塩竃神社博物館で頂戴したフライヤーで『東北歴史博物館』の特別展『塩竈・松島 その景観と信仰』のことを知る。
詳しいことが知りたくなり、サイトを見てみると、展示資料項目の中に『伊達家歴代藩主奉納太刀ならびに糸巻拵』が有り、俄然気になりだす。必ず展示されているとは限らないが、他の展示物も見てみたいので、東北歴史博物館へ。
会場に入ると、先ずは『塩竈・松島の景観』というコーナーで『不動三尊像(五大堂御前立仏)』が出迎える。『不動明王二童子像』ともいい、瑞巌寺の秘仏 だそうだ。不動明王立像が矜羯羅童子と制多迦童子を両脇に従えた三尊で、このスタイルが多いようだ。童子は不動明王の眷属で他にも6人が居り、不動八大童 子という。機会があれ見てみたいものだ。他には『木造神使白鹿像』、『木造狛犬像』、『軍旗 一宮塩竈大明神』、『鹽竈神社縁起追考』などの巻子、屏風、棟札が有り、その後に待ってましたの刀剣類が数口展示されていた。
・太刀 来國光
・太刀 包蔵
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 國次
・金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵
来国光はやはり、こちらへ貸出中だったようだ。雲生も展示資料として予定されているようなので、期間中に他の太刀も含めて入替があるかもしれない。
七代藩主重村公が宝暦八年(1758)七月十日に太刀を奉納した際、鍛刀を担当したのは『永茂・国次・包蔵』の三家で、もしかするとこの時の三口が今回展示されているのかもしれない。照明が暗く、刃文が確認出来る程度で、鍛えを見ることは出来なかった。
『金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵』は来国光の拵で、伊達家の家紋『竹に雀紋』と菊紋をあしらっている。『菊紋糸巻太刀拵』は見なれた金梨地に紺色の糸と、もう一口は黄金色ではなく赤の金梨地に萌葱色の糸。
この後も古文書、絵画、板碑、能面、陶磁器など様々な展示資料が続き、古の塩釜・松島を堪能することが出来た。会場(特別展示室)を後にすると、すぐ向 かいに総合展示室というのがあるので入ってみる。どうやら、仙台市博物館でいう常設展のようなものらしい。東北地方の歴史を時代ごとに区切り、展示資料と ともに追って行く。
そんな中、蝦夷平定の頃に使われいた武器類が特集されたコーナーがあった。坂上田村麻呂が佩用したとされる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』、『蕨手刀(二戸市堀野遺跡)』『方頭大刀』、『圭頭大刀の柄頭』など何れも複製品であるが、これらを見ていると直刀から湾刀へ移行について考え ずにはいられない。
日本刀が何時、何処で、誰によって完成されたかは未だはっきりわかっていない。私は奥州鍛冶が重要な鍵を握っているのは間違いないと思っている。蝦夷の 蕨手刀を除いては『直刀』が一般的だったのが、蝦夷平定後100年以上経ってから『毛抜形太刀』が現れてくる。蝦夷の鍛冶が俘囚として他の地域に移ってい き、彼らの技術が伝播していったのではないだろうか。
おっと今度は久し振りに一関へ行きたくなってきた。
会場に入ると、先ずは『塩竈・松島の景観』というコーナーで『不動三尊像(五大堂御前立仏)』が出迎える。『不動明王二童子像』ともいい、瑞巌寺の秘仏 だそうだ。不動明王立像が矜羯羅童子と制多迦童子を両脇に従えた三尊で、このスタイルが多いようだ。童子は不動明王の眷属で他にも6人が居り、不動八大童 子という。機会があれ見てみたいものだ。他には『木造神使白鹿像』、『木造狛犬像』、『軍旗 一宮塩竈大明神』、『鹽竈神社縁起追考』などの巻子、屏風、棟札が有り、その後に待ってましたの刀剣類が数口展示されていた。
・太刀 来國光
・太刀 包蔵
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 國次
・金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵
来国光はやはり、こちらへ貸出中だったようだ。雲生も展示資料として予定されているようなので、期間中に他の太刀も含めて入替があるかもしれない。
七代藩主重村公が宝暦八年(1758)七月十日に太刀を奉納した際、鍛刀を担当したのは『永茂・国次・包蔵』の三家で、もしかするとこの時の三口が今回展示されているのかもしれない。照明が暗く、刃文が確認出来る程度で、鍛えを見ることは出来なかった。
『金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵』は来国光の拵で、伊達家の家紋『竹に雀紋』と菊紋をあしらっている。『菊紋糸巻太刀拵』は見なれた金梨地に紺色の糸と、もう一口は黄金色ではなく赤の金梨地に萌葱色の糸。
この後も古文書、絵画、板碑、能面、陶磁器など様々な展示資料が続き、古の塩釜・松島を堪能することが出来た。会場(特別展示室)を後にすると、すぐ向 かいに総合展示室というのがあるので入ってみる。どうやら、仙台市博物館でいう常設展のようなものらしい。東北地方の歴史を時代ごとに区切り、展示資料と ともに追って行く。
そんな中、蝦夷平定の頃に使われいた武器類が特集されたコーナーがあった。坂上田村麻呂が佩用したとされる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』、『蕨手刀(二戸市堀野遺跡)』『方頭大刀』、『圭頭大刀の柄頭』など何れも複製品であるが、これらを見ていると直刀から湾刀へ移行について考え ずにはいられない。
日本刀が何時、何処で、誰によって完成されたかは未だはっきりわかっていない。私は奥州鍛冶が重要な鍵を握っているのは間違いないと思っている。蝦夷の 蕨手刀を除いては『直刀』が一般的だったのが、蝦夷平定後100年以上経ってから『毛抜形太刀』が現れてくる。蝦夷の鍛冶が俘囚として他の地域に移ってい き、彼らの技術が伝播していったのではないだろうか。
おっと今度は久し振りに一関へ行きたくなってきた。
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