薬師堂北方面から向かい、先ず公園内の準胝観音堂を見てみたが、やはり石仏が数体倒れていた。何れも損壊はしてはおらず、お堂も無事だった。
次は薬師堂へ。西側から敷地に入ると、社務所前の倒れた石灯籠が目に入る。
山門の方まで目をやると、参道脇の石灯籠が全て倒れていることがわかる。
社殿も被害を受けたようで、窓の木枠が外れかかっていた。中の状況はわからないが、この程度で済んだのは幸いで、宮大工と神社建築技術の賜というべきだろうか。
白山神社は入り口に紐が張られており、境内に侵入できなくなっていた。敷地の外から見る限り、お堂は無事のようだが、石灯籠が倒れているようだった。
薬師堂は大きな被害を受けずに済んだが、志波彦神社と塩竈神社果たして無事なのだろうか。ラジオから得た情報によると、海の側は甚大な被害を受けたらし い。現在、バイパスの西側はどんな状況なのだろう。テレビもネットも使えないのでまとまった情報や映像が全く得られない。どうしても気になるので、危険な ら無理せず引き返そうと決め、塩竈へ向かう。
震災後に車を運転するのは、今日が初めてだ。信号が止まったままなので、そばの大通りに出るだけでもたいへんだ。最初の交差点で親切な方が路を譲ってく れたので、すぐに右折することができた。大きな通りに出てしまえば、あとは流れにそって行くだけだ。緊急事態なので、誰もが慎重な運転を心掛けているよう だ。しかし、扇町一丁目の交差点で、事故現場に遭遇してしまった。すでに警察官が実況見分をしているようだった。道路に男性が一人横たわっている。
いつものように仙塩街道を走っていると、中野栄駅を過ぎた辺りから通行規制をしているようだった。ここから先は進めないのかと思いきや、片側交互通行 だった。前の車について行くが、極端にスピードが遅くなる。まさかここまで津波が来るわけはないし、道路に大きなヒビでも走ったのだろうか。しばらくすれ ば、規制区間も終わるだろうと高を括っていたが、どうも様子がおかしい。やがて信じられない光景が目に飛び込んできた。路は泥だらけで、沢山の車輌が車道 の両脇に止まっている。どの車もまるでスクラップ場の廃車のようだ。その横を徒歩や自転車で往来する人や、忙しそうに作業する人。普段から交通量は多い が、人通りが多いイメージは無い。一体何があったのだろう。戦争でもあったのかと思わせる、非現実的な風景。仙台から僅か数キロの多賀城市内とは思えな い。一体何があったのだろう…。徐行は続き、通行規制区域内では、家屋、車体などの撤去作業が行われていた。緊急の用があるわけでもないのにこのまま進ん でいいものかと迷ったが、この惨状を目の当たりにすると余計に神社が心配になってくる。
後でわかったのだが、津波の影響で砂押川が氾濫し、周辺の地域が川の水に飲み込まれてしまったそうだ。道端の車は、その時流されたものだったのだ。車体 を流すほどの激流とはどれほど凄まじいのだろうか。想像もつかない。情報源が乏しいとはいえ、今まで多賀城がこんな悲惨な状態になっていたなんて、全く知 らなかった。
念仏橋の辺りからスピードが出せるようになり、塩竈神社に無事辿り着くことが出来た。
この非常事態に神社を訪れる人など少ないと思っていたのだが、駐車場には沢山の車が駐車されていた。神頼みに来たのか、それとも無事を感謝しに来たのだ ろうか。ところが境内には人の姿は殆ど見られない。やはりこんな時に、神社を訪れる人などいないようだ。恐らく駐車場の車は、避難のために停められている のだろう。
先ず志波彦神社へ向かうが、正門が閉まっていて中に入ることはできなかった。何か被害を受けたのだろうか。心配である。
一方、塩竈神社は境内に入ることが出来、門前の灯籠が一基倒れている以外はこれといった損害は無さそうだった。それにしても、いつもは多くの参拝客が訪れる拝殿に、今は人っ子一人いない。日曜の日中にこの状況は、一生に一度あるか無いかの希有なものだ。
塩竈神社が津波の被害を受けずに済んだのは、当然神社が山の上にあるからだが、どうも元々一森山に鎮座していたわけではないらしい。
菊地山哉の説では、塩竈神社はそもそも『六所神社』であり、陸奥の六所も多賀城の傍にあったのだという。蝦夷征伐のために六所が始まり、六所神社は国府 祭を行うために必ず国府の傍にあり、国司が夷狄降伏の祭りを行っていたのではないかとみている。『余目氏旧記』の「しほがまの明神とあらはれて、大同元年 に宮城のこほりに立給ふ、当永正十一年まで七百九年に成給ふ、昔は当国諸郡に神領有。」の一文を引用して、大同元年(806年)に陸奥の六所明神は成立 し、「どうも和泉三郎の寄進とあるところを見ると、大体奥州の国府は秀衡がうつしたらしく見られるので、その時に塩竈神社も移したんだろうと思う。平安末です。」と述べている。『こほり』とは国府のことであろうか。
塩竈神社の遷宮についての史料は無いが、『神祇志料』に「塩竈神社今宮城郡塩竈村千賀山にあり、昔は神竈社の地に在りしを、後今の地に遷せり。塩竈を以 て霊とす。今本社の南、祭殿是なり。」とあり、『利府町誌(P289)』は、「塩釜神社の社人二九家のうち一五家が加瀬村に居住し、これにかつて加瀬村に 居住し藩政初期塩釜に移転した二家、さらに塩釜神社の元禄造替後、古内村只州神社に移転した只州太夫鎌田家を加えれば社人三〇家のうち、一八家が加瀬村に 居住していたことになる。(略)当時、加瀬村から塩釜神社に通うには、曲折の多い狭隘な急坂を越えなければならず、山犬や狼の危険もあったに相違いない。 それなのに、どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住したのだろうか。とくに塩釜地主の神といわれる岐神、すなわち塩土老翁神を祭る別宮の一の祢 宜、二の祢宜、若子がすべて加瀬村に居住していた。これは別宮が右左宮の後に出来たとも考えられるし、留守家分限帳さとの人数十七家のうち別宮分と後に加 えられた神官が加瀬に住んだとも考えられ塩釜神社三社の成立と関係あるかもしれない。」と塩竈神社の社人が加瀬村に多数住んでいたことを指摘している。
塩竈神社に蝦夷政策が関係しているのは間違いないと思うが、一森山への遷宮については、この度の東北地方太平洋沖地震を経験したために、平安時代の自然災害が影響しているのではないかと思うようになってきた。
天長七年(830)年正月に、隣の国出羽で地震があり、秋田城に被害をもたらした。承和四年(837)四月には、現在の鳴子温泉辺りで火山の爆発があっ たという。そして貞観十一年(869)五月に、陸奥国で大地震が発生した。この地震で多賀城は倒壊したそうで、津波が城下(多賀城のことと思われる)にま で押し寄せたという記録もある。六所神社が多賀城の傍にあったとすれば、地震か津波の被害を受けたかもしれない。立て直しが必要になったとしたら勿論だ が、たとえ大きな被害を受けなかったしても、何れ来るかもしれない大地震や津波に備えて、山の上へ遷宮するというのはあり得ることだと思う。因みに前々か ら、南宮明神が多賀城の西に位置しているのが不思議でならなかった。現在の位置まで流されたのであろうか。それとも津波の及ばない辺りに立て直したのだろ うか。余所の六所でも洪水で流され、お宮の位置が変わることがあったようだ。山哉曰く、総社は平安末頃に出来たといい、これが本当なら貞観までの被害は受 けていないことになる。
参考文献『東国の歴史と史跡/菊地山哉』『多賀城市史1 原始・古代・中世』
次は薬師堂へ。西側から敷地に入ると、社務所前の倒れた石灯籠が目に入る。
山門の方まで目をやると、参道脇の石灯籠が全て倒れていることがわかる。
社殿も被害を受けたようで、窓の木枠が外れかかっていた。中の状況はわからないが、この程度で済んだのは幸いで、宮大工と神社建築技術の賜というべきだろうか。
白山神社は入り口に紐が張られており、境内に侵入できなくなっていた。敷地の外から見る限り、お堂は無事のようだが、石灯籠が倒れているようだった。
薬師堂は大きな被害を受けずに済んだが、志波彦神社と塩竈神社果たして無事なのだろうか。ラジオから得た情報によると、海の側は甚大な被害を受けたらし い。現在、バイパスの西側はどんな状況なのだろう。テレビもネットも使えないのでまとまった情報や映像が全く得られない。どうしても気になるので、危険な ら無理せず引き返そうと決め、塩竈へ向かう。
震災後に車を運転するのは、今日が初めてだ。信号が止まったままなので、そばの大通りに出るだけでもたいへんだ。最初の交差点で親切な方が路を譲ってく れたので、すぐに右折することができた。大きな通りに出てしまえば、あとは流れにそって行くだけだ。緊急事態なので、誰もが慎重な運転を心掛けているよう だ。しかし、扇町一丁目の交差点で、事故現場に遭遇してしまった。すでに警察官が実況見分をしているようだった。道路に男性が一人横たわっている。
いつものように仙塩街道を走っていると、中野栄駅を過ぎた辺りから通行規制をしているようだった。ここから先は進めないのかと思いきや、片側交互通行 だった。前の車について行くが、極端にスピードが遅くなる。まさかここまで津波が来るわけはないし、道路に大きなヒビでも走ったのだろうか。しばらくすれ ば、規制区間も終わるだろうと高を括っていたが、どうも様子がおかしい。やがて信じられない光景が目に飛び込んできた。路は泥だらけで、沢山の車輌が車道 の両脇に止まっている。どの車もまるでスクラップ場の廃車のようだ。その横を徒歩や自転車で往来する人や、忙しそうに作業する人。普段から交通量は多い が、人通りが多いイメージは無い。一体何があったのだろう。戦争でもあったのかと思わせる、非現実的な風景。仙台から僅か数キロの多賀城市内とは思えな い。一体何があったのだろう…。徐行は続き、通行規制区域内では、家屋、車体などの撤去作業が行われていた。緊急の用があるわけでもないのにこのまま進ん でいいものかと迷ったが、この惨状を目の当たりにすると余計に神社が心配になってくる。
後でわかったのだが、津波の影響で砂押川が氾濫し、周辺の地域が川の水に飲み込まれてしまったそうだ。道端の車は、その時流されたものだったのだ。車体 を流すほどの激流とはどれほど凄まじいのだろうか。想像もつかない。情報源が乏しいとはいえ、今まで多賀城がこんな悲惨な状態になっていたなんて、全く知 らなかった。
念仏橋の辺りからスピードが出せるようになり、塩竈神社に無事辿り着くことが出来た。
この非常事態に神社を訪れる人など少ないと思っていたのだが、駐車場には沢山の車が駐車されていた。神頼みに来たのか、それとも無事を感謝しに来たのだ ろうか。ところが境内には人の姿は殆ど見られない。やはりこんな時に、神社を訪れる人などいないようだ。恐らく駐車場の車は、避難のために停められている のだろう。
先ず志波彦神社へ向かうが、正門が閉まっていて中に入ることはできなかった。何か被害を受けたのだろうか。心配である。
一方、塩竈神社は境内に入ることが出来、門前の灯籠が一基倒れている以外はこれといった損害は無さそうだった。それにしても、いつもは多くの参拝客が訪れる拝殿に、今は人っ子一人いない。日曜の日中にこの状況は、一生に一度あるか無いかの希有なものだ。
塩竈神社が津波の被害を受けずに済んだのは、当然神社が山の上にあるからだが、どうも元々一森山に鎮座していたわけではないらしい。
菊地山哉の説では、塩竈神社はそもそも『六所神社』であり、陸奥の六所も多賀城の傍にあったのだという。蝦夷征伐のために六所が始まり、六所神社は国府 祭を行うために必ず国府の傍にあり、国司が夷狄降伏の祭りを行っていたのではないかとみている。『余目氏旧記』の「しほがまの明神とあらはれて、大同元年 に宮城のこほりに立給ふ、当永正十一年まで七百九年に成給ふ、昔は当国諸郡に神領有。」の一文を引用して、大同元年(806年)に陸奥の六所明神は成立 し、「どうも和泉三郎の寄進とあるところを見ると、大体奥州の国府は秀衡がうつしたらしく見られるので、その時に塩竈神社も移したんだろうと思う。平安末です。」と述べている。『こほり』とは国府のことであろうか。
塩竈神社の遷宮についての史料は無いが、『神祇志料』に「塩竈神社今宮城郡塩竈村千賀山にあり、昔は神竈社の地に在りしを、後今の地に遷せり。塩竈を以 て霊とす。今本社の南、祭殿是なり。」とあり、『利府町誌(P289)』は、「塩釜神社の社人二九家のうち一五家が加瀬村に居住し、これにかつて加瀬村に 居住し藩政初期塩釜に移転した二家、さらに塩釜神社の元禄造替後、古内村只州神社に移転した只州太夫鎌田家を加えれば社人三〇家のうち、一八家が加瀬村に 居住していたことになる。(略)当時、加瀬村から塩釜神社に通うには、曲折の多い狭隘な急坂を越えなければならず、山犬や狼の危険もあったに相違いない。 それなのに、どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住したのだろうか。とくに塩釜地主の神といわれる岐神、すなわち塩土老翁神を祭る別宮の一の祢 宜、二の祢宜、若子がすべて加瀬村に居住していた。これは別宮が右左宮の後に出来たとも考えられるし、留守家分限帳さとの人数十七家のうち別宮分と後に加 えられた神官が加瀬に住んだとも考えられ塩釜神社三社の成立と関係あるかもしれない。」と塩竈神社の社人が加瀬村に多数住んでいたことを指摘している。
塩竈神社に蝦夷政策が関係しているのは間違いないと思うが、一森山への遷宮については、この度の東北地方太平洋沖地震を経験したために、平安時代の自然災害が影響しているのではないかと思うようになってきた。
天長七年(830)年正月に、隣の国出羽で地震があり、秋田城に被害をもたらした。承和四年(837)四月には、現在の鳴子温泉辺りで火山の爆発があっ たという。そして貞観十一年(869)五月に、陸奥国で大地震が発生した。この地震で多賀城は倒壊したそうで、津波が城下(多賀城のことと思われる)にま で押し寄せたという記録もある。六所神社が多賀城の傍にあったとすれば、地震か津波の被害を受けたかもしれない。立て直しが必要になったとしたら勿論だ が、たとえ大きな被害を受けなかったしても、何れ来るかもしれない大地震や津波に備えて、山の上へ遷宮するというのはあり得ることだと思う。因みに前々か ら、南宮明神が多賀城の西に位置しているのが不思議でならなかった。現在の位置まで流されたのであろうか。それとも津波の及ばない辺りに立て直したのだろ うか。余所の六所でも洪水で流され、お宮の位置が変わることがあったようだ。山哉曰く、総社は平安末頃に出来たといい、これが本当なら貞観までの被害は受 けていないことになる。
参考文献『東国の歴史と史跡/菊地山哉』『多賀城市史1 原始・古代・中世』