2011年3月12日土曜日

国包の墓の被害(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災二日目)

 震災二日目、一族の墓のことが気になるので、様子を見に行くことにする。


 昨日、神棚と仏壇を片付けたあと、近所の尼寺にある我が家の墓のことが気になりだした。墓場は一体どんな状況なのだろうか。かなりの強い揺れ(震度6)だったので、竿石の倒壊が心配だ…。

 外の様子も知りたかったので、昼食後に墓を見に行ってみることにした。
 震災後、最初の外出。信号が止まっていることに初めて気付く。

 尼寺に着いたものの、敷地内に立ち入ることは出来ず、墓の状態を確認することはできなかった。しかし、遠くから見る限りどの墓も無事のようだった。我が 家の墓は、祖父が早世した我が子の供養のために、東仙台の『大蓮寺』から三~四キロの道程を一人で運んだものなのだそうだ。宮城沖地震の際に倒れてしまい、傷を修正するために竿石がやや細くなってしまったそうだ。今回は無事で良かった。


 一安心し、その足で国包の墓がある善導寺へ行ってみることにする。
 新寺通りを目指しながら歩いていくと、いつもと変わらない風景があった。しかし、宮城野陸橋を歩いていて、視覚障害者用誘導ブロックとアスファルトの間 に長い亀裂が生じており、震災の爪痕を実感した。建物に関しては、大きく損壊しているものは見あたらなかったが、細かいヒビが入っていたり、タイルなど壁 の一部が落下しているものが幾つか見受けられた。

 ここまで大きな被害は無いようだったが、『道仁寺』の前に差し掛かって、目を疑った。正門が完全倒壊している。





 この他、通り沿いの寺は石仏や石灯籠などが軒並み倒壊していた。嫌な予感がする。


東秀院


林松院


林香院


 善導寺も例外ではなかった。よりにもよって、初代と五代目の墓が倒れていた。

 どうやら初代の墓石は前に倒れ、真下の香炉にぶつかって地面に転がったようだ。全面の法号『慧眼了真信男』の『慧』の字に白く長い筋が走っている。 『丰』の辺りに大きい傷が付いるが、これは以前からあったようだ。宮城沖地震の際に出来たものだろうか。香炉は今回の地震で欠けたのかわからないが、もし 宮城沖地震の時だとしたら、角がとれていたために、大きな傷が付かずに済んだのかもしれない。割れたり、大きく欠けなかったのは幸いだが、何だか顔に傷が ついたようで痛ましい。





 一方、五代目は真後ろにうつ伏せになって倒れている。墓石の後背に傷があり、左下の外柵が欠損しているので、大きな揺れのために斜め後ろに倒れ、外柵にぶつかり右横にうつ伏せになったのではないだろうか。倒れたのが土の上で良かった。





 その他、標識や記念碑などは一切無事である。しかし、隣の敷地の石仏などが無残にも転倒していた。





 『刀剣美術』の第83号(昭和38年9月10日)に日刀保の宮城県支部が『仙台国包の墓』という記事を寄せており、その中で「国包代々の没年、戒名については一部は誤り伝えられている向きも見受けられるが、火災のため焼失し、寺に過去帳も残されていない現在では墓標が唯一の手がかりなので、墓標に刻まれ ている文字をそのまま掲記してみると次の通りである。なお碑面は風化のため文字の判読が困難なものもあり、特に五代、八代等は、石質の関係もあって幾許もなく文字も消滅することが予想されるので、なんらかの方法で後世に記録を残す必要が痛感される次第である。」と碑面の状態について危惧している。拓本を取っておくべきとは安易な発想だろうか。今なら、3Dスキャナーなどのデジタル技術でデータをとることも可能だろう。五代目はうつ伏せの状態なので、碑面がどのようになっているのか、今の時点では残念ながら確認できない。

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