2009年5月6日水曜日

憧れの二大博物館

 ゴールデンウィークのラストを飾るのは東京。
 また一日休息日を挟んで、今日は東京へ向かうことにした。以前から、早く行かなければと思っていた『東京国立博物館』や『刀剣博物館』を見学するためだ。貧乏旅行のために高速は使わず、ひたすら国道4号を行く。疲れを残さず東京行きを迎 えることができたが、今までで一番の長距離のため一抹の不安が残る。それに早朝の出発は辛い…。

 流石に朝早いと道路は空いているので、始めは快適に進めた。これは毎度のことである。しかし、行けども行けども東京までの距離は縮まらない…。「やっと 福島に入った」、「やっと福島を抜けた」、「やっと栃木に入った」とこんな調子である。「東京まで○○km」という案内が路肩にあるのだが、その数字がな かなか減らない。それもそのはず、 4日前は日光(約250km)まででヒイヒイ言っていたのに、さらに100km離れた東京へ向かうのである。中々着かないのは当然だ。
 それでも埼玉に入る頃には、様々な名刀に出会えることへの期待に胸を高鳴らせていたが、同時にちゃんと駐車場まで辿り着けるか心配になってしまった。

 上野駅の近くまで来られたのは良かったが、予定していた駐車場へ行くのに中央通りを右折しなければならないのに、土地勘が無いせいで左折してしまい、グ ルッと遠回りするハメになってしまった。二度目は右折できたが、上野恩賜公園の駐車場を順番待ちする車が長蛇の列をつくっており、松竹デパートの前から 中々進まなかった。
 ようやく駐車場に車を置き、「いざ国立博物館へ」と思ったら雨が降ってきた。折り畳み傘を持っていたが、「どうせ博物館に入ったら仕舞わなければならな いんだし」と何だか傘を出すのが億劫になってしまい、そのまま博物館へ向かうことにした。ところが、博物館までの距離が結構(約700m)あり、少し濡 れてしまった。
 正門で入場券を買うらしく、二ヶ所ある券売所のうち、込み合っている方に並んでみると、それは今話題の『興福寺創建1300年記念「国宝阿修羅展」』の 観覧券を購入する人達の列だった。阿修羅像を拝めるのは滅多に無いことだが、観覧料は1,500円と知り悩む。一般の二倍以上である。それに多分、相当混 んでいてゆっくり見学するのは難しいのではないかと判断し、一般券を購入することにした。こちらはがらんとしていた…。




 正門を潜ると、正面に『帝冠様式』というのだそうだが、立派な外観の『本館』がすぐ見える。これからどんな名刀に合えるのか、期待と不安が交錯する。右手にある『阿修羅展』の会場である『東洋館』を横目にしながら、『本館』を目指す。
 玄関に入ると、前方、左右と三方向に部屋が分かれており、順路がわからず一瞬迷ってしまった。取り敢えず右手から見学を始めることにしたが、それで正解 だった。先ず仏像などがが展示されている『彫刻』から始まり、『彫刻と金工』、『陶磁』、『漆工』と続き、次はお待ちかねの刀剣コーナーである。


 ・太刀 三条(名物 三日月宗近) 80
 ・短刀 来國俊(ウラ)正和五年十一月日 21.5
 ・太刀 則國
 ・短刀 □(南)都高市郡住藤原貞吉 □(文)保元年丁巳年二月吉日
 ・刀 金象嵌銘 光忠 本阿(花押) 
 ・太刀 備前國長船長義
 ・短刀 國廣鎌倉住人(裏)元亨四年十月三日 24.3
 ・刀 金象嵌銘 江磨上光徳(花押)(名物 北野江)
 ・太刀 左衛門尉藤原國友 正中元年□月日
 ・短刀 左安吉(名物 一柳安吉)
 ・刀 國廣
 ・刀 肥前國忠吉


 なんと、初っ端が『宗近』である。本でしか見たことのない、あの名刀が目の前にある。感動や興奮が起りそうなものだが、突然すぎて実感が湧かない…。宗 近は佩裏に銘をきったというのは知っていたが、本当に鋒が左を向いた状態で展示されていた。よく見れば、号の所以である所謂、三日月形の『うちのけ』が 所々に見て取れる。刀の特徴を、実際に見てみて確認出来ると、えも言われぬ喜びがある。
 
 川口陟の『定本 日本刀剣全史』によると、昔の刀剣書に「三条宗近は河内国有成同人」とあるそうで、それが本当なら、河内の有成が山城へ移住し、名を宗近と改めたというこ とになる。著者は「では何故に河内国に刀匠が発生したか、その名が有成と称する点から考察すれば、同時代の備前国に、実成、友成、介成らの刀匠があり、ま た備前正恒は奥州有正の子とあれば、これら一派の刀工らと共に、奥州から大和、河内などに移住したものと見なければならぬ。」と、名前の『成』の共通性か ら有成が奥州から俘囚として移住してきた可能性を述べている。もし、宗近と有成が同一人物であるならば、宗近も奥州と関わりがあることになる。有成は宗近 の子とするのが一般的だが、京の都からわざわざ河内へ移った理由は何だったのだろうか。
 同じく『定本 日本刀剣全史』の中で、江戸時代のものではあるが、『摂陽群談』という地誌の「三条小鍛冶宗近並国久旧屋、有馬郡小名田村にあり、旧栖家伝云、宗近、国久 出生の地、或は当領主都より呼下して剣戟を作らしむとも云へり、金床の跡、于今あり、此旧屋に住する者、宗近の誰、国久の誰と諱を以て氏と為す、世俗剣を 作れる所を金床と云へり、毎年正月、注連を曳て燈明を置り、宗近、国久等剣を作るの妙術を感じて当所の埴土、金工于今所設之、「神社啓蒙」云、稲荷社者、 金工専為主神可也、曰有小鍛冶者、造剣戟、其利無能及無及也、一旦取当山埴土、以覚堪鎔刃也、仍数為埴土来住、且拝神矣、世不構此埋、徒為金工守神、 云々」という一文を紹介している。摂津国有馬郡は現在の兵庫県南東部にあたる。
 その他、「備前住為吉の子で、永延年間に京都へ移住し、三条小鍛冶と称した」という説もあるようだ。
 ところで、菊池山哉の著作に次のような説がある。『三条』は『産所』と同じで、『守戸』に通じるという。『守戸』は『陵戸』のことで、恐らく『産所』は 『散所』と同じものと思われる。『陵戸』は古代の陵墓守衛民のことで、触穢思想から卑賤視された。菊池はこの『守(陵)戸』から『産(散)所』が出たと考 えたのだ。三条宗近の『三条』が『産(散)所』と繋がりがあるかどうかはわからないが、その筋から職人など特殊技能を持った者が出ることは考えられなくは ない。因に散所には『声聞師』、『陰陽師』、『行者』などを生業とする者がいた。奥州鍛冶の、取り分け月山鍛冶は修験者を通じて、遠く九州などにも伝播したといわれる。そういうネットワークを通じて宗近が作刀技術を習得したとは考えられないだろうか。

 閑話休題、その他『国俊』、粟田口『則国』、保昌国光の子保昌五郎『貞吉』、長船の祖『光忠』、相伝備前の『長義』、新藤五国光の子『国広』、「郷と化 物はみたことがない」でお馴染み『郷義弘』、延寿『国友』、流浪の刀鍛冶『国広』、大左の子『安吉』と名立たる名刀ばかりが展示されていた。上手く言葉に 出来ないが、何らかのイデアが名刀には内包されているとしか思えない。或いは『刀のイデア』を持つ刀剣は、見る者に深い感動を与えるのではないだろうか。
 最後を飾っていたのは所謂『五字忠吉』。これまた忠吉も指表ではなく、指裏に銘をきる。例外があるものの、太刀銘にきるのが忠吉一門の伝統となったようだ。なぜ忠吉は太刀銘をきったのだろう。更に不思議なのは、脇差は指表に銘をきっているのだ。謎である。


 ・小桜透鐔 無銘(刀匠) 
 ・弓矢雁透鐔 無銘(尾張)
 ・梅花短冊透鐔 無銘(古正阿弥)
 ・胡蝶透鐔 芸州住貞刻
 ・芹図鐔 山城國西陣住埋忠七左作
 ・八ツ蕨手透鐔 林又七
 ・猛禽補猿図鐔 無銘(志水甚五)
 ・鼓透鐔 在哉
 ・鶴丸図鐔 武陽住如竹叟行年六十歳作之(花押)
 ・牛若丸弁慶図大小鐔 (大)周斎石黒(花押)(小)周斎石黒包元(花押)
 ・月に桜花図鐔 なつを(花押)鍛清人


 鐔と小道具類も展示されており、特に刀匠の作とされる『小桜透鐔』を見ることができて嬉しかった。私は文透など刀匠や甲冑師が作ったとされる、シンプル な意匠の透鐔が好きで、視覚的情報量が少ないせいか、ずっと見ていても飽きがこない。しかし、目が慣れてくるとデザインだけでなく地金に良し悪しに目がい く。展示されている『小桜透鐔』は大変素晴しいものだった。『刀匠鐔』は、『刀盤図譜』に「上古、刀を誂えて打立ちさする時は、鐔を添えて作りたり」とあるあそうで、ここから来ているようである。


 ずっとこの空間に居たいところだが、この次の予定を考えるとそうもいかない。未練を断ち切って残りの展示室を見て回ることにする。その中で特に興味深 かったのは、『民俗資料・アイヌ・琉球』のコーナーに展示されていたアイヌの山刀と太刀だった。『アイヌの狩猟と漁撈』というテーマで、アイヌ民族の狩猟 用の道具が展示されていた。山刀は『タシロ』といい、山猟の際に携行したという。太刀は山刀や鉈と同じ使い方をし、熊など獣を猟るのにも使用したそうだ。
 アイヌの言葉で太刀のことを『エムシ(emus, - i)』といい、その語音からエミシ(蝦夷)を連想し、蝦夷はアイヌ人とする説がある。私も「刀を肩から下げる、佩刀する」ことを『エムシ・ムツ』ということから、安易に『蝦夷、陸奥』と連想してしまった。しかし、これはアイヌ人から見て蕨手刀を腰に吊るすエミシの姿が印象的で、アイヌ人がエ ミシの太刀を『エムシ』と呼ぶようになったのではないだろうか。アイヌに刀鍛冶は居らず、物々交換で刀を手に入れていたという。因みにアイヌ語で鐔は 『セッパ』というが、これは輸入語だそうで、切羽からきていることは想像に難くない。
 刀を意味する言葉は他にも『アエシポプケプ』、『シポプケプ』、『チムッペ』、『ラムコパシテプ』などが有るそうだ。アイヌ人は『エミシ』と呼ばれるこ とを嫌ったという。これは自分たちのことを蔑称的に『エミシ』と呼ばれることを嫌ったと考えるのが普通だが、もしかするとアイヌ人が『エミシ』と同一視されることを嫌ったということなのではないだろうか。

 刀剣コーナー以外は殆ど落ち着いてみる事ができず、覗いてすらいない部屋もあった。しかし、帰りの時間を逆算すると、そろそろ移動しなくてはならない。



 国立博物館をあとにし、次に目指すは『刀剣博物館』。
 地下鉄で代々木に向かい、駅を出ると雨が大分強くなっていた。折り畳み傘を出すが、雨が強くて濡れてしまう。雨の降りしきる中、大分迷ったが、どうにか辿り着くことができた。




入口には薫山、寒山両先生の胸像が


 正面玄関から中に入ると、どうやら一階は事務室で、二階が展示室になっているようだ。階段を上ると、直ぐに受付が見える。

 展示室に入ると、相当数の刀剣が目に入ってくる。帰りの時間も考えなければならないが、30分程度でまともな見学ができる数ではない。量からいって、寧 ろこちらに時間を割くべきだとさえ思える。国立博物館も満足のいく見学時間ではなかったが、あれ以上居たらこちらで許される時間が僅かになってしまったこ とだろう。


 ・太刀 兼永
 ・太刀 来國光
 ・太刀 康暦元年八月日 包吉
 ・短刀 貞興
 ・短刀 兼友
 ・太刀 月山作
 ・刀 無銘(則重 号太閤則重)
 ・刀 村正
 ・脇指 無銘(伝正宗 向井将監忠勝旧蔵)
 ・太刀 信房作(因州池田家伝来)
 ・太刀 備前國景安
 ・太刀 真則
 ・太刀 長光
 ・短刀 備州長船元重(ウラ)正和五年六月日
 ・短刀 備州長船住兼光(ウラ)暦応三年十月
 ・脇指 備州國長船兼光(ウラ)貞和三年十二月日
 ・刀 無銘(長船倫光)
 ・刀 無銘(伝長重 大島津家伝来)
 ・太刀 備州長船師光(ウラ)永和二年六月日(庄内酒井家伝来)
 ・太刀 備州長船次行
 ・太刀 備州長船家助(ウラ)永享九月八月日
 ・刀 備前國住長船五郎左衛門尉清光(ウラ)天文廿四年八月吉日
 ・太刀 是友(古青江)
 ・刀 無銘(古青江)
 ・刀 津田越前守助広(ウラ)延宝九年八月日
 ・刀 板倉言之進照包(ウラ)延宝八年二月吉日
 ・脇指 相模守藤原政常
 ・短刀 繁慶
 ・脇指 乕徹入道興里(ウラ)彫物同作
 ・刀 水心子正秀(ウラ)出硎閃々光芒如花 二腰両腕一割若瓜
 ・短刀 源秀寿(ウラ)天保五年仲冬 為涛斎主人作之
 ・刀 為村上重君石堂運寿是一精鍛造之(ウラ)嘉永七甲寅歳二月日
 ・刀 奥州仙䑓住藤原國包(ウラ)寛文五年三月吉日
 ・刀 於南紀重國造之
 ・短刀 近江大掾藤原忠廣
 ・刀 肥前國住人伊予掾源宗次
 ・刀 肥前一文字出羽守行廣


 こちらも名刀がずらりと揃っている。正直、半分以上を把握出来ない。全体的に備前ものが多いのが印象的だった。国立博物館の三条宗近の後、今度は五条兼永である。国包をここで見られるとは思わなかった。
 あまりの質と量にお腹一杯である。全ての刀を脳裏に焼き付けるのは無理である。国立博物館に続いてはしごし、しかも全てが初見。それにしても、刀剣博物館に足繁く通える人が羨ましい。
 帰りの時間が気になり、そろそろ帰らねばならなくなった。一応、受付の方に展示品の入れ替えについてお尋ねすると、年間予定の案内を頂くことができた。 是非また此処に来ようと心に決めながら、刀剣博物館を後にした。今日は国立博物館がメインだったが、量的な見応えは刀剣博物館の方が上だった。勿論、質も 負けず劣らずだ。

 一度見ただけでは決してわからない。何度でも見たい。更には未だ見ぬ刀もっとあるはずだ。それに、他にも都内で行ってみたい場所は沢山ある。上京する回数を増やさねば。
 今日は、遥々340kmを走って来た甲斐があった。もちろん、帰りもあるわけだが…。国立博物館で一日を費やしてたら、刀剣博物館での感動は無かっ た。しかし、国立博物館の見学にもっと時間を掛ければ、勉強になったり感動があったかもしれない。どうしても、少しでも多くを見たいと思ってしまう貧乏 性。スケジュールに問題があるのはわかっているのだが。出来れば泊まりがけで余裕を持って来たいものだ。
 家に着いたのは、日付が変わってからだった。腹が減ったが眠い。眠いが腹減った。兎に角疲れた…。


 後日談が三つある。一つ目は『阿修羅像』だが、たまたまTVでその特集を見たが、館内は相当な込み用で、結局は落ち着いて観られる状況ではなさそうだった。金をケチったということもあるが、混雑を予想して観覧券を購入しなかった判断は正解だったようだ。
 二つ目は、本館の二階に『武士の装い - 平安~江戸』というコーナーがあり、ここにも名刀や鎧が展示されているようなのだが、知らずに見逃してしまったということ。刀剣コーナーを見て全て見た気 になってしまっていたのだ。下調べが不十分で、更には時間に追われて他のコーナーを落ち着いて見られなかったのが原因である。本当に勿体無いことをした。 大鎧や具足の一領も見当たらないと不思議に思っていたのだが。次回は絶対二の轍を踏むまい!
 三つ目は、高熱で床に臥してしまった。世間では新型インフルエンザが問題になっており、国立博物館内に外人が結構居たので、うつされたのではないかと生きた心地がしなかった。雨に濡れて風邪を引いてしまっただけだったのだが。

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