2009年3月20日金曜日

舞草神社探訪 其之二 (後半)

 前半に引き続き、残りの遺跡巡り。


 儛草神社から戻り始めてすぐ、右手(南側)に『舞草小戸山遺跡』の標を見つける。参道よりやや低くて目立たない所に有り、危うく見落とすところだった。



 ここからは『釘』、『鉄鏃』、『土器』などが発見されたそうだ。気になるのは『鍛冶伝承地周辺図』に『舞草小戸山遺跡』が載っておらず、代わりに『舞草鍛冶遺跡』が『土師・須恵器片出土地』となっていることだ。



 行きで探索を我慢した『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡(白山岳山頂周辺)』のポイントまで漸く戻ってきた。すぐ右(西)へ道があるが、先ずは左の『鉱山跡』へ行ってみる。



 人が普段通らないために植物が生い茂っているが、不思議と道だと認識出来る。少し進むと石碑を見つけたが、鍛冶とは無関係だった。



 更に行くと岩場に出たが、これといったものは見当たらない。木の枝をかき分け斜面を登ってみるが何も見つけられなかった。どうやらハズレだったようだ。 それどころか、道無き道を来たものだから、自分がどこを通ってきたかわからなくなってしまった。兎に角、斜面を下りながら右へ右へと向かった。「ああ、 迷ったかも…」と不安に襲われたが、どうにか戻ることが出来た。大昔の修験者が山を進むのに、刀を必要としたというのを身をもって感じた。

 もう一ヶ所、人が通れる所を見つけ、何となく気になる。「迷ったらどうしよう」と少々不安を覚えながらも、先程の生還(大袈裟)で少々大胆になり、何の根拠もなく進んでみることにする。



 暫く進むと『舞草鍛冶遺跡』の標を発見!アタリである。参道脇に建つ『舞草鍛冶遺跡』の標は此処のことを指すのかもしれない。だとすれば此処から『羽 口』の一部と『鉄滓』が発見されたということになる。そうすると『鉱山跡』も他にあるということか…?地図では此処より南に白山岳鉱山跡が標されてい る。それにしてもここに立つ標識だけ古く細い。最初に発掘調査が行われた場所なのではないだろうか。





 最後は前の二ヶ所に比べると道らしい道と思える通りだ。途中、注連縄で結ばれている二本の杉が有り、少し先で道が二つに分かれている。多分、真直ぐ(西)行けばこのまま神社へ向かうか、東参道へ合流するのだろう。ここはもう一本の道へ進んでみる。



 しばらく行くと、また注連縄を見つける。ここには曾て『金鋳神像』が祀られていたようだ。



 一度道へ戻り、奥(東)へ続く道を進むと、また注連縄が。後には巨大な岩が聳える。はじめはここが何を祀っているのか見当もつかなかったが、地図にある 『鉱山跡』の場所と大体一致する。先程、難儀しながら見て廻った岩場が『鉱山跡』なのではなく、此処こそがそうなのかもしれない。



 来た道を慎重に引き返し、二本杉の通りへ戻り、西へ向かうと思った通り東参道に合流。

 

 全てを行き尽くしたわけではないし、不明な点も多々有るが、それでも一通り見て廻ることが出来たと思うので、そろそろ引き上げることにする。
 帰り道、表参道の入り口を見つける。前回、気付かないで通り過ぎていた。



 道は徐々に険しくなる。しばらくすると石段が現れるが、また消えてしまう。







 また階段があらわれ、道路を越えてると、先程引き返した道に続き、神社正面に辿り着く。この表参道の往復は半分の距離でも大変だった。本来はこちらの参道を登って神社へ至るのだろうが、現在では車で来られる東参道を利用しているのではないだろうか。



 時間に余裕があったので『一関市博物館』へ。現在は通常展示室と企画展示室は改装中のため見学出来ない状態だった。しかし、目当ての刀剣コーナーが生きていて本当に良 かった。もしそうでなかったら項垂れて帰っていたことだろう…。

・太刀 舞草 72.7 3.2

・太刀 友安 69.3 1.4
・薙刀 無銘(舞草) 66.8 3.1
・太刀 寶壽 70.1 2.4
・刀 無銘(月山) 66.5 1.7

・刀 奥州仙䑓住國包 75.5 1.2
・刀 一関士宗明作 元治元年八月吉日(ウラ)振此利刀鏖敵者誰多巻觀民 70.5 1.5
・脇指 陸中國宗明 45.3 0.9
・脇指 明弘 38.3 0.7

・太刀 行光 84.1 2.3
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 武蔵大掾藤原是一 45.2 0.9
・刀 備前介藤原宗次 文久四年二月日 71,1 1,2


 いつもは箸休め的にサラッとしか見ていなかった発掘物も、今日は遺跡を見て廻った後なので、とても興味深く見ることが出来た。『石像金鋳神像』が『金鋳神像跡』に祀られていた姿を想像してみる。

・釘(舞草小戸山遺跡)
・鉄鏃(舞草小戸山遺跡)
・羽口(舞草鍛冶遺跡)
・土器(舞草神社西遺跡・舞草小戸山遺跡)
・窯壁(伝古屋敷跡)
・鉄滓(舞草鍛冶遺跡)
・石像金鋳神像


 お彼岸のためか、館内の一部改装のためか、客は私の他に誰も居なかった。そのため、貸し切りような気分で刀に見入ることが出来た。発掘物同様、舞草刀も旧舞草山の刀鍛冶に思いを寄せながら、いつもと違った気分で見学できた。また、はじめて『二代国包』を見たとき、『初代』でないことにがっかりしたものだが、今日は敬意を払いながら改めて見直した。

舞草神社探訪 其之二 (前半)

 前回、場所を確認するに終わった『儛草神社』をもう一度目指す。

 今日は朝から近所の寺へ墓参りをしたので、遠出するには十分な時間が出来た。何処にしようか考えて浮かんだのは『儛草神社』だった。
 前回は『儛草神社』を目指すも散々迷い、挙句積雪のため参拝を断念せざるをえなかった。今日こそは是非参拝を果たしたい。


 前回は一関署前の交差点を右折したが、今回はもう一つ先の交差点を右折した。次は『何となく』一つ目の信号を左折、しばらく直進した後、道形(の様に思 えた丁字路)に沿って右に曲った。信号を越えると、前回迷走中に見た覚えのある道へ差掛かる。左側手には見覚えのある『水防倉庫』があり「これは行けるだ ろう」と確信。一本道(14号線)を直走り、信号で二股に分かれる道を右へ。前回の苦労が嘘のように、目印である石の道標を見つけ左折。


前回はよく見えなかったが、『延喜式内儛草神社参道』と標されている






 今回は二回目にもかかわらず、参道の入り口まで地図無しで到着することが出来た。前回、舞川周辺を車でグルグル回ったことで、多少は道に慣れたかもしれな い。だとすればあの迷走も無駄ではなかったようだ。この道を上るとすぐ近くに駐車場があって、そこからは徒歩なのだろうと思っていたが、さらに先まで車で 進むことが出来た。







 少し進むと、最初の案内が。南斜面の下に屋敷跡があるのかと思ったが、そうではないようだ。残念。



『伝古屋敷跡(安永風土記)』『昔、舞草と言う鍛冶の住居と伝える』




 ここまでは舗装された道路だったので、何の苦もなく進めたが分岐点、分岐点の案内を境に勾配のきつい砂利道となる。道は轍が出来ているが、石や木の枝な どが落ちており凸凹で、タイヤのパンクが怖いので恐る恐る進んだ。しかし、案内にあったように1.5㎞のこの山道を徒歩で行くのはしんどい。





 ようやく砂利道を抜けると、横道と交わる交叉点に出た。この先も車で進めるようだが、『←儛草神社参道』の道標をみつけ、何だか参道を車で行くのは悪い気がして、ここからは車を置いて歩いて行くことにする。





 道はそれほど険しくなく、散歩気分で普通に進むことができた。ただ、車内は暑いくらいだったのに、外は肌寒かった。道の他は見渡す限りの杉林。道脇には折れた杉の木が無造作に倒れている。




 道の途中、左手に『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡』の標を見つける。直ぐにでも見に行きたいところだが、ここはグッと堪えて参道に戻る。




 今度は右手の北斜面のかなり高い所に『舞草鍛冶遺跡 あじさい東参道』の標を見つける。左の杉林をふと見ると、靄のようなものがかかっていた。よく見てみると、薄ら黄色がかっている。あれは飛散した杉花粉なのだろうか。





 やっと目的地の『儛草神社』に到着。この『随身門』には『左神』と『右神』がそれぞれ両脇に居り、神社を守護している。




 本殿正面。この神社は勧請、遷座、合併が幾度か行われ、また三度の火災に見舞われている。現在の本殿は明治39年に落成、昭和12年に改築されたものだそうだ。




御神木の樹齢は如何ほどだろうか




 儛草神社 来歴

 養老 二年  羽場白山岳に白山妙利社勧請 祭神菊理姫命 陸奥県守多治見直人建立と伝える
 延暦十八年  吉祥山に馬頭観音勧請 坂上田村麻呂東夷征伐の折り祈願の為 吉祥山東城寺を建立する
 嘉祥 三年  慈覚大師東北巡陽の折り吉祥山に錫杖を止め多羅葉の木にて四尺二寸の聖観音像を彫刻安置すと伝う
 仁寿 二年  往時東山 舞草 小字穴の倉に鎮座する稲倉明神社舞草神に従五位下を授かる 
 延暦 五年  既に延喜式神名帳に登載の舞草神社である
 承平     白山社跡近くに金鋳神社跡がある 舞草安房以来二神を深く信仰してその守護により
        無双の名剣を代々約三百年間に亘り作り続けたと伝えている
 天正 二年  吉祥山東城寺野火の為に堂塔社炎上す
 文禄 元年  吉祥山一山の堂社宇僧坊同年三月十二日野火為炎上する
        神社直属の三枝称宜これを深く嘆き御霊を穴の倉に鎮座する稲倉神社に遷座して稲倉明神と称える
 寛永十九年  往時吉祥山は羽場村なるもお村直しの令により 羽場村の一部を合併して舞草村と相成る
 寛保 三年  御上より稲倉明神に舞草神社稲倉大明神の神号を賜る
 明治 二年  神仏混淆禁止令により吉祥山東城寺より聖観音像並びに仁王像を別当宅地内の大悲閣内に安置する
    四年  同村穴の倉鎮座の稲倉大明神より十月二十六日御霊を当観音堂地に遷座延喜式内舞草神社と称える
    九年  九月十七日舞草神社三問四面の堂 炎上 随身門を残し焼失する
  三十九年  舞草神社本殿拝 殿落成式
 大正 二年  同村川岸鎮座の熊野神社を合祀
 昭和十二年  本拝殿改築する
 
    祭神  伊邪那岐尊 白山姫神 稲倉魂命 熊野大神
    祭日  歳旦祭 四月十七日八月十七日
                    延喜式内舞草神社

 菊池山哉は『蝦夷とアイヌ』の中で儛草神社について、「『名跡志』にも、「山を白山嶽と称す、白山社地あって宮社なし、郷人云、この地古えの儛草の社地也、この地を去る西三町余、悲閣あり、又寺あり、大同年中田村麿呂東征之時所建、吉祥山東城寺と曰う。今は巳に廃れて、観音堂を余す。郷堂観音あるを知って、未だ嘗つて儛草神社あるを知らず」云々とある。按うに観音が若しも当初十一面観音ならばその儘白山神であり、儛草神社である。神社の祭神は恐らく白山神であったものであろう。然れば俘囚郡領の建立である」とふれている。




 『日本刀源流之一ツ鎌倉鍛冶之始祖 舞草古鍛冶発祥之地』。この碑を建立した『舞草刀研究会』の代表として、間宮光治先生の名も刻まれている。一般に鎌倉鍛冶は粟田口国綱、備前三郎国宗、福岡一文字の助真らが鎌倉に下向してから本格的に始まったと考えられているが、間宮先生は著書『鎌倉鍛冶 藻塩草』の中で、それ以前から鎌倉鍛冶は存在していたこと、そして鎌倉鍛冶と舞草鍛冶の関わりについてなどの研究を発表されている。



 神社から西に少し歩いた所に『舞草神社西遺跡』がある。ここから『土器』が発掘されたという。





 観音山から望む一関。昔、この山に住まった古鍛冶や修験者達も、ここからの風景を展望したのだろうか。
  







 もう一つの参道はがどのような道だろうか。下へ降りてみることにする。





 南に下る一本道がここで途切れ、東西に延びる道路を挟んでまた下へと続く。取り敢えずここで引返すことにする。





 もと来た道を戻る。参道は杉の葉や枝び敷き詰められた絨毯のようだ。





 神社に近づくと先ず『一の鳥居』が見えてくる。





 『一の鳥居』を潜り階段を上ると次は『二の鳥居』。『二の鳥居』は額束と注連縄があり、『一の鳥居』に比べると大分新しい。





 この正面参道と東参道の間にもう一本の道がある。ここを下った所に仁王像があるようだ。 




 道を下ると民家が一軒あり、その敷地内にお堂があった。残念ながらお堂の扉は閉ざされており、仁王像の姿を見ることは出来なかった。

 
 『一関市指定文化財 木造仁王像』の説明板(一関市教育委員会)より抜粋
 由緒
 現在の舞草神社の拝殿の位置には、かつて舞草観音堂(有悲閣)があり、現舞草神社随身門が仁王門として観音堂の守護神として安置されていたものである が、明治維新廃仏毀釈運動に起こり、別当千葉氏は自宅(小戸屋敷)の一隅に観音堂を建て本尊聖観音像と仁王像を移して祀り現在に至る。」


 『舞草山と仁王像』の説明板(一関市教育委員会)より抜粋
 この山は、古代は舞草山と言い、今は観音山と言う。山上の杉木立の中に舞草神社が鎮座し、仁寿二年従五位下を贈られ延喜式内社にも列している。かつては 延暦二十年坂上田村麻呂、東征のみぎり勧請したと言い伝えられる棄馬寺の観音と合祀して吉祥山東城寺と称した。又、修験道場になり、集まる修験者は二十四 院とも十八坊とも言った。(略)同寺には、一山守護のため舞草村民により文化八年八月、仁王門と共に仁王像が建立された。当時京都の修業先から帰った東磐 井郡大東町渋民出身の芦法眼祐覚の晩年の作で、像高約二・五米の寄木造である。明治元年神仏分離の令が布かれたため、同四年本尊の聖観音と仁王像は、ここ の別当宅地内に移され今日に至った。仁王像は昭和五十一年、一関市指定有形文化財になっている。」


 東参道沿いの遺跡も気になるので、神社をあとにすることにした。

 - 後半へ続く -