で、永延年間に京都へ移住し、三条小鍛冶と称した」という説もあるようだ。
 ところで、菊池山哉の著作に次のような説がある。『三条』は『産所』と同じで、『守戸』に通じるという。『守戸』は『陵戸』のことで、恐らく『産所』は 『散所』と同じものと思われる。『陵戸』は古代の陵墓守衛民のことで、触穢思想から卑賤視された。菊池はこの『守(陵)戸』から『産(散)所』が出たと考 えたのだ。三条宗近の『三条』が『産(散)所』と繋がりがあるかどうかはわからないが、その筋から職人など特殊技能を持った者が出ることは考えられなくは ない。因に散所には『声聞師』、『陰陽師』、『行者』などを生業とする者がいた。奥州鍛冶の、取り分け月山鍛冶は修験者を通じて、遠く九州などにも伝播したといわれる。そういうネットワークを通じて宗近が作刀技術を習得したとは考えられないだろうか。

 閑話休題、その他『国俊』、粟田口『則国』、保昌国光の子保昌五郎『貞吉』、長船の祖『光忠』、相伝備前の『長義』、新藤五国光の子『国広』、「郷と化 物はみたことがない」でお馴染み『郷義弘』、延寿『国友』、流浪の刀鍛冶『国広』、大左の子『安吉』と名立たる名刀ばかりが展示されていた。上手く言葉に 出来ないが、何らかのイデアが名刀には内包されているとしか思えない。或いは『刀のイデア』を持つ刀剣は、見る者に深い感動を与えるのではないだろうか。
 最後を飾っていたのは所謂『五字忠吉』。これまた忠吉も指表ではなく、指裏に銘をきる。例外があるものの、太刀銘にきるのが忠吉一門の伝統となったようだ。なぜ忠吉は太刀銘をきったのだろう。更に不思議なのは、脇差は指表に銘をきっているのだ。謎である。


 ・小桜透鐔 無銘(刀匠) 
 ・弓矢雁透鐔 無銘(尾張)
 ・梅花短冊透鐔 無銘(古正阿弥)
 ・胡蝶透鐔 芸州住貞刻
 ・芹図鐔 山城國西陣住埋忠七左作
 ・八ツ蕨手透鐔 林又七
 ・猛禽補猿図鐔 無銘(志水甚五)
 ・鼓透鐔 在哉
 ・鶴丸図鐔 武陽住如竹叟行年六十歳作之(花押)
 ・牛若丸弁慶図大小鐔 (大)周斎石黒(花押)(小)周斎石黒包元(花押)
 ・月に桜花図鐔 なつを(花押)鍛清人


 鐔と小道具類も展示されており、特に刀匠の作とされる『小桜透鐔』を見ることができて嬉しかった。私は文透など刀匠や甲冑師が作ったとされる、シンプル な意匠の透鐔が好きで、視覚的情報量が少ないせいか、ずっと見ていても飽きがこない。しかし、目が慣れてくるとデザインだけでなく地金に良し悪しに目がい く。展示されている『小桜透鐔』は大変素晴しいものだった。『刀匠鐔』は、『刀盤図譜』に「上古、刀を誂えて打立ちさする時は、鐔を添えて作りたり」とあるあそうで、ここから来ているようである。


 ずっとこの空間に居たいところだが、この次の予定を考えるとそうもいかない。未練を断ち切って残りの展示室を見て回ることにする。その中で特に興味深 かったのは、『民俗資料・アイヌ・琉球』のコーナーに展示されていたアイヌの山刀と太刀だった。『アイヌの狩猟と漁撈』というテーマで、アイヌ民族の狩猟 用の道具が展示されていた。山刀は『タシロ』といい、山猟の際に携行したという。太刀は山刀や鉈と同じ使い方をし、熊など獣を猟るのにも使用したそうだ。
 アイヌの言葉で太刀のことを『エムシ(emus, - i)』といい、その語音からエミシ(蝦夷)を連想し、蝦夷はアイヌ人とする説がある。私も「刀を肩から下げる、佩刀する」ことを『エムシ・ムツ』ということから、安易に『蝦夷、陸奥』と連想してしまった。しかし、これはアイヌ人から見て蕨手刀を腰に吊るすエミシの姿が印象的で、アイヌ人がエ ミシの太刀を『エムシ』と呼ぶようになったのではないだろうか。アイヌに刀鍛冶は居らず、物々交換で刀を手に入れていたという。因みにアイヌ語で鐔は 『セッパ』というが、これは輸入語だそうで、切羽からきていることは想像に難くない。
 刀を意味する言葉は他にも『アエシポプケプ』、『シポプケプ』、『チムッペ』、『ラムコパシテプ』などが有るそうだ。アイヌ人は『エミシ』と呼ばれるこ とを嫌ったという。これは自分たちのことを蔑称的に『エミシ』と呼ばれることを嫌ったと考えるのが普通だが、もしかするとアイヌ人が『エミシ』と同一視されることを嫌ったということなのではないだろうか。

 刀剣コーナー以外は殆ど落ち着いてみる事ができず、覗いてすらいない部屋もあった。しかし、帰りの時間を逆算すると、そろそろ移動しなくてはならない。



 国立博物館をあとにし、次に目指すは『刀剣博物館』。
 地下鉄で代々木に向かい、駅を出ると雨が大分強くなっていた。折り畳み傘を出すが、雨が強くて濡れてしまう。雨の降りしきる中、大分迷ったが、どうにか辿り着くことができた。




入口には薫山、寒山両先生の胸像が


 正面玄関から中に入ると、どうやら一階は事務室で、二階が展示室になっているようだ。階段を上ると、直ぐに受付が見える。

 展示室に入ると、相当数の刀剣が目に入ってくる。帰りの時間も考えなければならないが、30分程度でまともな見学ができる数ではない。量からいって、寧 ろこちらに時間を割くべきだとさえ思える。国立博物館も満足のいく見学時間ではなかったが、あれ以上居たらこちらで許される時間が僅かになってしまったこ とだろう。


 ・太刀 兼永
 ・太刀 来國光
 ・太刀 康暦元年八月日 包吉
 ・短刀 貞興
 ・短刀 兼友
 ・太刀 月山作
 ・刀 無銘(則重 号太閤則重)
 ・刀 村正
 ・脇指 無銘(伝正宗 向井将監忠勝旧蔵)
 ・太刀 信房作(因州池田家伝来)
 ・太刀 備前國景安
 ・太刀 真則
 ・太刀 長光
 ・短刀 備州長船元重(ウラ)正和五年六月日
 ・短刀 備州長船住兼光(ウラ)暦応三年十月
 ・脇指 備州國長船兼光(ウラ)貞和三年十二月日
 ・刀 無銘(長船倫光)
 ・刀 無銘(伝長重 大島津家伝来)
 ・太刀 備州長船師光(ウラ)永和二年六月日(庄内酒井家伝来)
 ・太刀 備州長船次行
 ・太刀 備州長船家助(ウラ)永享九月八月日
 ・刀 備前國住長船五郎左衛門尉清光(ウラ)天文廿四年八月吉日
 ・太刀 是友(古青江)
 ・刀 無銘(古青江)
 ・刀 津田越前守助広(ウラ)延宝九年八月日
 ・刀 板倉言之進照包(ウラ)延宝八年二月吉日
 ・脇指 相模守藤原政常
 ・短刀 繁慶
 ・脇指 乕徹入道興里(ウラ)彫物同作
 ・刀 水心子正秀(ウラ)出硎閃々光芒如花 二腰両腕一割若瓜
 ・短刀 源秀寿(ウラ)天保五年仲冬 為涛斎主人作之
 ・刀 為村上重君石堂運寿是一精鍛造之(ウラ)嘉永七甲寅歳二月日
 ・刀 奥州仙䑓住藤原國包(ウラ)寛文五年三月吉日
 ・刀 於南紀重國造之
 ・短刀 近江大掾藤原忠廣
 ・刀 肥前國住人伊予掾源宗次
 ・刀 肥前一文字出羽守行廣


 こちらも名刀がずらりと揃っている。正直、半分以上を把握出来ない。全体的に備前ものが多いのが印象的だった。国立博物館の三条宗近の後、今度は五条兼永である。国包をここで見られるとは思わなかった。
 あまりの質と量にお腹一杯である。全ての刀を脳裏に焼き付けるのは無理である。国立博物館に続いてはしごし、しかも全てが初見。それにしても、刀剣博物館に足繁く通える人が羨ましい。
 帰りの時間が気になり、そろそろ帰らねばならなくなった。一応、受付の方に展示品の入れ替えについてお尋ねすると、年間予定の案内を頂くことができた。 是非また此処に来ようと心に決めながら、刀剣博物館を後にした。今日は国立博物館がメインだったが、量的な見応えは刀剣博物館の方が上だった。勿論、質も 負けず劣らずだ。

 一度見ただけでは決してわからない。何度でも見たい。更には未だ見ぬ刀もっとあるはずだ。それに、他にも都内で行ってみたい場所は沢山ある。上京する回数を増やさねば。
 今日は、遥々340kmを走って来た甲斐があった。もちろん、帰りもあるわけだが…。国立博物館で一日を費やしてたら、刀剣博物館での感動は無かっ た。しかし、国立博物館の見学にもっと時間を掛ければ、勉強になったり感動があったかもしれない。どうしても、少しでも多くを見たいと思ってしまう貧乏 性。スケジュールに問題があるのはわかっているのだが。出来れば泊まりがけで余裕を持って来たいものだ。
 家に着いたのは、日付が変わってからだった。腹が減ったが眠い。眠いが腹減った。兎に角疲れた…。


 後日談が三つある。一つ目は『阿修羅像』だが、たまたまTVでその特集を見たが、館内は相当な込み用で、結局は落ち着いて観られる状況ではなさそうだった。金をケチったということもあるが、混雑を予想して観覧券を購入しなかった判断は正解だったようだ。
 二つ目は、本館の二階に『武士の装い - 平安~江戸』というコーナーがあり、ここにも名刀や鎧が展示されているようなのだが、知らずに見逃してしまったということ。刀剣コーナーを見て全て見た気 になってしまっていたのだ。下調べが不十分で、更には時間に追われて他のコーナーを落ち着いて見られなかったのが原因である。本当に勿体無いことをした。 大鎧や具足の一領も見当たらないと不思議に思っていたのだが。次回は絶対二の轍を踏むまい!
 三つ目は、高熱で床に臥してしまった。世間では新型インフルエンザが問題になっており、国立博物館内に外人が結構居たので、うつされたのではないかと生きた心地がしなかった。雨に濡れて風邪を引いてしまっただけだったのだが。

2009年5月4日月曜日

蟹仙洞博物館

 本日は山形の上山へ。
  一日身体を休め、上山にある『蟹仙洞博物館』 を訪れてみることにする。前回、上山へ訪れた時はこの『蟹仙洞』のことを知らないでいた。長谷川謙三という方が個人で収集した彫漆などを展示している博物館で、刀もいくつかあるらしい。

 出発する時間が遅かったのも悪かったが、愛子を抜けるまでひどい渋滞だった。

 上山入りは何の苦もなくできたが、肝心の『蟹仙洞』は中々見つけられなかった。近くまで来ているのは確かなのだが、それらしい建物は見当たらない。この ままでは時間の無駄なので、道に立っていたお母さんに訪ねてみる。やはりそう遠くではないようで、詳しい道順を教えて頂き、道を急いだ。

 やっと着いてみると、一見蔵のような建物で、遠く離れた場所からでは絶対にわからない。




 玄関でスリッパに履き替え、係の方に入場料を払う。
 最初の部屋が刀剣コーナーだったため、逸る気持ちを押さえることなく見学をはじめられた。

 ・短刀 備州長船景光(裏)元亨二二年三月十六日  附)短刀拵 八寸二分半
 ・脇指 長谷部國重  55.45
 ・短刀 月山 附短刀拵  20.6
 ・太刀 備前長船重吉(裏)明徳三年十月日  60.9 附)菊葉紋蒔絵糸巻太刀拵
 ・刀 兼元  二尺三寸一分
 ・刀 肥前國住近江大掾藤原忠廣  70.45
 ・脇指 山城大掾藤原國包(花押)(裏)寛永十一年八月
 ・刀 長曽袮興里入道虎徹  70.9
 ・刀 和泉守藤原國定  70.75 (井上真改代作)

 ・六十二間星兜
 ・鎧櫃 結城哲雄作
 ・鳥柏葉文蒔絵太刀掛
 ・紅白糸威二枚胴具足
 ・葵紋散蒔絵短刀箱
 ・緋羅紗地葵紋短刀箱覆

 その他、鍔や小道具も多数展示されていた。そして折紙。折紙はあるが、肝心の刀がこの博物館には存在しない。盗まれてしまったからだ。詳しいことはわか らないが、重文の国次、兼光、長義、をはじめ、重美の虎徹、行平(指定無し?)、助真など名立たる名刀が悉く盗まれてしまったそうだ。図鑑などで写真を見 ることはできるが、やはり実物を見てみたかった。盗難リストに光包は無いようだが、無事なのだろうか?

 一昨日は火災による刀剣の焼失、今日は心無い者による窃盗。天災と人災によって刀が失われることについて考えさせられると、とても辛い気持ちになる。盗 まれた刀はこの世から消えて無くなったわけではないが、日の当たる場所へ再び現れるのは難しいのではないだろうか。最悪、手に入れた者が死んだ後、誰も盗 まれた刀の手入れをする者がなく、死蔵され錆びて朽ちていく…。考えただけでもゾッとするが、家に伝わる宝刀が蔵や押入の奥で、人知れず朽ちていくという 事は珍しい事ではないと思う。博物館の学芸員が旧蔵品を寄付してもらう為に、民家などを訪ね歩くそうであるが、刀を駄目にするくらいなら逸そ然るべき所に 寄贈するか、売り払うべきだと思う。刀にとっては手入れされることもなく、忘れ去られる事は大変な不幸だと思う。

 いつも博物館などでなるべく尋ねるようにしてるので、受付の方に「入れ替えはないのですか?」と聞いてみると「入れ替えも何も、殆ど盗まれてしまってね…。展示してあるのが全部です」という答えだった。私は胸が痛くなり、何とも遣る瀬無い気持ちになってしまった。

 そういえば見学中、先客の女性二人が受付の方と話しているのが聞こえてきた。どうやら何処かの研究室の方らしく、(多分)彫漆を撮影させて欲しいと交渉 していた。どうやらこの博物館に収蔵されている彫漆はとても貴重な物ばかりらしい。私は門外漢なので彫漆のことはまったくわからないが、展示されている刀 剣の質から考えると、他の展示物も一級品ばかりなのだろうなと得心出来る。話はまとまったようで、女性は後日改めて来館する約束を取り付けていた。目出度 し目出度し。

 刀を見終えた後、館内を一通り見て廻り、彫漆のコーナー(ここが一番広く充実している)へ向かう。どれも価値のあるものなのだろうが、私には見方がさっ ぱりわからない。私には見る目が無いとつくづく自分が嫌になってしまった。せめて刀を見る目だけでも養わないと。今は『好きだから見ている』に過ぎず、決 して善し悪しが解っているわけではない。
 仙台から近いし、隠れ家的な所がいいので幾度となく足を運びたいと思う。


 次は米沢へ行きたい所だが、その前に上山と米沢の真ん中にある南陽市へ向かう。『鉄と俘囚の古代史/柴田弘武』によると、南陽市の池黒というところには 『池黒皇大神社』という神社があり、そこには『宗近』の名が出てくる棟札が納められているそうだ。また周辺には、俘囚が住んでいたと思われる『別所』が地 名として残っているという。

 南陽市へは南下するだけなのでわけなく入れたが、目的地の池黒には中々辿り着けなかった。散々迷い、一度はすぐ近くの集会所まで来たのに、神社に気付かずその場からまた離れてしまった。また迷走。どうにか神社を見つけることが出来たが、相当時間を喰ってしまった。

 立派な案内に神社の由緒が書かれている。




池黒皇大神社由緒

 当皇大神社建立の起源は、桓武天皇の延暦年間(西暦七百八十二年~)、今をさかのぼること一千二百二十余年前において坂之上田村麻呂将軍東征の際、屯軍 の地として城壁を築き社を建て天照皇大神、豊受大神、鹿島大神を祀れる。故に、古来より坂之上神明神社と称するものなり。
 白河天皇の応徳三年丙寅歳(西暦一千八十六年)今より九百二十二年前、当山別当職出羽神輿麻呂により再建し奉るものなり。(当時の棟札現存し、市文化財の指定をうけている)
更に、後水尾天皇の元和年間(西暦一千六百十五年~)伊勢国伊勢山源海寺別当に請い、天照皇大神社を再び勧請し奉り天下泰平を祈る。元和七年、北条郷代官安部右馬助及び総氏子の請願により、源海寺別当、元和八年当社に転住する、都合三度の建立を経て現在に至るものなり。
 (祭礼、例大祭四月二十一日、新嘗祭九月十六日)
 源義経公奥州下向の際、当社の御神徳に浴し先勝を祈願され馬具及び甲冑を奉納せられしこと明らかなり。
又、当皇大神社より午の方(現在の猫子の地)に、義経公愛用の麗馬(黒馬)生まれし池の旧跡あり。是、池黒の名の興りし所以なり。古来より柵を廻らし、馬頭豊受大神を祀り、当社別宮として毎年四月二十一日祭礼したるものなり。
 右、皇大神社由緒なるが、古来より緒人の崇敬深厚にして、御神徳を仰ぎ奉るものなり。
    平成二十年丙子歳九月吉日


 白山神や聖観音の名が出てくるものとばかり思っていたが、ここ皇大神社は違うようだ。『当時の棟札』とは、例の宗近の名が出てくる棟札のことだろうか。




池黒皇大神社



 残念ながら棟札を見ることは出来なかった。市文化財に指定されるほど重要なのだから、社務所或いは他所で大切に保管されているのだろう。因みに棟札には次の様に記されているという。
 「応徳三年丙寅七月十有五日
  当山別当職出羽神輿麿啓白
  奉再立天照皇大神宮
    国家安泰如意祈所
  木刻師□□鍛冶三条小□宗近
  □□□」
 『鍛冶三条小□宗近』の□には、一体何という文字が入るのだろうか?宗近は『三条小鍛冶』の通り名で知られるが、三条の前に鍛冶の字は既に使われている し、鍛冶は二文字だから違うだろう。今一つ、『小狐』というのがり、これなら一文字だからしっくりくる。しかし、『小狐』は宗近の作った刀に対する通称な ので、これに果たして当てはまるかどうか。




 神社の横には道があり、羽黒神社へ繋がっているようなので、進んでみる。思った以上に足場が悪く登りがきつい。すぐ裏にあるのかと思いきや、大分歩かされてしまった。




 この裏にも道が続いていたが、これ以上進む気にはなれず、引き返すことにした。帰りは下りが多く幾分楽だったが、足を取られそうで気が抜けなかった。


 この後、米沢に行きたかったが、蟹仙洞、皇大神社と目的地を見つけるのに手間取り、すっかり時間がなくなってしまった。ゴールデンウィーク真最中で道路も大分込むだろうからと大人しく引き上げることにした。

2009年5月2日土曜日

日光東照宮宝物館

 ゴールデンウィーク第一弾は『日光東照宮』へ。

 GWを利用して遠出することにしたが、ETCを装備していないのでその恩恵を受けられず、東北、北関東圏から目的地を選ぶことにする。色々考えて、今回は日光に決める。目的地は『日光東照宮』で、お目当ては『日光東照宮宝物館』。家康公の愛刀や、奉納された刀剣が沢山あることだろう。楽しみである。

 皆、高速道路を利用しているのか、一般道はそれほど混雑しておらず、あまりストレスを受けずに日光入りできた。東照宮に着くまで少々迷ったり、駐車場までの長い列と急な坂道は大変だったが、どうにか東照宮へ到着することが出来た。


 適当に敷地内を見て廻り、『日光東照宮宝物館』へ。


 ・太刀 兼常  68.0 1.8
 ・短刀 越前康継  36.9 0.5
 ・太刀 肥前國住人忠吉作
 ・大太刀 捧伊賀守藤原金道(裏)寛永三年十一月吉日  79.5 1.4
 ・脇指 備前國住長船勝光宗光備中於草壁作(裏)文明十九年二月吉日  附)小さ刀拵
 ・大太刀 奉献上御太刀康継以南蛮鉄江戸作之(裏)寛文三癸卯年四月十七日三代目下坂  100.9
 ・太刀 和泉大掾藤原國輝 附糸巻太刀拵  70.2 2.0
 ・太刀 家次 附糸巻太刀拵  72.9 2.6
 ・長刀 備州長船景光  57.6
 ・短刀 無銘(伝行光)  26 附)合口拵
 ・太刀 守高  58.5 2.1


 一番感激したのは、何といっても初代忠吉を初めて見られたことだ。忠吉といえば『五字忠吉』が珍重されているが、展示されているのは俗に『住人忠吉』というそうだ。『肥前刀大鑑 忠吉編』には次の様にある。「慶長十八年八月から元和元年にかけて「肥前国住人忠吉作」と銘を切ったものがあるが、この場合必ず上記の如く「作」の字を入 れて八字銘に切っていることに注目したく、「作」の字のないものは四代銘か偽銘である。」


 館内の説明文によると、文化九年(1812)大晦日の夜に別所大楽院が火災が起り、宝蔵(銅神庫)にまで延焼したため、家康遺愛の品々のほとんどが焼損してしまった。その中には助平、包平、正恒、友成、助真、国宗、長光、了戒など在銘の名刀が含まれていた。なんとも残念な話だ…。その内、十五振りは 現代の刀匠により立派に再刃復元され、常時宝物館に展示されているそうだ。もし火事で焼けてしまう前の、健全だった姿を写し取った押型があるのなら、それ も一緒に展示してもらいたいものだ。

 徳川家ではその他にも火災により、名刀を焼失する災難に遭っている。川口陟の『日本刀剣全史7(江戸時代2)』に二件の事例が紹介されている。

 「慶長十二年十二月二十二日丑時(午前二時)駿府城が失火した。折から家康は心地例ならず打伏していたが、中山雅楽助信吉に助けられて事なきをえた。つ ねづね次の室においてあった刀箱二個の中、一個には三十四本の刀が入れてあったが無事に取出し、他の一個は七十二本入れてあったために重くて取り出すこと ができず、箱を打ち破って刀はみな池の中へ投げ入れたので焼失を免れたが、座右におかれた宝物は一として烏有たらざるはなかった。豊臣秀吉から贈られた白 雲の茶壺真壺、正宗の脇差、三原の脇差、獅子の笛なども焼失した。(略)明暦三年正月十八日および十九日の江戸の大火は、江戸城本丸、二の丸残らず炎上、 江戸城にあった太刀刀類千五十一腰が焼失した。いま『桜嶽斉雑妙』なる随筆によればその焼失の主なものは左のとおりである。
 ・一、無銘藤四郎(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、豊後藤四郎 一、新身藤四郎 一、シノギ藤四郎 一、飯塚藤四郎 一、庖丁藤四郎 一、米沢藤四郎 一、樋口藤四郎
 右ノ外御脇差三百枚計ノ吉光数多
  一、三吉正宗(寛明間記に三好正宗) 一、八幡正宗 一、長銘正宗 一、対馬正宗 一、横雲正宗 一、道合正宗(十河正宗の誤か) 一、シノ木宗近 (刀剣名物帳焼失の部になし) 一、小脇差行平 一、青木國次 一、三斎國次 一、不動國平(不動國行の誤か) 一、骨ハミ吉光 一、大シヤ國吉(大子屋 國吉) 一、村雲当麻(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、岐阜國次(岐阜國吉か) 一、三吉江(三好江) 一、西タカ江 一、上杉江 一、上野江 一、紀 州江 一、伏見正宗 一、蜂屋江
 此外正宗の刀数多
 右馬頭様(甲府綱重)の御道具
 一、上野紀新太夫 一、吉光の一振(一期一振のことか) 一、の法國綱 一、秋田行平 一、しめ丸行平
 此外千貫計の行平数多、百枚二百枚の御道具数多、三十腰計入箱二十計の内五箱出る、十五箱は御本丸にて焼失す」

 以上、徳川家の蒙った刀剣焼失の事例を二つ挙げたが、明暦の大火に加え、本能寺の変、大阪城落城などで焼失や行方知れずになった名物の刀剣が、いわゆる『享保名物牒(公儀本)』の中に『古来之名物焼失之部』としてまとめられている。

 『骨喰藤四郎、一期一振藤四郎、大阪新身藤四郎、江戸新身藤四郎、長岡藤四郎吉光、塩河藤四郎、親子藤四郎、庖丁藤四郎、車屋藤四郎、豊後藤四郎、樋口 藤四郎、大森藤四郎、米沢藤四郎、凌藤四郎、鯰尾藤四郎、薬研通藤四郎、足利飯塚藤四郎、大阪長銘正宗、江戸長銘正宗、八幡正宗、横雲正宗、大内正宗、弐 筋樋正宗、黒田正宗、対馬正宗、紀伊国片桐正宗、江雪正宗、秋田石井正宗、石野正宗、笹作正宗、蒲生正宗、上リ下リ竜正宗、若江十河正宗、伏見正宗、三好 江、上杉江、桝屋江、上野江、肥後熊本紀伊江、蜂屋江、大江、常陸江、甲斐江、三好江、西方江、切刃貞宗、獅子貞宗、安宅貞宗、海老名貞宗、小尻通新藤五 国光、安宅志津、善鬼国綱、大国綱、村雲久国、岐阜国吉、太子屋国吉、大国吉、ヌケ国吉、義元左文字、伊勢左文字、北野紀新太夫行平、秋田行平、注連丸行 平、地蔵行平、本多行平、御髪行平、不動国行、小国行、秋田国行、青木来国次、三斎来国次、戸川来国次、秋田則重、増田則重、実休光忠、青屋長光、縄切筑 紫正宗』

 江戸時代、『吉光』、『正宗』、『郷』を『三作』と称していて、公儀本に記載されている二三四振の内、吉光が二十三振、正宗五十六振、郷義弘が二十二振 とその持て栄しぶりがよくわかる。しかし、中には名物と呼ぶには相応しくないものが、少なからず混じっているようである。また、公儀本は享保四年当時のもので、調べ方が稚拙だったためか『焼失之部』に記載のうち幾振かは現存するそうだ。例えば、『不動国行』と『一期一振藤四郎』が『日本名刀100選』で紹介されている。
 信長の愛刀だった『不動国行』は本能寺の変の際、安土城にあり、これを明智左馬介が分捕った。しかし坂本城が落城するとき、『二字国俊』の刀、『薬研藤 四郎』の小脇差、その他茶入れや釜などの名品と一緒に肩衣に包み、天守から投げ下ろして堀久太郎に託し、自らは自害したという。こうして秀俊の英断により、せっかく国行の太刀は焼失の愁いを逃れたのだが、上出『明暦の大火』で焼けてしまったというのだ。せめてもの救いは信国重包によって再刃され、未だ現 存するといことだ。
 今一つ、短刀の上手な吉光の唯一の太刀と云っていい、『一期一振藤四郎』は大阪落城で焼けてしまった。これも焼失は免れ康継が再刃したが、『光徳絵図』にある焼ける前と比べると、殆ど別物の様だという。秀吉が約23センチも刷上げてしまったというのも、少々残念だ。

 その他、関東大震災や世界大戦で失われた刀剣も数多いことだろう。そのことを思うと胸が痛くなる。


 『二荒山神社宝物館』にも是非寄りたかったのだが、時間の都合で今回は断念。

2009年3月20日金曜日

舞草神社探訪 其之二 (後半)

 前半に引き続き、残りの遺跡巡り。


 儛草神社から戻り始めてすぐ、右手(南側)に『舞草小戸山遺跡』の標を見つける。参道よりやや低くて目立たない所に有り、危うく見落とすところだった。



 ここからは『釘』、『鉄鏃』、『土器』などが発見されたそうだ。気になるのは『鍛冶伝承地周辺図』に『舞草小戸山遺跡』が載っておらず、代わりに『舞草鍛冶遺跡』が『土師・須恵器片出土地』となっていることだ。



 行きで探索を我慢した『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡(白山岳山頂周辺)』のポイントまで漸く戻ってきた。すぐ右(西)へ道があるが、先ずは左の『鉱山跡』へ行ってみる。



 人が普段通らないために植物が生い茂っているが、不思議と道だと認識出来る。少し進むと石碑を見つけたが、鍛冶とは無関係だった。



 更に行くと岩場に出たが、これといったものは見当たらない。木の枝をかき分け斜面を登ってみるが何も見つけられなかった。どうやらハズレだったようだ。 それどころか、道無き道を来たものだから、自分がどこを通ってきたかわからなくなってしまった。兎に角、斜面を下りながら右へ右へと向かった。「ああ、 迷ったかも…」と不安に襲われたが、どうにか戻ることが出来た。大昔の修験者が山を進むのに、刀を必要としたというのを身をもって感じた。

 もう一ヶ所、人が通れる所を見つけ、何となく気になる。「迷ったらどうしよう」と少々不安を覚えながらも、先程の生還(大袈裟)で少々大胆になり、何の根拠もなく進んでみることにする。



 暫く進むと『舞草鍛冶遺跡』の標を発見!アタリである。参道脇に建つ『舞草鍛冶遺跡』の標は此処のことを指すのかもしれない。だとすれば此処から『羽 口』の一部と『鉄滓』が発見されたということになる。そうすると『鉱山跡』も他にあるということか…?地図では此処より南に白山岳鉱山跡が標されてい る。それにしてもここに立つ標識だけ古く細い。最初に発掘調査が行われた場所なのではないだろうか。





 最後は前の二ヶ所に比べると道らしい道と思える通りだ。途中、注連縄で結ばれている二本の杉が有り、少し先で道が二つに分かれている。多分、真直ぐ(西)行けばこのまま神社へ向かうか、東参道へ合流するのだろう。ここはもう一本の道へ進んでみる。



 しばらく行くと、また注連縄を見つける。ここには曾て『金鋳神像』が祀られていたようだ。



 一度道へ戻り、奥(東)へ続く道を進むと、また注連縄が。後には巨大な岩が聳える。はじめはここが何を祀っているのか見当もつかなかったが、地図にある 『鉱山跡』の場所と大体一致する。先程、難儀しながら見て廻った岩場が『鉱山跡』なのではなく、此処こそがそうなのかもしれない。



 来た道を慎重に引き返し、二本杉の通りへ戻り、西へ向かうと思った通り東参道に合流。

 

 全てを行き尽くしたわけではないし、不明な点も多々有るが、それでも一通り見て廻ることが出来たと思うので、そろそろ引き上げることにする。
 帰り道、表参道の入り口を見つける。前回、気付かないで通り過ぎていた。



 道は徐々に険しくなる。しばらくすると石段が現れるが、また消えてしまう。







 また階段があらわれ、道路を越えてると、先程引き返した道に続き、神社正面に辿り着く。この表参道の往復は半分の距離でも大変だった。本来はこちらの参道を登って神社へ至るのだろうが、現在では車で来られる東参道を利用しているのではないだろうか。



 時間に余裕があったので『一関市博物館』へ。現在は通常展示室と企画展示室は改装中のため見学出来ない状態だった。しかし、目当ての刀剣コーナーが生きていて本当に良 かった。もしそうでなかったら項垂れて帰っていたことだろう…。

・太刀 舞草 72.7 3.2

・太刀 友安 69.3 1.4
・薙刀 無銘(舞草) 66.8 3.1
・太刀 寶壽 70.1 2.4
・刀 無銘(月山) 66.5 1.7

・刀 奥州仙䑓住國包 75.5 1.2
・刀 一関士宗明作 元治元年八月吉日(ウラ)振此利刀鏖敵者誰多巻觀民 70.5 1.5
・脇指 陸中國宗明 45.3 0.9
・脇指 明弘 38.3 0.7

・太刀 行光 84.1 2.3
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 武蔵大掾藤原是一 45.2 0.9
・刀 備前介藤原宗次 文久四年二月日 71,1 1,2


 いつもは箸休め的にサラッとしか見ていなかった発掘物も、今日は遺跡を見て廻った後なので、とても興味深く見ることが出来た。『石像金鋳神像』が『金鋳神像跡』に祀られていた姿を想像してみる。

・釘(舞草小戸山遺跡)
・鉄鏃(舞草小戸山遺跡)
・羽口(舞草鍛冶遺跡)
・土器(舞草神社西遺跡・舞草小戸山遺跡)
・窯壁(伝古屋敷跡)
・鉄滓(舞草鍛冶遺跡)
・石像金鋳神像


 お彼岸のためか、館内の一部改装のためか、客は私の他に誰も居なかった。そのため、貸し切りような気分で刀に見入ることが出来た。発掘物同様、舞草刀も旧舞草山の刀鍛冶に思いを寄せながら、いつもと違った気分で見学できた。また、はじめて『二代国包』を見たとき、『初代』でないことにがっかりしたものだが、今日は敬意を払いながら改めて見直した。

舞草神社探訪 其之二 (前半)

 前回、場所を確認するに終わった『儛草神社』をもう一度目指す。

 今日は朝から近所の寺へ墓参りをしたので、遠出するには十分な時間が出来た。何処にしようか考えて浮かんだのは『儛草神社』だった。
 前回は『儛草神社』を目指すも散々迷い、挙句積雪のため参拝を断念せざるをえなかった。今日こそは是非参拝を果たしたい。


 前回は一関署前の交差点を右折したが、今回はもう一つ先の交差点を右折した。次は『何となく』一つ目の信号を左折、しばらく直進した後、道形(の様に思 えた丁字路)に沿って右に曲った。信号を越えると、前回迷走中に見た覚えのある道へ差掛かる。左側手には見覚えのある『水防倉庫』があり「これは行けるだ ろう」と確信。一本道(14号線)を直走り、信号で二股に分かれる道を右へ。前回の苦労が嘘のように、目印である石の道標を見つけ左折。


前回はよく見えなかったが、『延喜式内儛草神社参道』と標されている






 今回は二回目にもかかわらず、参道の入り口まで地図無しで到着することが出来た。前回、舞川周辺を車でグルグル回ったことで、多少は道に慣れたかもしれな い。だとすればあの迷走も無駄ではなかったようだ。この道を上るとすぐ近くに駐車場があって、そこからは徒歩なのだろうと思っていたが、さらに先まで車で 進むことが出来た。







 少し進むと、最初の案内が。南斜面の下に屋敷跡があるのかと思ったが、そうではないようだ。残念。



『伝古屋敷跡(安永風土記)』『昔、舞草と言う鍛冶の住居と伝える』




 ここまでは舗装された道路だったので、何の苦もなく進めたが分岐点、分岐点の案内を境に勾配のきつい砂利道となる。道は轍が出来ているが、石や木の枝な どが落ちており凸凹で、タイヤのパンクが怖いので恐る恐る進んだ。しかし、案内にあったように1.5㎞のこの山道を徒歩で行くのはしんどい。





 ようやく砂利道を抜けると、横道と交わる交叉点に出た。この先も車で進めるようだが、『←儛草神社参道』の道標をみつけ、何だか参道を車で行くのは悪い気がして、ここからは車を置いて歩いて行くことにする。





 道はそれほど険しくなく、散歩気分で普通に進むことができた。ただ、車内は暑いくらいだったのに、外は肌寒かった。道の他は見渡す限りの杉林。道脇には折れた杉の木が無造作に倒れている。




 道の途中、左手に『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡』の標を見つける。直ぐにでも見に行きたいところだが、ここはグッと堪えて参道に戻る。




 今度は右手の北斜面のかなり高い所に『舞草鍛冶遺跡 あじさい東参道』の標を見つける。左の杉林をふと見ると、靄のようなものがかかっていた。よく見てみると、薄ら黄色がかっている。あれは飛散した杉花粉なのだろうか。





 やっと目的地の『儛草神社』に到着。この『随身門』には『左神』と『右神』がそれぞれ両脇に居り、神社を守護している。




 本殿正面。この神社は勧請、遷座、合併が幾度か行われ、また三度の火災に見舞われている。現在の本殿は明治39年に落成、昭和12年に改築されたものだそうだ。




御神木の樹齢は如何ほどだろうか




 儛草神社 来歴

 養老 二年  羽場白山岳に白山妙利社勧請 祭神菊理姫命 陸奥県守多治見直人建立と伝える
 延暦十八年  吉祥山に馬頭観音勧請 坂上田村麻呂東夷征伐の折り祈願の為 吉祥山東城寺を建立する
 嘉祥 三年  慈覚大師東北巡陽の折り吉祥山に錫杖を止め多羅葉の木にて四尺二寸の聖観音像を彫刻安置すと伝う
 仁寿 二年  往時東山 舞草 小字穴の倉に鎮座する稲倉明神社舞草神に従五位下を授かる 
 延暦 五年  既に延喜式神名帳に登載の舞草神社である
 承平     白山社跡近くに金鋳神社跡がある 舞草安房以来二神を深く信仰してその守護により
        無双の名剣を代々約三百年間に亘り作り続けたと伝えている
 天正 二年  吉祥山東城寺野火の為に堂塔社炎上す
 文禄 元年  吉祥山一山の堂社宇僧坊同年三月十二日野火為炎上する
        神社直属の三枝称宜これを深く嘆き御霊を穴の倉に鎮座する稲倉神社に遷座して稲倉明神と称える
 寛永十九年  往時吉祥山は羽場村なるもお村直しの令により 羽場村の一部を合併して舞草村と相成る
 寛保 三年  御上より稲倉明神に舞草神社稲倉大明神の神号を賜る
 明治 二年  神仏混淆禁止令により吉祥山東城寺より聖観音像並びに仁王像を別当宅地内の大悲閣内に安置する
    四年  同村穴の倉鎮座の稲倉大明神より十月二十六日御霊を当観音堂地に遷座延喜式内舞草神社と称える
    九年  九月十七日舞草神社三問四面の堂 炎上 随身門を残し焼失する
  三十九年  舞草神社本殿拝 殿落成式
 大正 二年  同村川岸鎮座の熊野神社を合祀
 昭和十二年  本拝殿改築する
 
    祭神  伊邪那岐尊 白山姫神 稲倉魂命 熊野大神
    祭日  歳旦祭 四月十七日八月十七日
                    延喜式内舞草神社

 菊池山哉は『蝦夷とアイヌ』の中で儛草神社について、「『名跡志』にも、「山を白山嶽と称す、白山社地あって宮社なし、郷人云、この地古えの儛草の社地也、この地を去る西三町余、悲閣あり、又寺あり、大同年中田村麿呂東征之時所建、吉祥山東城寺と曰う。今は巳に廃れて、観音堂を余す。郷堂観音あるを知って、未だ嘗つて儛草神社あるを知らず」云々とある。按うに観音が若しも当初十一面観音ならばその儘白山神であり、儛草神社である。神社の祭神は恐らく白山神であったものであろう。然れば俘囚郡領の建立である」とふれている。




 『日本刀源流之一ツ鎌倉鍛冶之始祖 舞草古鍛冶発祥之地』。この碑を建立した『舞草刀研究会』の代表として、間宮光治先生の名も刻まれている。一般に鎌倉鍛冶は粟田口国綱、備前三郎国宗、福岡一文字の助真らが鎌倉に下向してから本格的に始まったと考えられているが、間宮先生は著書『鎌倉鍛冶 藻塩草』の中で、それ以前から鎌倉鍛冶は存在していたこと、そして鎌倉鍛冶と舞草鍛冶の関わりについてなどの研究を発表されている。



 神社から西に少し歩いた所に『舞草神社西遺跡』がある。ここから『土器』が発掘されたという。





 観音山から望む一関。昔、この山に住まった古鍛冶や修験者達も、ここからの風景を展望したのだろうか。
  







 もう一つの参道はがどのような道だろうか。下へ降りてみることにする。





 南に下る一本道がここで途切れ、東西に延びる道路を挟んでまた下へと続く。取り敢えずここで引返すことにする。





 もと来た道を戻る。参道は杉の葉や枝び敷き詰められた絨毯のようだ。





 神社に近づくと先ず『一の鳥居』が見えてくる。





 『一の鳥居』を潜り階段を上ると次は『二の鳥居』。『二の鳥居』は額束と注連縄があり、『一の鳥居』に比べると大分新しい。





 この正面参道と東参道の間にもう一本の道がある。ここを下った所に仁王像があるようだ。 




 道を下ると民家が一軒あり、その敷地内にお堂があった。残念ながらお堂の扉は閉ざされており、仁王像の姿を見ることは出来なかった。

 
 『一関市指定文化財 木造仁王像』の説明板(一関市教育委員会)より抜粋
 由緒
 現在の舞草神社の拝殿の位置には、かつて舞草観音堂(有悲閣)があり、現舞草神社随身門が仁王門として観音堂の守護神として安置されていたものである が、明治維新廃仏毀釈運動に起こり、別当千葉氏は自宅(小戸屋敷)の一隅に観音堂を建て本尊聖観音像と仁王像を移して祀り現在に至る。」


 『舞草山と仁王像』の説明板(一関市教育委員会)より抜粋
 この山は、古代は舞草山と言い、今は観音山と言う。山上の杉木立の中に舞草神社が鎮座し、仁寿二年従五位下を贈られ延喜式内社にも列している。かつては 延暦二十年坂上田村麻呂、東征のみぎり勧請したと言い伝えられる棄馬寺の観音と合祀して吉祥山東城寺と称した。又、修験道場になり、集まる修験者は二十四 院とも十八坊とも言った。(略)同寺には、一山守護のため舞草村民により文化八年八月、仁王門と共に仁王像が建立された。当時京都の修業先から帰った東磐 井郡大東町渋民出身の芦法眼祐覚の晩年の作で、像高約二・五米の寄木造である。明治元年神仏分離の令が布かれたため、同四年本尊の聖観音と仁王像は、ここ の別当宅地内に移され今日に至った。仁王像は昭和五十一年、一関市指定有形文化財になっている。」


 東参道沿いの遺跡も気になるので、神社をあとにすることにした。

 - 後半へ続く -