2008年12月21日日曜日

今のうち『瑞巌寺』

 『瑞巌寺』は10年に及ぶ本堂の改修工事が予定されており、そうなると長期間見学できなくなるので、今のうちとばかりに訪問。

 『瑞巌寺』は本堂の改修工事が行われる予定で、工期は10年ほどかかるようだ。本堂を見学できなくなってしまうが、瑞巌寺の前身である円福寺の建物遺構の発掘調査計画や、近い将来やってくる大地震に備えるためであるならば仕方ない。
 ということで工事が始まる前に、今年集中的に回った刀剣・歴史見学の旅の締めくくりとして瑞巌寺へ。

 何はさて置き、先ず本堂へ。




 端から順にと思い『松の間』を見ていると、思いがけず守衛さんに声をかけられた。何でも離れの間で、和尚さんの法話が聞けるという。あまり乗り気ではな かったが、そこは普段、一般人は立ち入ることの出来ない場所だそうで、つい食いついてしまう。案内されて回廊を進み、『大書院』に通される。襖を開け部屋 に入ると三十人程の聴衆を前に既にお話の最中だった。和尚さんに「どうぞ前の方へおいで下さい」と云われ、そそくさと空いている場所へ見つけて正座する。 膝行で進もうとも思ったが、止めることにした。
 途中からではあったが、2~30分ほど拝聴できただろうか。禅問答の小難しい話なのかと思ったが、誰にでもわかる易しい内容で分かりやすく、自分の中で あれこれ考えを巡らせながら聞くことができた。特に「人に答えを求めるな、自分の中に答えはある」という言葉が印象的で、思い当たる節がいくつもあった。 反省…。後でわかったのだが、和尚の名は『梅澤徹玄』師といい、臨済宗妙心寺派布教師で、黒川にある『臨済宗妙心寺派禅興寺』の住職なのだそうだ。

 また『鷹の間(武士の控室)』から見学に戻る。その隣はメインである『室中孔雀の間』で本尊『観世音菩薩』、歴代伊達藩主の位牌、『開山法身性西和尚像』が安置されている。次は『文王の間(伊達家親王の詰所)』で、左手に下ると『御成玄関』、


ここを政宗公が出入りしたわけだ



右手に進むと『上々段の間』、『上段の間(藩主の部屋)』、『仏間』、『羅漢の間』、『墨絵の間(住持の控室)』、『菊の間(御典医の控室)』と続き最初の『松の間』に戻り、本堂を一周したことになる。

 さて、続いては瑞巌寺を訪れたもう一つの目的である宝物館。

 ・脇指  奉献巨刀一腰奥州宮城郡仙䑓城下
     前州主黄門貞山利公御廟前
       明暦元年乙未五月廿四日
  (裏)  武州江城住人冨田大和守安定
     到當所仙䑓作之以奉寄進之弟子安次安倫助之
       當所人山野加右衛門尉定兵之模様長短大小
  (棟)切物奥州仙䑓住 家定作

 刀剣類に関しては『安定』の大脇指で一口のみで、これは忠宗公が政宗公の二十回忌の際、東照宮に奉納するため江戸から安定を招聘し仙台で作刀させたとい う。その他にも有名な『伊達政宗公甲冑倚像』や『円空』の仏像、『不動明王立像および二童子立像』など様々な品が展示されていた。 

 瑞巌寺を後にすると、空は雲行きが怪しくなっており、車に戻る途中雨に振られてしまった。


 
 次に瑞巌寺に訪れるとき、はたして自分はどう変わっているのだろうか。もしかすると、その答えは既に自分の中にあるのかもしれない。変わるも変わらぬも、己次第。

2008年11月23日日曜日

『平泉 ~みちのくの浄土~』展

 仙台市博物館で開催中の『平泉 ~みちのくの浄土~』展へ。
 
 
 今回の企画展では、仏像や経典など奥州藤原氏の仏教文化を堪能できる。中でも目玉は国宝の『薬師如来坐像』、『日光菩薩立像(左脇侍像)』、『月光菩薩立 像(右脇侍像)』三躯(何れも福島・勝常寺)や『阿弥陀如来坐像』をはじめとする『金色堂西北壇上諸仏』十一躯(岩手・中尊寺金色院)、『紺紙金字一切 経』などで、他にも重文の重美指定の作品を数多く見ることができる。気になったのは、廃仏毀釈の運動で傷つけられたものか、顔や手の無い仏像が何体かあっ たことだ。

 コーナーをどんどん進んでいくと、途中で思わぬ物が視界に飛び込んできた。なんと、田村麻呂将軍所用の大刀と伝えられる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』の刀身である。残念ながら黒漆大刀拵はなかったが、切刃造りの直刀をまじまじと見ることができた。刀身はボロボロで痛々しいが、帽子が見てとれた のは嬉しかった。

 もうひとつ嬉しかったのは、企画展を後にしてから、一応常設展も覗いてみたのだが、こちらに刀剣類(刀掛一架、具足三領)が何点か展示されていた。

 ・脇指 奉献巨刀一腰 宮城郡仙䑓郭
     東照宮御寶前
     明暦元年四月十七日
 (ウラ)武州江城住人冨田大和守安定作之
     到當所仙䑓依奉寄進之弟子安幸安家助焉
     當所人山野加右衛門尉定兵之模様長短大小   56.6㎝ 附金梨地葵紋拵

 ・金梨地竹に雀九曜紋刀掛

 ・黒漆五枚胴具足(政宗公所用)
 ・黒漆鳩胸五枚胴具足(宗村公所用)
 ・黒漆五枚胴具足(綱村公所用)

 安定の大脇差は弟子の『安幸』『安家』との合作で、忠宗公が家康の命日に仙台東照宮へ奉納したもの。


 せっかく一関まで行っても、一関市博物館での見学で時間が無くなり、あとは帰宅というのが常だが、この次は平泉を訪れたいと思う。他にも岩手で行ってみたい所が沢山ある。
 今回は純粋に奥州平泉の宗教文化を見に来たのだが、思いがけず本物の黒漆剣を見ることができて本当によかった。

2008年11月15日土曜日

上山城から上杉神社へ

 Aさんに『刀匠 神林恒平展』のパンフレットを頂く。興味はあるが、果たして気軽に車で出かけられる所なのだろうか…?
 会場は山形の上山だそうで、上山といえば競馬場と温泉がパッと頭に浮かぶが、山形のどの辺かわからない。早速ネットで調べてみたところ、山形市の少し南で、距離にして大体90キロ位。大きな道を行けば然程難しくないようなので、行ってみることにする。

 朝10時に家を出発し、先ずは国包屋敷があった立町小学校前の仙台西道路から、愛子バイパス、作並街道と48号線を只管進む。空いても混んでもなく、ス ピードのあまり出ない道路状況で、紅葉を楽しみながらのんびりと行く。やがて開けてきたなと思ったらそこはOさんの故郷天童市。丁字路にぶつかった所で左 折し、13号線を南下する。そして簡単に上山市まで入ることが出来たのだが、上山城に到着するまでが大変だった。詳しい案内があまり無く、随分迷ってし まった。
 漸く『上山城』に到着し、先ずは近くにある月岡神社にお参りし、次に月岡公園から辺を眺める。
 上山城は4階建てで、1~3階が展示場、4階は展望台となっている。1階の第一展示場から始まり、エレベータで一気に4階の展望台へ。城から眺める上山 の風景を写真に撮りたかったが、カメラを持ってくるのを忘れてしまった。あとは階段を降りながら、3階の第二展示場、2階の第三展示場と上山の歴史を順に 追っていく。一階に戻り、最後は特別展示室の『刀匠 神林恒平展』である。今回の展示会は『山形県指定無形文化財保持者認定』を記念してのものらしい。先ずは氏の師匠である『宮入行平』の作品一口に始まり、 神林恒平氏の29口、計30口が三方と中央のショーケースに展示されていた。

・脇指 宮入行平作(裏)昭和五十二年八月日
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十二年二月日
・刀 三省吾身上林恒平作(裏)昭和己未年春吉祥
・刀 以山形城古鉄長谷堂住人恒平作(裏)平成十年十一月吉日
・短刀 恒平作(裏)平成十八年三月日
・短刀 恒平作(裏)平成十一年五月日
・刀 長谷堂住人上林恒平作(裏)平成六戌年春吉日
・刀 長谷堂住人恒平作(裏)平成七年春吉日
・脇指 恒平彫同作(裏)平成十一年五月日
・脇指 恒平作(裏)平成十二年春
・刀 長谷堂住人恒平作(裏)平成十三年八月吉日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十七年八月日
・脇指 於霞城恒平作(裏)守護己諒平成十二年十一月廿二日
・短刀 備州長船住景光(棟)学景光恒平作(裏)元亨三年三月日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十八年三月日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十九年二月日
・太刀 長谷堂住恒平作(裏)平成廿戌子天六月十七吉日
・刀 長谷堂住人上林恒平作(裏)平成十九年八月日
・脇指 恒平彫同作(裏)應揚妻家需平成十六年三月日
・脇指 恒平彫同作(棟)平成十七年五月吉日(裏)(個人名)種徳百年計
・太刀 於長谷堂住恒巌作(裏)平成十七年三月日

・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十二年月二日
・短刀 (個人名)恒平作(裏)仙寿之平成十二二年十月日
・短刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十五年正月仙寿之
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十六年月弥生吉日
・短刀
・短刀 守護(個人名)恒平作(裏)平成十八年三月日

 城を出ると、時間はまだ午後1時前。帰るには少し早いので、米沢の『上杉神社』へ行ってみることにする。上杉神社には上杉謙信公、二代景勝公、直江兼続 公、十代鷹山公ら縁の品々が収蔵、展示されている『稽照殿』がある。『直江兼続』といえば、来年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公である。
 13号線を南下し、米沢市内には入れたが、肝心の上杉神社に辿り着くのに難儀した。神社は観光客で賑わっており、七五三の親子連れも目立っていた。社殿にお参りし、辺を散策した後、『稽照殿』へ。

・革製金箔置烏帽子形兜(伝謙信公所用)
・禡祭の剣
・色々威腹巻(謙信公所用)
・紫糸威伊予札五枚胴具足(景勝公所用) 
・勝色威胴具足(謙信公所用)
・紫糸威五枚胴具足
・紫糸威二枚胴具足(鷹山公所用)
・金小札浅葱糸威二枚胴具足(直江兼続所用)

 『色々威腹巻』の兜の前立は飯縄明神像が飾られており、謙信公の飯縄権現信仰を窺わせる。『飯縄』は『飯綱』とも書くそうで、刀鍛冶に『綱』の字がみられるのは宗教的なものからだろうか。備前には『安縄』という鍛冶もいた。どうも刀鍛冶と狐は無縁ではないのかもしれない。『紫糸威伊予札五枚胴具足』の兜の前立には雲上の日輪が象られており、その黄金の中に『摩利支尊天』、『毘沙門天王』、『日天大勝金剛』の神名を鋲で留めてあるそうだ。

・長巻 無銘 伝片山一文字 95.7㎝ 4.5㎝
・太刀 國宗(附)戒杖刀 78.2㎝ 5.4㎝
・大太刀 無銘 伝元重 110.3㎝ 4.9㎝

 無銘の長巻『伝片山一文字』は鎬造、庵棟、板目肌、小丁字。無銘の大太刀『伝元重』は鎬造、庵棟、板目肌、直刃調、丁字乱れ。
 そういえば『刀匠 神林恒平展』に『短刀(備州長船住景光 元亨三年三月日)』の写しがあったが、本物は謙信公の所用で、現在は『埼玉県立歴史と民俗の博物館』にあるそうだ。表に『秩父大菩薩』、裏に観音を表す梵字が彫られており、『黒漆小さ刀』の外装が附く。個人蔵で『岡山県立博物館』に謙信・景勝公所用の『号 山鳥毛』の太刀が寄託されているらしく、どちらも機会があれば見てみたい。

 すぐ側にある『米沢市上杉博物館』にも寄りたかったが、帰りは仙台までの距離113キロ走らなければならないので、今回は諦めることにする。次回は米沢をメインに、特別展でも狙って来てみよう。

2008年11月1日土曜日

東北歴史博物館『塩竈・松島 その景観と信仰』

 塩竃神社博物館で頂戴したフライヤーで『東北歴史博物館』の特別展『塩竈・松島 その景観と信仰』のことを知る。
 詳しいことが知りたくなり、サイトを見てみると、展示資料項目の中に『伊達家歴代藩主奉納太刀ならびに糸巻拵』が有り、俄然気になりだす。必ず展示されているとは限らないが、他の展示物も見てみたいので、東北歴史博物館へ。

 会場に入ると、先ずは『塩竈・松島の景観』というコーナーで『不動三尊像(五大堂御前立仏)』が出迎える。『不動明王二童子像』ともいい、瑞巌寺の秘仏 だそうだ。不動明王立像が矜羯羅童子と制多迦童子を両脇に従えた三尊で、このスタイルが多いようだ。童子は不動明王の眷属で他にも6人が居り、不動八大童 子という。機会があれ見てみたいものだ。他には『木造神使白鹿像』、『木造狛犬像』、『軍旗 一宮塩竈大明神』、『鹽竈神社縁起追考』などの巻子、屏風、棟札が有り、その後に待ってましたの刀剣類が数口展示されていた。

・太刀 来國光
・太刀 包蔵
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 國次

・金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵

 来国光はやはり、こちらへ貸出中だったようだ。雲生も展示資料として予定されているようなので、期間中に他の太刀も含めて入替があるかもしれない。
 七代藩主重村公が宝暦八年(1758)七月十日に太刀を奉納した際、鍛刀を担当したのは『永茂・国次・包蔵』の三家で、もしかするとこの時の三口が今回展示されているのかもしれない。照明が暗く、刃文が確認出来る程度で、鍛えを見ることは出来なかった。
 『金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵』は来国光の拵で、伊達家の家紋『竹に雀紋』と菊紋をあしらっている。『菊紋糸巻太刀拵』は見なれた金梨地に紺色の糸と、もう一口は黄金色ではなく赤の金梨地に萌葱色の糸。


 この後も古文書、絵画、板碑、能面、陶磁器など様々な展示資料が続き、古の塩釜・松島を堪能することが出来た。会場(特別展示室)を後にすると、すぐ向 かいに総合展示室というのがあるので入ってみる。どうやら、仙台市博物館でいう常設展のようなものらしい。東北地方の歴史を時代ごとに区切り、展示資料と ともに追って行く。
 そんな中、蝦夷平定の頃に使われいた武器類が特集されたコーナーがあった。坂上田村麻呂が佩用したとされる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』、『蕨手刀(二戸市堀野遺跡)』『方頭大刀』、『圭頭大刀の柄頭』など何れも複製品であるが、これらを見ていると直刀から湾刀へ移行について考え ずにはいられない。
 日本刀が何時、何処で、誰によって完成されたかは未だはっきりわかっていない。私は奥州鍛冶が重要な鍵を握っているのは間違いないと思っている。蝦夷の 蕨手刀を除いては『直刀』が一般的だったのが、蝦夷平定後100年以上経ってから『毛抜形太刀』が現れてくる。蝦夷の鍛冶が俘囚として他の地域に移ってい き、彼らの技術が伝播していったのではないだろうか。
 おっと今度は久し振りに一関へ行きたくなってきた。

2008年10月20日月曜日

塩竃神社博物館 特別展『塩竈神社と伊達家の信仰』

 宮城では現在、『美味し国伊達な旅 - 仙台・宮城デスティネーションキャンペーン - 』を展開している。仙台市博物館の企画展『最後の戦国武将 伊達政宗』もそうなのだが、塩竃神社博物館ではキャンペーンと連動して特別展『塩竈神社と伊達家の信仰』を開催している。
  当然、企画向けの展示品が大幅にスペースを占めるだろうから、もしかすると刀剣類は肩身の狭い思いをしてるのかもしれない。最悪、今回は出番無しとか…。 しかし、その思惑は良い方へ外れた。確かに刀剣関係のスペースは狭くなっていたが、『奉納太刀』ということで太刀と外装が充実していたのだ。
 先ず、雲生とそれに付属する黒漆太刀拵があり、続いて歴代の仙台藩主が奉納した太刀八口、糸巻太刀拵が四口展示されていた。雲生と外装が飾られていたア クリル製の展示棚は、全部で四口が展示可能で、二口分が空いていた。多分、來国光と外装が展示されるのだろうが、そこにはなかった。雲生と入替えたり、は たまた同時に展示されることは有るのだろうか?

 伊達家お抱え刀工の八家(余目・大友・熊谷・田代・本郷・阿部・庄司・木村)の鍛刀した奉納太刀が一口ずつ展示されており、それぞれ時代は違えども一同に揃うと壮観である。

・太刀 安倫(四代綱村公奉納)
・太刀 家定(五代吉村公奉納)
・太刀 包吉(六代宗村公奉納)
・太刀 包蔵(六代宗村公奉納)
・太刀 兼次(七代重村公奉納)
・太刀 永茂(十一代斉義公奉納)
・太刀 國包(十二代斉邦公奉納)
・太刀 國次(十三代慶邦公奉納)

 『奉納太刀』は四代綱村が藩主となって来国光を奉納したのが始まりで、別宮・左宮・右宮にそれぞれ一口ずつ奉納するようになったのは、五代吉村からだそうだ。
 それにしても意外というか残念なのは、国包一門が作った奉納太刀の数の少なさだ。太刀の奉納は、計12回で各回三口ずつ。初めて下命があったのは9回目 の年で、十一代国包が一口。それから11回目と12回目の年に十二代国包が一口ずつ。奉納太刀三十九口のうち、国包一門が緞刀したのは計三口のみ。原因 は、奉納時期の国包家当主が何れも若く、任されるに相応しくなかったからのようだ。タイミングが悪かったということか。また、五代目から十代目まで早世す る者が多く、刀鍛冶としてだけでなく本郷家そのものが絶えてしまう危機に幾度となくおそわれた。因に十一代と十二代は婿入りで(十二代は十一代の実子とい う説も)、初代とは赤の他人である。それでも嫁はどちらも本郷家の血縁者なので、幸い遺伝子は絶えていないようである。

 その隣には糸巻太刀拵がこれまた四口一緒に展示されている。いずれも紺色の糸で、一口だけ萌葱色。更に細かく見ればそれぞれ意匠が違う。どの拵にどの太 刀が収まるのかわからないが、各代仙台藩主によって奉納された太刀は計三十九口(内四口は現存せず)で、当然太刀拵もその分だけ奉納されたことだろう。三 十五口の太刀と拵が一同に展示されたら、さぞ壮観だろう。

 神道分野で一番興味深かったのは『鹽竈神社縁起』。創建以来、塩竃神社の祭神の名は明らかにされておらず、四代藩主綱村公が家臣に命じて神社に関する調査させた。その成果をもとに吉田兼見により『鹽竈神社縁起』が編まれたそうだ。

 鹽竈神社縁起
 陸奥國一宮正一位鹽竈大明神三社
 在宮城郡多賀國府民艮去国府城十八町許
 左宮 武甕槌命
 右宮 經津主命
 別宮 岐神
 (以下略)


 今日は見学に来て本当に良かった。刀剣類も思いのほか良かったし、神道分野の貴重な資料を見ることが出来た。

 帰宅してから受付で頂いた資料やパンフレットに目を通していて、今回の特別展は『東北歴史博物館』、『瑞巌寺』との合同開催だということを知った。東北歴史 博物館のサイトを覗いてみると、展示資料の項目に『太刀(銘 来国光)』、『太刀(銘 雲生)』、『黒漆太刀拵(雲生太刀拵)』とある。塩竃神社博物館に來国光が無かったのは、東北歴史博物館に貸し出していたからなのか?それなら、今日来国 光が展示されていなかったのは納得出来る。更に『伊達家歴代藩主奉納太刀ならびに糸巻拵』というのを見つけ、期待がふくらんでしまう。詳細は全くわからな いが、取り敢えず行ってみようか?

2008年10月19日日曜日

『刀と陶 - 現代加美 灼熱のアート展 -』

 先週、芋煮会参加のために行き損なった加美町の『切込焼記念館』へ。
 
 『切込焼記念館( 加美町ふるさと陶芸館)』では江戸時代後期から明治初期まで宮崎町の切込地区で生産されていた『切込焼(きりごめやき)』と呼ばれる陶磁器が多数展示されおり、そ れに加えて現在(前期:10月4日~10月26日)『刀と陶 - 現代加美 灼熱のアート展 -』と銘打った企画展が開催されている。刀は刀匠の『早坂信正』氏、陶器は陶芸家の『金澤勝』氏の作品をそれぞれ扱っている。先週の 日曜(10月12日)は早坂信正氏の講演会があったので狙っていたのだが、道場の芋煮会に参加したため叶わなかった。それでも刀と陶磁器を見ることはでき るので、加美町にある『切込焼記念館』へ出かけることにした。

 そう思い立っても、実はまだ一度も加美町に行ったことがなく、土地勘が全く無い。それでも大した下調べもせず、パンフレットの簡略化された小さな地図を便りに出発。
 午後一時半に家を出て、ひたすら国道4号線を北上。国道457号線とに枝分かれするY字路に差掛かり、いつもなら古川へ行くために右の4号線をそのまま 道なりに進むところだが、今日は左折する。何だか変な感じである。途中に「陶芸の里まで30㎞」と看板があったので、とにかく直進。次は国道347号線に ぶつかったところで左折。ここまでは良かった。パンフレットの地図ではその後、西に進めば目的地に到着出来るような画かれ方なのだが、本当は更に256号 線を行かなければならないのだ。不安だったが案内や標識によると、そのまま国道347号線を進むと尾花沢つまり山形に行ってしまうようなのだ。実際その通 りだったのだが、256号線を進んでいる間は不安でしょうがなかった。案内の『陶芸の里』を目標に進んでいたが、パンレットにあるのは『加美町ふるさと陶 芸館』と『切込焼記念館』であって、『陶芸の里』というのは一文字も出ていない。だんだん焦ってくる。しかし、何とかなるだろうと、引き返すことも道を尋 ねることもせずに道を進み続けた。
 そんな中、漸く施設らしき大きな建物が見えてきた。残念ながら目的地ではなかったのだが、そこは目印の『スポーツ公園』だった。看板を見て目を疑った。 『陶芸の里スポーツ公園』…。慌てて地図を見ると『スポーツ公園』の字の上にちゃんと『宮崎地区陶芸の里』とあるではないか。完全な見落としと勘違いであ る。どうやらここら一帯を『陶芸の里』と呼ぶらしい。何にせよ『加美町ふるさと陶芸館』まではもう少しだということがはっきりしたので、道を急ぐ。

 何とか目的地に到着すると時間はとっくに3時半を過ぎていた。似たような建物がいくつかあって、どれが『切込焼記念館』か一目ではわからなかった。建物の前は公園のようになっていて、家族連れが楽しそうに遊んだり散歩していた。時間が惜しいので『切込焼記念館』へ。

 受付を済ませ、会場の扉を開けると先ずは刀剣コーナーだった。その奥には陶器コーナーが続く。

・短刀 信正(ウラ)平成七年八月日
・刀 色麻住信正(ウラ)平成五年八月日
・短刀 信正(ウラ)平成十三年八月日
・刀 早坂信正(ウラ)平成十年八月日
・刀 船形山麓 早坂信正(ウラ)平成七年八月日 野州ニ眠ル以古鉄造之
・脇指 信正(ウラ)平成三年八月日
・太刀 信正
・短刀 信正作(ウラ)平成二十年五月五日

 展示目録に記載されている作品は17口だが、このコーナーにあるのは8口。その次は陶器類しか見当たらない。少々寂しかったが、残りは後期に入れ替えす るのかなと自分を納得させ、切込焼を見て回る。陶器類に関しては全くの門外漢であるが、蛸唐模様のトックリ(染付蛸唐草文らっきょう徳利)はシンプルで好 みだった。手頃なサイズと値段のものがあったら是非欲しいと思った。建物は二階建てで、しかも中空の渡り廊下を通って隣の棟にも行ける。そしてこの棟の階 段を降りると受付のある正面玄関に出るようだ。また展示場の入り口付近に戻り、しつこく刀に見入る。
 館内には他に客は一人も居らず、流石に帰りの時間も気になってきたので、そろそろ帰ることにする。先ほどの順路を辿って隣の棟の一階まで行き驚いた。もう一ヶ所展示スペースがあったのだ。それも刀が沢山展示してある。慌ててそれらを鑑賞する。

・刀 早坂信正作之(ウラ)平成十三辛巳年二月日
・脇指 早坂信正(ウラ)平成十年二月日
・脇指 早坂信正
・刀 船形山麓色麻住 早坂信正(ウラ)平成九年八月日
・刀 信正(ウラ)平成七年八月日 野州ニ眠ル以古鉄造之
・刀 船形山麓 早坂信正(ウラ)平成十三年二月日
・太刀 信正(ウラ)平成六年二月日
・短刀 早坂信正(ウラ)平成八年二月日
・短刀 早坂信正(ウラ)平成十七年八月日

 好みの鍛えの作品は殆どが大和伝と山城伝だった。中でも際立っていた山城伝の太刀『信正』はかの名刀『古今伝授行平(太刀 豊後国行平作)』の写しだそうである。展示目録によると、17口の内訳は大和伝3口、山城伝一口、その他は全て相州伝。
 開館時間は午後4時30分までなのだが、そうとは知らずに粘っていつまでも刀を鑑賞していた。本当に記念館の関係者には良い迷惑の客である。外に出ると 辺りは既に暗くなっており、人っ子一人居らず、車場にあるのは私の車だけ。私がこの日の最後の客となってしまったようだ。急に言い様のない寂しさに襲わ れ、その場を後にした。

 今回は特にカーナビの必要性を思い知らされた。それと今回の調子だったら、先週の講演会には多分間に合わなかっただろう…。

2008年9月20日土曜日

『最後の戦国武将 伊達政宗』展

 塩竃神社博物館に行くと、何故か次ぎに行きたくなるのが『仙台市博物館』。現在『最後の戦国武将 伊達政宗』展が開催されている
  今回、仙台市博物館に足を向けたのは、刀剣と糸巻太刀拵、そして現在開催されている企画展『最後の戦国武将 伊達政宗』が目的。刀に関してはあまり期待出来ないが、糸巻太刀拵は常設展示されているはずだし、企画展の面白さは鉄板だと思う。何も感動が得られないわ けは無いので、いざ入館。

 …残念ながら、刀剣類は一口も展示されていなかった。正直がっかりしたが、気を取り直して他の展示物を楽しむことにする。
 常設展示では、先ず博物館の目玉の一つである『金梨子地葵紋桐紋糸巻太刀拵』をじっくりと見る。もったいないことに今までサラッとしか見ていなかった。 傷みが激しいため新しく拵を作り、オリジナルから漆を剥がし移植したそうだ。糸巻太刀拵は四角の透明ケースで展示されているので、正規の見方ではないが四 方八方から見ることが出来た。丁度、糸巻太刀拵の裏には柳生宗矩が政宗へ宛てて送った書状が展示されていた。内容はといえば、参勤交代で江戸へ着いた政宗 に、宗矩がお茶のお誘いをしたというもの。一体どんな話をするためだったのだろうか…?

 さて、企画展だが、六つのスペースに分けて政宗所縁の品々が展示されており、エピローグと題された初っ端が特に良かった。政宗公所用の『黒漆五枚胴具 足』が『白地赤日の丸旗』をバックに飾られていた。前回は五~六領の具足が展示されていたのだが、一領だけでしかも日の丸の前というのが逆に映える。ス ター・ウォーズのダース・ベイダーが冠るマスクのモデルとなったという『六十二間筋兜』。吹返には梅紋を透かしており、私が鍔で最も好きなデザインであ る。前立の弦月がまるで腰反りの太刀にも見える。同じスペースの『白絹宿地雪薄紋単衣』と『納戸地緞子雲文袴』(二領とも10月10日までの展示)も素晴 しい。
 他には企画展示室に

・紫糸威胴丸(伝伊達政宗所用)
・銀伊予白糸威胴丸具足
・鉄錆地五枚胴(伝鈴木元信所用)
・黒漆五枚胴具足(片倉重綱所用)

 の五領が展示されていた。『黒漆五枚胴具足』と『銀伊予白糸威胴丸具足』は360°どこからでも好きに見られるのが有難い。
 今回、最も印象に残ったのは、濱田景隆所用の『浅葱麻地小紋染鎧下着』だった。これは濱田景隆が宮崎城攻めで討死した時に着用していた鎧下着で、血痕や生地の破れが戦の壮絶さを物語っている。破れた箇所に受けたのは刃物か銃弾か。

 武具や衣類の他、書状、絵画など仙台公縁の興味深い品々が多数展示されており、一度と云わず何度でも会場に足を運ぶ価値があると思う。10月11日から『黒漆五枚胴具足』二領や『山形文様陣羽織』、『黒羅背板地胴服』の四点が追加展示されるそうだ。こちらも楽しみ。
 展示物を見ている間、或いはその後、凡そ三百数十年前の仙台にロマンを思い馳せるのは必至だと思う。展示物を一通り見学し、伊達政宗のスケールに触れた気になり、仙台公の入神後に国包が入道した気持ちが少しわかったような気がした。

2008年9月15日月曜日

塩竃神社博物館の糸巻太刀拵

 何か初見の刀があればいいなと、久々に塩竃神社博物館へ。
 
 
 あまり期待しないで行ったのだが、残念ながら初見のものはなく、刀剣の展示数も少なかった。正月の『雙龍子玉英 特別展』と比べてしまうと、どうしても物足りなさを感じる。その代わりに博物館の目玉である『来国光』と『雲生』の二口、『糸巻太刀拵』のコーナーを穴が あくほど見ることにする。

・太刀  来國光 83 3.5
・太刀  雲生 92.1 3.5
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
   (ウラ)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・太刀 家定 71 2.24
・太刀 國包(ウラ)天保十三歳八月日 69.7 2.1 (十二代 源兵衛)
・脇指 重勝 51 1.1
・刀 包幸 75.8 1.7
・剣 奉納寶剣一振 家定 塩竈大明神御廣前(ウラ)元禄九年二月吉日 仙䑓住福田助左衛門 24.2
・短刀 田代永繁 21

 屏風や掛け軸が幅をきかせており、「それだけあれば三~四口の刀が展示できるな」という位のスペースを独占していた。大太刀も初め見たときはインパクトがあったが、鍛えなど見所がないので何度か見ると飽きてしまう…。

 今までは展示されていても、それほど熱心に見ることの無かった『糸巻太刀拵』を、今日は一生懸命に見学してきた。以前は刀身に比べると勉強不足のせいも あってか、外装への関心が薄く、小道具に関しては興味が殆ど無かった。それが室町時代の『文透図鍔』に一目惚れしてから鍔が好きになり、明智左馬介の差料 と伝える『明智拵(変り塗打刀拵)』を知ってから漸く拵について勉強するようになった。
 展示されていたのは糸巻太刀拵が二腰、鍔が三枚でそれぞれ職人による作品の出来の違いを比べられて面白い。
 拵は兜金、縁、鍔、足金物、責金物、石突金物とそれぞれ赤銅魚子地に菊紋があしらわれていて非常にエレガント。特に鞘は金梨子地塗で赤銅魚子地と菊紋が アクセントとなり、色彩の対比が鮮やか。それにしても佩緒の太刀結びは一体どうなっているのか見当もつかない。柄は朴の木地に錦の布を巻き、その上に紺の 柄糸を巻いている。渡巻も同色。鍔は糸巻太刀拵の定番『葵形』。私は丸形のシンプルな鍔が好きなのだが、この葵形の鍔も素敵だと思った。鍔は三枚の他に 『鍔、切羽、大切羽一式』としてもう一枚有り、それぞれが分解された状態で並べられていた。金と赤銅の切羽、大切羽の計八枚で鍔を挟むそうだ。
 
 刀の他に具足が二具展示されており、メインは四代藩主綱村公所用の『紺絲素懸威五枚胴具足』なのだろうが、私は伊達家宿老、遠藤玄信所用の『切付小札紺 絲毛引威二枚胴具足』の方が好みだ。どうやら私の中で紺糸ブームが始まったようだ。半歩身体を引いてガラスに顔を映し、兜に顔の位置を合わせ、鎧を疑似装 着してみる。一度でいいから具足を身に纏い太刀を佩いてみたいものだ。果たして巧く刀を扱えるだろうか。具足は20センチ程の重さがあるというから動くだ けでも大変そうだし、刀を振りかぶろうとして、鍔が兜の前立に当たってしまうかもしれない…。それ以前に巧く太刀を抜けるだろうか…。

2008年6月14日土曜日

30年ぶりの大地震

  土曜の朝、大きな揺れで目が覚めた。地震である。
 
 
  地震の揺れはさほど怖くないが、本棚が倒れて周りの物に傷を付けたり、本やソフト類が飛び出して壊れるんじゃないかと思い、ベッドから起きた。随分強く長 い揺れだったが、幸い本棚は中の本類は無事だった。机とTVの上に積んでいた物が幾つか落下したが、大したことはなかった。TVを点けてみると、家の辺り は『震度5強』だったいう。それ程の体感ではなかったので意外だった。これも新築の御陰か。有り難い。

 震度5といえば30年前の『宮城沖地震』と同じ大きさだ。あの時の揺れは半端じゃなかった。何分幼児の頃なので記憶違いかも知れないが、家が左右に揺さ ぶられていたように感じられた。前の家は震度3位でも随分揺れていた。当時、私は妹と二階の部屋で昼寝中で、隣の部屋にいた母が急いで助けに来てくれた。 私を起こし、妹を抱きかかえた次の瞬間、タンスが妹の布団に倒れてきたそうだ。母は私と妹を抱えながら玄関へ急いだ。階段を降りる時の母の鬼気迫る感じ と、一階の台所から聞こえる食器の「ガシャガシャ」という音は今でも朧気ながら記憶している。新築の我が家は築2~3年で壁にヒビが入ってしまった。子供 の頃からパテで補修された白い稲妻のような線を見るのが嫌いだった。
 一昨年我が家は立て替えられることになり、新築の家に生まれ変わった。冗談で「ウチが家を建てると2~3年位して地震が来るんじゃないの?」と云っていたが、冗談で済まされないような気がしてきた。

 ニュースを見ていると、震源は岩手の南部で、隣接する宮城の県北も甚大な被害を受けたそうだが、大きな揺れの割に仙台市中心部はマシだったようだ。今回 の『岩手・宮城内陸地震』は警戒されている宮城沖地震とは別物だそうだ。真剣に地震対策をしなければ。しかし、望むような本棚用落下ストッパーが入手出来 ないでいる。
 あと、ライフラインが絶たれる可能性もあるから、それに備えなければならない。特に水は貴重になる。そういえばペット用の砂を使って簡易トイレを作るこ とが出来るそうだ。皿の上にラップを張って使えば、水洗いが不要になるという。そういう知恵も仕入れてもしもの時は工夫せねば。

 最後になりましたが、この度被災された方々には謹んでお見舞い申し上げます。そして物故された方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

2008年5月5日月曜日

登米懐古館と一関市博物館

 ゴールデンウィークだからどこも混んでいると分かり切っているのに、『登米懐古館』と『一関市博物館』の二カ所をハシゴ見学しようと計画。
  朝9時に出発し、国道9号線を北上。思ったより道は混んでいない。順調に県道15号(古川登米線)へ入り、ひたすら長閑な田舎道を進む。前後には2~3 台しか車が走っておらず、ストレス無くスイスイ進める。案内標識が少なく少々迷ったが、どうにか目的地の『登米懐古館』に到着。

 『登米懐古館』には何とあの『伯耆国安綱』が収蔵されているそうで、それを目当てに今回見学することを決めたのだが、残念ながらお目に掛かることは出来なかった。常設展示ではないそうなので、期待はしていなかったがやはり残念。ここで見ることの出来たのは以下三口。

 ・太刀 備州長船恒弘
 ・脇指 古備前正恒
 ・脇指 伊達綱宗御作

 恒弘は近衛家より贈られたもので『三ツ引蟹牡丹紋散糸巻太刀拵』が一緒に展示されていた。綱宗公は仙台の三代藩主で、安倫を相槌に美濃伝や備前伝をえ る。慰打とよく言われるが、二万を超える刀匠な中から刀剣関係の書籍に採り上げられるのだから大したものだ。更には和歌、書、蒔絵など諸芸に通じる。そう いえば本棚にしまったきりの『樅ノ木は残った』を、いい加減に読まなければ…。


 登米~から一関への道は初めてで、加えて道路状況もわからないので、昼前に移動することにする。一度バイパスへ出ることも考えたが、混んでる可能性が高 く、何よりそこまで辿り着く自信がなかったので、すぐに見つけた登米と一関を結ぶ『国道342号線』を進むことにした。この道も大当たりで、交通量が少な く簡単な一本道。楽に一関市内に入ることが出来た。あとは前回の記憶を頼りに『一関市博物館』へ到着。先ずは腹ごしらえしようかとも考えたが、満腹になる と眠くなってしまうし、刀見たさの欲求が食欲に勝る。

 意を決して博物館へ。入場券を購入し、他の展示物など目もくれず(関係者の皆さんスイマセン)刀剣コーナーへまっしぐら。
 どうしても我慢できず、前回『二代国包』が飾ってあった向かって正面右側の展示ガラスへ。そこにあったのは…『初代国包』だった!嬉しかった。前回は初 代を目当てに来たのに会うことが叶わず落胆したものだが、今回はそれを果たすことが出来た。感動に浸りたいところだが、楽しみを取っておくことにして、入 口から順に見学する。

 ・太刀 寶壽
 ・太刀 寶壽
 ・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
 ・脇指 寶壽
 ・太刀 舞草
 
 ・刀 山城大掾藤原國包
 ・刀 一関士源宗明作(ウラ)応藩士文之助森君需 文久二年八月吉日
 ・十文字槍 一関士源宗明造之(ウラ)慶応二年月日
 ・脇指 明弘
 ・刀 無銘(月山)
 ・脇指 康継於越前作之(三代)
 ・脇指 対馬守橘常光
 ・刀 以鐵鋼鑛岩野道俊造之(ウラ)安政七庚申歳二月日

 さて国包であるが、地沸のついた柾目鍛えで直刃が浅くのたれる。帽子は焼詰めで、焼出しはハバキで残念ながら見えず。中心は目釘穴が3つで、気になった のは銘が指裏に切られていることだった。もしかすると太刀銘なのかもしれないが、刃を上に向けて展示されており佩表ということではないようだ。
 地鉄や刃文の素晴らしさは勿論だが、姿の美しさは何も云うことがない。本当に私の理想形である。今回それほど期待してはいなかったのだが、目の当たりにすることができて本当によかった…。前回お目にかかることが出来なかったので、感動も一入である。

 そういえば『正恒』は今回も見ることが出来なかったが、まずは念願の初代国包が見られて本当によかった。
 今日見た国包がいつ頃の作なのか気になったので、帰宅後に資料を調べてみることにした。初代国包は何種類かの銘を切っているので、だいたいの年代は絞れ ると考えていたのだが、『山城大掾藤原国包』の銘は『寛永4・5年』に5口、『寛永9~11年』に6口、『寛永19・20年』に3口とそれぞれ鍛えている ようで、銘だけでは詳しいことがわからなかった。意外だったのは入道してからは『用恵国包』の銘しか切っていないと思っていたのだが、『国包』名義の銘を 3口ほど切っていたということだ。それらの銘を所望されたのか、或いは何か国包に思うところがあったのか。
 『仙台藩刀匠銘譜』には載ってないかとあたってみると、太刀銘のものが一口だけあった。刃長は二尺三寸三分(70.6㎝)、反り六分(1.8㎝)で寛永 11~2年頃の作という。塞がれたものを含めて目釘穴が4ヶ所。やはり太刀として注文を受けて鍛え、太刀銘として『佩表』に切ったと考える方が自然だろうか。