2009年1月4日日曜日

初詣

 塩竃神社へ初詣。

 参拝客で込み合う正月三ヶ日を避けたのだが、第二駐車場まで車の列が続き、駐車するまで大分時間がかかってしまった。それでも肝心のお参りはゆっくりとすることができた。

 お参りも済んだので、博物館へ。
 刀剣類に関しては前回見た内容とほぼ同じだったが、『雲生』と『来国光』が入替えられており、糸巻太刀拵と共に展示されていた。刀身だけでも見応えはあるが、外装と一緒だと尚素晴しい。更には来国光の『太刀箱』と、それらが奉納された際に奉上された祝詞も展示されていた。黒い太刀箱には、金の字で

  奉献上
  鹽竈六所大明神御寳前 御太刀一振 來國光
  延寳三乚卯歳仲冬十日
  従四位下行左近衛權少将兼陸奥守藤原朝臣綱基

と箱書きされてある。因みに来国光の奉納について、「一 來國光御太刀 但御拵金作、鞘外白鞘、金襴袋入黒塗箱淺黄羽二重服紗包、黒塗外家筥入、延寶三年 十一月十日 綱基公御奉納。」、「一 來國光御太刀 壹腰 但御拵金作鞘外白鞘金襴袋入桐之白箱ニ入、減黄羽二重服紗包黒塗之外家筥入延寶三年十一月 太守綱基公御奉納」などの記録がある。
 祝詞には綱基(後の綱村)公が「延宝三(1675)年十一月十日に太刀とともに神馬一頭を鹽竃六所大明神の広前に奉る」と記されているそうで、『鹽竃六 所大明神』とは塩竃神社の古い呼称なのだそうだ。『六所明神』について、『鹽竃社神籍』には「鹽竃六所大明神、或曰、猿田彦、事勝國勝、鹽土老翁、歧神、 興玉神、大田命、六座同禮之神、故有六所名成、」、『鹽竃社縁起』には「鹽釜六所明神、或曰、猿田彦、事勝國勝、鹽土老翁、歧神、興玉神、大田命、六座同 體異名神也、祠之於別宮、」 と記載されている。縁起といえば、同じく去年の初詣で来館した際に見た『鹽竈神社縁起』には、「左宮武甕槌命・右宮經津主 命・別宮岐神」と書かれており、「あれ、塩釜の神様の名前がない」と怪訝に思ったことがあった。しかし、神道の知識が無いので「創建以来、塩竃神社の祭神 の名は明らかにされておらず、四代藩主綱村公が家臣に命じて神社に関する調査させた。」という解説を読んで、「この頃はまだはっきりしていなかったのかな」とそれ以上は深く考えなかった。

 鹽竃神社は名称が『鹽竃宮』、『鹽竃明神』、『鹽竃六所明神』、『三社の神』など色々あり、祭神も一定していなかった。それを綱村公が游佐好生らに調査させ、吉田兼連に縁起の撰述を要請する。それが前述の『鹽竈社縁起』である。祭神は

 陸奥國一宮正一位鹽竈大明神三座
 左宮 武甕槌神
 右宮 經津主神
 別宮 歧神

となっており、異論もあったようだがこれに代わる決定的な説は出なかった。
 その後、藤塚雅楽が『鹽竃神社記』を著し、

 所祭三座
  別宮 鹽土老翁
  左宮 武甕槌神
  右宮 經津主神

 とし、更には「猿田彦、事勝國勝、鹽土老翁、岐神興玉神、大田命は各其系譜異にして、時代亦同じからず。然れども導く所に於て其揆一なり、故に配享し以て六神同禮なり、と云ふは可なり、同體異名なり、と云ふは不可なり」と記し『鹽竈神社縁起』と異なる見解を示した。
 別宮は岐神から鹽土老翁へと代わり、やがて明治七年に国幣社へ加列される。