2007年8月14日火曜日

一関市博物館

 『一関市博物館』に初代国包の刀が展示されているらしいので、岩手まで行ってみることにした。


 前日になり急遽出発を決定、ネットや情報誌などで軽い下調べをし「国道4号線をひたすら走るだけだから大丈夫でしょ。一ノ関に入ってからはナビに頼ればいいし。出発は九時半頃でいいかな?」と安易に考え、準備終了。すでに頭の中は刀のことでいっぱい。

 そして当日。ナビに目的地をセット。距離は丁度100キロでひたすら北上するだけの簡単な道のりだが、『到着予定時刻 13:00』を見て一瞬青ざめる。昼前には目的地に着き、厳美渓を見てから昼食、午後からゆっくり博物館を見学、時間が許せば平泉へGOなどと軽く考えていたのだが、どうもその余裕は無いらしい…。到着時刻はあくまで目安なのだから、鵜呑みにする必要はないのだが、今はお盆シーズン。渋滞は絶対あるものと 思って間違いない。何だかどんどん不安になってしまい、一分でも惜しいので、取りあえず出発。
実際車を走らせると、それほどひどい渋滞はなかっ た。片側一車線では思うようにスピードを出せないので少々焦ってしまったが、法定速度より遅いということ はほとんど無かった。何だかんだで岩手の県境に差し掛かる頃には、12時半頃まで目的地に到着する見通しが立ちホッと一安心。

 ナビのおかげで12時過ぎに無事、一関市博物館へ到着。逸る気持ちをグッと抑え、先ずは厳美渓を見に行く。丁度お昼時だったので、次は『山のそば屋 須川』でざるそばをいただく。食べ終えてから、「大盛りでもよかったかな」と後悔。そしていよいよ一関市博物館へ。

 刀は「舞草刀と刀剣」とテーマされた展示室の四方のショーケースに、13振の刀剣(太刀3振、刀5振、脇指2振、短刀1振、槍1振、薙刀1振)と4振の拵が見事に陳列されていた。

・刀 (額銘)建武 寶壽
・太刀 友安
・薙刀 無銘(舞草)
・太刀 寶壽
・短刀 寶壽

・刀 奥州仙䑓住國包  (二代)
・刀 一関士宗明
・十文字槍 一関士宗明造之
・脇指 明弘

・太刀 行光
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 武蔵大掾藤原是一
・刀 備前介藤原宗次 文久四年二月日

 見事にショーアップされた刀剣はどれも素晴らしく、質・量共にとても見応えがあった。まったく仙台市博物館にも見習ってもらいたいものだ。ただ一点だけ残 念だったのは『初代国包』が展示されていなかったことだ。受付に問い合わせたところ「確かに初代は収蔵されているが、現在は展示していない」とのこと。必 ず展示されているという勝手な思い込みだったのだが、これにはガッカリしてしまった。日を改めるしかないようだ。残念で仕方がない。
『建武 宝寿』は太刀を大磨上したものか、中心に短冊銘がはめ込まれている。

 時は流れ、あっという間に帰りの時間がきてしまった。二時間ほど粘ったが、それでも全然見飽きない。何としても『初代国包』を見ないと気が済まないし、『正恒』など未だ見ぬ刀があるので、また一関市博物館へ来ようと心に決めた。結局、平泉には行くことができなかった…。


たまたま切り抜いておいた河北新報の記事

2007年8月12日日曜日

国包の墓

 先日、図書館で『仙台藩刀工考(庄司恭/著)』という本を見つけた。興味の最たるは『国包一門』だが、いわゆる『郷土刀』に明るくなるために勉強しようと思い、本を借りることにした。

 本書には仙台藩お抱え刀工である『本郷国包』『田代永重』『大友国次』『余部安倫』『庄子包藏』『阿部包吉』『木村家定』の八家の系譜が網羅されてい る。冒頭から驚いたのが、何と国包代々の墓が現存し、しかもそれが近所らしいということだ。場所は『得生善導寺』という浄土宗のお寺で、地図で調べてみる と駅前に行くためよく通っている『新寺通り』にあるではないか。これは行くしかない。




 


昭和四年六月、川口陟先生はじめ有志9名が建立した碑。現在は西門にあるが、区画整理されるまでは国包歴代の墓と一緒にあったという。


本郷国包家累代の墓

初代国包吉之允(源藏)の墓


三代国包源次郎、初代、二代国包吉右衛門

四代国包源十郎、五代国包三郎衛門

六代国包権十郎、七代国包源十郎、八代国包吉右衛門


十代国包源之助、九代国包半蔵

十三代国包栄助、十二代国包源兵衛、十一代国包三之助(のち源藏)

初代の墓石の後に立っている石碑

石碑の裏。昭和55年10月(22日)に『(財)日本美術刀剣保存協会』の宮城県支部によって建てられたことがわかる

名刺受に赤トンボ。あたりは蝉の声がうるさいほどだった



 初代国包は本名を本郷源藏といい、後に吉之允と改める。23歳の時に伊達政宗に召し抱えられ、28で越中守正俊のもとで数年の修行をし、37(36歳説 有り)で『山城大椽』を受領(ずりょう)する。54で家督を二代目吉右衛門に譲り、隠居後は入道し『松島瑞巌寺中興雲居禅師』より諱『用恵』、字『仁澤』 を授かる。
 本郷国包家は保昌五郎貞宗の末流といわれているが、十一代三之助は「九曜紋給わりたる事なく又保昌五郎が末ならず」といって否定しているそうだ。