2010年6月27日日曜日

登米市歴史博物館『刀の拵~華麗なる刀剣外装の美~』


 『登米市歴史博物館』で開催中の『刀の拵』を見に行く。

  昨日、塩釜神社博物館内で『刀の拵』のという企画展の案内を見かけたのだが、帰りの車中で行こうかどうしようか少々迷っていた。なぜ迷ったかというと、拵 の展示が中心で恐らく刀身は期待できないだろうし、道の下調べが面倒だからである。しかし、折角の県内で見られる刀剣関係の展示会なので、塩竈神社博物館で揚がったテンションそのままに企画展へ出かけることにした。 
 帰宅してから調べてみたところ、企画展『刀の拵~華麗なる刀剣外装の美~』は、『登米市歴史博物館』の開館10周年記念展なのだそうだ。よく見ると、日刀保の宮城県支部が共同主催のようで、期待が高まる。




受付で入場料を払おうとしたら、思いがけず帳面への記帳を促された。なんだか仰々しいなとも思ったが、その代わり入場料は無料だった。
 企画展の展示室は、受付の直ぐ隣なので早速見学開始。

・青貝塗千鳥貝散鞘大小拵
・朱塗藍鮫皮包鞘打刀拵
・紫貝塗込鞘脇指拵
・孔雀石研出鞘打刀拵
・茶漆斜刷毛目塗青貝部分微塵散打刀拵
・梅花皮鮫黒研出鞘打刀拵
・変塗鞘脇指拵
・黒呂色塗蒔絵鞘打刀拵
・朱変塗菊紋金蒔絵鞘打刀拵
・朱黒漆片身替鞘打刀拵
・青貝微塵黒蛭巻鞘打刀拵
・麻糸巻朱漆黒卯殻微塵塗蛭巻鞘打刀拵
・青貝微塵散金切金塗込鞘脇指拵
・金粉平目地刷毛目模様塗鞘打刀拵
・藍鮫砂出黒漆卍紋塗鞘脇指拵
・黒漆塗九曜紋鞘半太刀拵
・黒塗藍鮫皮包二分刻鞘打刀拵
・尻鞘
・金梨子地桐葵紋散蒔絵糸巻太刀拵
・黒漆塗葵紋散蒔絵太刀拵
・金梨子地樋樫木唐草竹雀巴紋蒔絵鞘細太刀拵
・黒漆研出鮫皮包鞘大小拵
・赤茶漆塗鞘大小拵
・梅花皮鮫黒研出鞘大小拵
・棕櫚塗込鞘大小拵
・孔雀石研出鞘大小拵
・青貝微塵散金粉変塗鞘大小拵
・青貝微塵変塗鞘大小拵
・黒呂色塗刻鞘大小拵
・黒石目地鞘大小拵
・片身替黒漆鶴足皮包金粉平目地鞘打刀拵

 展示室の四方の壁面ケースに大量の拵が、中央の覗き型ケースには小道具類が展示されていた。やはり刀剣の展示は無かったが、ご存じ『稲荷山小鍛治』の作者尾形月耕の『夜討曽我』が飾られていた。
 解説が無かったので製作時期など詳しいことはわからなかったが、拵の名称は色や模様、材質、形状などを特徴をそのまま表しているので、どの言葉がどの部分を指しているのか考えるだけでも面白い。


 企画展示室の隣の部屋(常設展示室)も念のため覗いてみると、大太刀が展示されていた。

・大太刀 八幡宮 奉献上 藤原春康 元禄四年辛未年八月十五日 敬白

 作者銘が無いので誰の製作かわからないが、登米近辺に住した刀鍛冶の手によるものなのだろうか。『仙台藩刀匠銘譜』の仙台藩刀匠譜略によると、享保頃に 栗原郡高清水住の伝四郎正利という鍛冶がいたそうだ。彼は出羽国の善兵衛の弟子だったが、世継相続を許されず、野鍛冶になったという。野鍛冶は槍を作るこ ともあったというし、一応、刀鍛冶の元で修行した経験を見込んで大太刀の製作を依頼したという可能性はないだろうか?


 今回の企画展は博物館の開館10周年記念展ということだが、次は20周年記念になるのだろうか。できれば記念展に拘らず、日刀保宮城県支部の企画展をどんどん開催していただきたい。


 『石ノ森章太郎ふるさと記念館』へも行ってみたかったが、丁度良い時間なので今日はこのまま帰ることにした。時間があれば『登米懐古館』へ寄ってみてもよかったな。

2010年6月26日土曜日

塩竈神社博物館

 初詣以来、半年ぶりの『塩竈神社博物館』。

 前回は『新春特別展 仙台の刀工安倫』が開催されていたので、正月早々沢山の刀剣を見ることが出来た。しかし、今日は特に特別展が催されているわけではないので、「来国光か雲生が見られればいいや」と期待せずに塩竈神社へ向かう。
 博物館へ入館すると受付に誰も居なかったので、そのうち誰か来るだろうとしばらく入口で待つことにした。何気なくいつも刀剣類が展示されている辺りに目 をやると、通常より広めに展示スペースがとられていることに気付いた。否応にも期待が高まる。暫くすると学芸員が見えられたので、受付を済ませ目当ての コーナーへ真っ先に向かう。見学を始める前に、刀剣類が展示スペースがどれくらいか気になったので、入り口から死角になって見えない奥のスペースを見やる と、そこも殆ど刀剣で占められていた。正月の特別展とほぼ同じ展示面積である。

・太刀 来國光
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
    (裏)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・太刀 重勝
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 永茂
・太刀 田代秀太郎藤原長俊造之(裏)天保十三年八月日
・刀 仙臺住白龍子永繁(裏)明治元年十二月日
・太刀 藤原國包
・太刀 藤原國包作
・太刀 包吉
・太刀 兼次
・太刀 包蔵
・太刀 國次
・脇指 奉献納寶剣一振 塩竈大明神御廣前(裏)奥刕仙䑓住家定 元禄七年五月廿一日以南蛮鉄鍛之
・剣 奉納寶剣一振 家定 塩竈大明神御廣前(裏)元禄九年二月吉日 仙䑓住福田助左衛門
・太刀 家定
・太刀 家定
・太刀 安倫
・太刀 安倫
・太刀 安倫
・脇指 奉納鹽竈宮大明神御寶前 武江城下之住 山野氏久英
 (裏)本國常陸住人至半佰 肥後守橘吉次作之 於武列江戸鍛冶士精盡
・刀 月山金利

 いつもの入館料200円でこの刀剣数はかなりのお得感がある。大満足である。もしかして前回、学芸員の方に刀剣類のスペースを増やして欲しいと要望したのが聞き届けられたのであろうか。その代わり、急に2~5月の展示内容が気になってしまった…。
 館内で『刀の拵』という企画展の案内が目に入った。場所は『登米市歴史博物館』。拵が中心で刀身は展示されてなさそうだが、面白そうなので明日行ってみようか…?

2010年5月5日水曜日

東京国立博物館&刀剣博物館

 Uターンラッシュの落ち着いた頃を見はからい東京へ博物館見学へ。

 折角眠い思いをして朝早く家を出ても、上野に着いてから駐車場探しに手間取る。このタイムロスが今後の課題。




 先ずは『東京国立博物館』、一階の『刀剣』コーナーから。

・直刀 無銘(号 水龍剣) 附)宝剣拵
・太刀 宗近村上
・太刀 國俊(ウラ)弘安元年十二月日
・太刀 大和則長作
・太刀 助則
・小太刀 長光(名物 蜂屋長光)
・短刀 國光
・刀 無銘(名物 石田正宗)
・太刀 兼氏
・刀 勢州桑名住村正
・刀 大隅掾藤原正弘(ウラ)慶長十一年三月吉日
・刀 長曽祢虎徹入道興里(ウラ)(金象嵌銘)四胴 山野加右衛門六十六歳ニテ截断 永久(花押) 于時寛文五年二月廿五日

 『号 水龍剣』は切刃造の直刀で、元正倉院御剣。『宗近村上』は三条近村の『近村上(たてまつる)』の銘に宗の字を足したものだという。『国俊』は、『二字国 俊』と『来国俊』別人・同人説がある。尻懸派の祖則弘の子『則長』、大一文字助宗の子小一文字『助則』、『名物 蜂屋長光』は奥平美作守所持で、『長光』も別人説「初代長光は光忠の子で、法名順慶、左近将監長光は順慶の子」と同人説「左近将監長光が老後入道して順慶 と号した」があるという。新藤五『国光』、名物『石田正宗』は政宗公が所有していたが『日向有馬修理』へ売り、それが池田長吉の手に渡り、後に徳川秀忠、 尾張徳川家へ伝来。志津三郎『兼氏』、千子『村正』、国広の子(甥とも)『正弘』、『長曽祢虎徹入道興里』の截断銘は試し斬りの名人『山野加右衛門永久』 によるもの。


 次は二階の『武士の装い―平安~江戸』コーナー。

・牡丹造兵庫鎖太刀拵
・黒檀地花鳥蒔絵脇指拵(金具 後藤一乗、螺鈿 中野一跡)
・短刀 行光
・瑞雲文蒔絵合口拵(短刀 行光の拵)
・刀 無銘(元重)
・朱漆打刀拵(刀 無銘 元重の拵)
・太刀 吉包
・梨地葵紋蒔絵糸巻太刀拵(太刀 吉包の拵)
・薙刀 備州長船住盛景 至徳三年六月日
・十文字槍 兼常

 正宗の父ともいわれる相州『藤三郎行光』、守重の子長船『元重』、永包の子古備前『吉包』、大宮盛次の子長船『盛景』、関『兼常』。

 次は『刀剣博物館』。上野からの移動で結局、一時間ほどかかってしまう。これが結構痛い…。




 『刀剣博物館』では『鈴木嘉定コレクション寄贈品展』が開催中(平成22年3月30日~5月9日)。

・短刀 貞興
・刀 (金象嵌銘)尻懸則長磨上之 本阿(花押)(光室)  附)天和参年本阿弥光常折紙
・太刀 □(州)長船住元重
・刀 無銘(伝青江吉次)  附)享保参年本阿弥光忠折紙
・太刀 豊後國僧定秀作
・太刀 備州長船盛光(ウラ)応永十二年八月日
・刀 兼元
・脇指 羽州住人月山近則(ウラ)永正九年二月吉日
・脇指 長谷部國重
・刀 無銘(兼光)  附)寛永廿年本阿弥光温折紙
・太刀 備州長船師光(ウラ)永和二年六月(以下切)
・刀 備前國住長船五郎左衛門尉清光(ウラ)天文廿四年八月吉日
・刀 (金象嵌銘)延寿國時 貳ツ胴截断
・短刀 國資
・刀 藤原廣實
・薙刀 越中守正俊
・脇指 相模守藤原政常
・短刀 繁慶
・刀 於南紀重國造之
・刀 肥前國住人伊予掾宗次
・刀 無銘(当麻)(金象嵌銘)恐
・刀 (一葉葵紋)主馬首一平安代
・短刀 源秀寿(ウラ)天保五年仲冬 為濤斎主人作之
・刀 豊永東虎左行秀為嫡子幾馬(ウラ)明治三年二月吉日 行年五十八歳造之
・短刀 近江大掾藤原忠廣

・太刀 傘笠両山子正峯作之 庚申年霜月日(ウラ)以日刀保多多羅胴下作之
・脇指 以日立新玉鋼 宮入行平作(ウラ)昭和五十二年正月
・短刀 太阿月山源貞一作(花押)(ウラ)昭和五十二年十月吉日
・脇指 太阿月山源貞一作(花押)(ウラ)日刀保たたら炉以初玉鋼試作之 (棟)昭和五十三年二月吉日
・大身槍 謹呈鈴木嘉定先生 刀剣博物館竣工記念 加賀國住人隅谷正峯(ウラ)昭和丁未霜月吉日 迫日本号 寒山(花押)
 (彫銘)苔口仙琇彫之(金象嵌・花押)

・黒塗織田木瓜紋蒔絵薙刀拵(薙刀 越中守正俊の拵)
・朱塗鞘薙刀拵(長刀 出羽大掾国路の拵)
・朱塗一分刻鞘小さ刀拵(短刀 繁慶の拵)
・茶石目地塗腰金沃懸鞘葵紋金具大小拵 附)刀身 忠吉・兼則
・藍鮫鞘九曜紋金具肥後打刀拵(小林隆忠一作金具) 縁・鐔(銘)小林隆忠(花押)
・金海老茶砂子塗鞘楽寿金具肥後打刀拵
・黒鑞色氷割文螺鈿鞘大小拵
・脇指 備前介宗次作之(ウラ)弘化三年八月日 贈一乗法橋 附)桜皮笛巻塗鞘腰刀拵(後藤一乗一作金具)
・金沃懸地菊紋唐草蒔絵鞘糸巻太刀拵(太刀 僧定秀の拵)
・変り塗腰朱刻鞘肥後打刀拵(刀 孫六兼元の拵)
・青貝螺鈿鞘柄桐違い鷹の羽紋散金具大身槍拵(大身槍 隅谷正峯の拵)

 無銘当麻の金象嵌銘『恐』とは桃山時代のことだそうだ。

2010年2月14日日曜日

『光芒の再生 赤羽刀のきらめき』

 一関市博物館で開催中の企画展『光芒の再生 赤羽刀のきらめき』を見に行く。


 昨日、一関市博物館のサイトを何気なく見たら、『光芒の再生 -赤羽刀のきらめき-』という企画展が開催されていることを知る。文化庁との共催ということで、貴重な刀剣が見られそう。


 博物館の正面入り口前にある、企画展の案内を見て驚いてしまった。なんと今日が最終日ではないか。企画展は二ヶ月ほど前から始まっていたというのに、昨日まで全く気付かず危うく見逃すところだったのだ。
 先ずはいつも通り、『儛草刀と刀剣』コーナーへ。

・太刀 正恒
・太刀 寶壽
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・脇指 寶壽
・脇指 寶壽
・刀 月山
・刀 無銘(月山)
・刀 月山正信作
・太刀 月山定吉作二月十一日
・刀 軍勝作
・長刀 出羽國之住人月山近則(ウラ)永正二年二月日
・剣 山城大掾藤原國包 寛永十八年七月吉日(ウラ)山城子源二郎國包 (樋銘)奉寄進松島山王明神寶殿(ウラ)住持雲居叟希膺代
・脇指 奥州仙䑓住藤原國包(ウラ)慶安五年二月吉日
・刀 山城守藤原國包
・刀 安倫(ウラ)宝永ニ乙酉歳六月二十五日
・刀 一関士源宗明作(ウラ)應西尾守房需
・十文字槍 一関士宗明

 思いがけず、念願の正恒を初めて見ることが出来た。思えば初めて一関市博物館に来たとき、当たり前のように正恒と国包が見られるものと勝手に思い込んで いたので、展示されていないことにガッカリしてしまった。いつ見られるのかと受付で問い合わせたが、その時は明確な回答は得られなかった。国包は後に見る ことができたが正恒は叶わず、半ば諦め仕舞いには一関市博物館に所蔵されていることも忘れてしまっていた。それを今回は特別出品ということで、遂に目にす ることが出来た。
 正恒もそうだが、宝寿4口、月山4口、國包3口と企画展を意識してか、随分力の入った展示内容だった。正恒を除いては、全て奥州刀で統一するという凝っ た展示内容だ。正恒は古備前の刀工であるが、父の有正は儛草鍛冶だという説があり、本当ならば正恒も奥州鍛冶と無縁ではない。
 初代国包と孫(三代目)の合作の剣、二代国包の脇指、安倫の三口は仙台市博物館から貸し出しだそうだ。所蔵している仙台市博物館でも見たことがないの に。他所へ貸し出しするのは結構なことだが、所蔵元で見られないというの残念なことだ。色々事情があるのだろうけど。聞くところによると、仙台市博物館に は刀剣に明るい女性学芸員がいたが、現在他所で修行中なのだとか。修行が終わって仙台市博物館に戻ってくると、なんとナンバー2の地位が待ってるという。 もしそうなれば、刀剣の展示に期待ができるようになるのではないだろうか…?いや、あくまで風の噂と私の妄想です。


 テーマ展示だけでも充分楽しめたが、次はいよいよ企画展示室へ。

・短刀 國光
・太刀 定利
・太刀 宗忠
・太刀 則房
・太刀 備前國長船住長元作
・太刀 (朱銘)青江長次(ウラ)光遜(花押)
・小太刀 無銘(藤島友重)
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・刀 相州住廣次作(ウラ)永正元年八月日
・刀 落陽住信濃守國廣
・脇指 丹波守吉道
・長刀 越中守正俊
・刀 於南紀重國造之
・刀 (葵紋)以南蠻鐵於武州江戸越前康継(ウラ)江陽素産高田亀助
・脇指 (葵紋)康継於越前作之
・刀 大和守安定
・刀 長曽祢興正
・刀 近江守高木住助直作(ウラ)延寶五年三月日
・刀 井上真改(ウラ)延寶六年八月日
・脇指 陸奥守包保
・脇指 肥前國住藤原忠廣
・脇指 武蔵大掾藤原是一
・脇指 對馬守橘常光
・短刀 兼常
・脇指 源清麿
・刀 備前介藤原宗次(ウラ)慶応元年五月日


 気になったのは幾つかの刀の中心に、白いものが付着していたことだ。恐らくペンキか何かでナンバリングしたのではないだろうか。そんなところからも、刀のぞんざいな扱いが窺い知れる。どうも赤羽刀のことを考えると、憎悪が込み上げてくるのを禁じ得ない。

 まさか刀剣博物館とほぼ同じ展示量があるとは思ってもみなかった。できれば日を改めてもう一度来たかった。

2009年5月23日土曜日

塩釜神社博物館

 今日は約半年ぶりに『塩釜神社博物館』へ。
 
 ゴールデンウィークの刀剣見学は、質・量ともに大満足だったが、私には過食気味のコース内容であった。あれだけの量が果たして、きちんと栄養として体内に行渡ったのかどうか。それでも、一口でも多く見たいと思うのが人情というものである。卑しいだけか…。
 本日は、新しい場所へ刀剣を見に行くと、何故か足を運びたくなる塩釜神社博物館へ。


・太刀 来國光
・刀 安倫 75.4 2.4  延宝三年(1675)
・刀 國包 62.4 1.6  二代目
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
   (ウラ)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・刀 月山金利 69.2 1.5


 今回は思いがけず、『二代国包』と『月山』を見とことができた。その他、糸巻太刀拵が来国光附属のものを含め計五口、葵木瓜形鐔三点が展示されていた。何れも初見ではないが、太刀拵の美観的完成形と云える糸巻太刀、特に葵鐔はつい見蕩れてしまう。

2009年5月6日水曜日

憧れの二大博物館

 ゴールデンウィークのラストを飾るのは東京。
 また一日休息日を挟んで、今日は東京へ向かうことにした。以前から、早く行かなければと思っていた『東京国立博物館』や『刀剣博物館』を見学するためだ。貧乏旅行のために高速は使わず、ひたすら国道4号を行く。疲れを残さず東京行きを迎 えることができたが、今までで一番の長距離のため一抹の不安が残る。それに早朝の出発は辛い…。

 流石に朝早いと道路は空いているので、始めは快適に進めた。これは毎度のことである。しかし、行けども行けども東京までの距離は縮まらない…。「やっと 福島に入った」、「やっと福島を抜けた」、「やっと栃木に入った」とこんな調子である。「東京まで○○km」という案内が路肩にあるのだが、その数字がな かなか減らない。それもそのはず、 4日前は日光(約250km)まででヒイヒイ言っていたのに、さらに100km離れた東京へ向かうのである。中々着かないのは当然だ。
 それでも埼玉に入る頃には、様々な名刀に出会えることへの期待に胸を高鳴らせていたが、同時にちゃんと駐車場まで辿り着けるか心配になってしまった。

 上野駅の近くまで来られたのは良かったが、予定していた駐車場へ行くのに中央通りを右折しなければならないのに、土地勘が無いせいで左折してしまい、グ ルッと遠回りするハメになってしまった。二度目は右折できたが、上野恩賜公園の駐車場を順番待ちする車が長蛇の列をつくっており、松竹デパートの前から 中々進まなかった。
 ようやく駐車場に車を置き、「いざ国立博物館へ」と思ったら雨が降ってきた。折り畳み傘を持っていたが、「どうせ博物館に入ったら仕舞わなければならな いんだし」と何だか傘を出すのが億劫になってしまい、そのまま博物館へ向かうことにした。ところが、博物館までの距離が結構(約700m)あり、少し濡 れてしまった。
 正門で入場券を買うらしく、二ヶ所ある券売所のうち、込み合っている方に並んでみると、それは今話題の『興福寺創建1300年記念「国宝阿修羅展」』の 観覧券を購入する人達の列だった。阿修羅像を拝めるのは滅多に無いことだが、観覧料は1,500円と知り悩む。一般の二倍以上である。それに多分、相当混 んでいてゆっくり見学するのは難しいのではないかと判断し、一般券を購入することにした。こちらはがらんとしていた…。




 正門を潜ると、正面に『帝冠様式』というのだそうだが、立派な外観の『本館』がすぐ見える。これからどんな名刀に合えるのか、期待と不安が交錯する。右手にある『阿修羅展』の会場である『東洋館』を横目にしながら、『本館』を目指す。
 玄関に入ると、前方、左右と三方向に部屋が分かれており、順路がわからず一瞬迷ってしまった。取り敢えず右手から見学を始めることにしたが、それで正解 だった。先ず仏像などがが展示されている『彫刻』から始まり、『彫刻と金工』、『陶磁』、『漆工』と続き、次はお待ちかねの刀剣コーナーである。


 ・太刀 三条(名物 三日月宗近) 80
 ・短刀 来國俊(ウラ)正和五年十一月日 21.5
 ・太刀 則國
 ・短刀 □(南)都高市郡住藤原貞吉 □(文)保元年丁巳年二月吉日
 ・刀 金象嵌銘 光忠 本阿(花押) 
 ・太刀 備前國長船長義
 ・短刀 國廣鎌倉住人(裏)元亨四年十月三日 24.3
 ・刀 金象嵌銘 江磨上光徳(花押)(名物 北野江)
 ・太刀 左衛門尉藤原國友 正中元年□月日
 ・短刀 左安吉(名物 一柳安吉)
 ・刀 國廣
 ・刀 肥前國忠吉


 なんと、初っ端が『宗近』である。本でしか見たことのない、あの名刀が目の前にある。感動や興奮が起りそうなものだが、突然すぎて実感が湧かない…。宗 近は佩裏に銘をきったというのは知っていたが、本当に鋒が左を向いた状態で展示されていた。よく見れば、号の所以である所謂、三日月形の『うちのけ』が 所々に見て取れる。刀の特徴を、実際に見てみて確認出来ると、えも言われぬ喜びがある。
 
 川口陟の『定本 日本刀剣全史』によると、昔の刀剣書に「三条宗近は河内国有成同人」とあるそうで、それが本当なら、河内の有成が山城へ移住し、名を宗近と改めたというこ とになる。著者は「では何故に河内国に刀匠が発生したか、その名が有成と称する点から考察すれば、同時代の備前国に、実成、友成、介成らの刀匠があり、ま た備前正恒は奥州有正の子とあれば、これら一派の刀工らと共に、奥州から大和、河内などに移住したものと見なければならぬ。」と、名前の『成』の共通性か ら有成が奥州から俘囚として移住してきた可能性を述べている。もし、宗近と有成が同一人物であるならば、宗近も奥州と関わりがあることになる。有成は宗近 の子とするのが一般的だが、京の都からわざわざ河内へ移った理由は何だったのだろうか。
 同じく『定本 日本刀剣全史』の中で、江戸時代のものではあるが、『摂陽群談』という地誌の「三条小鍛冶宗近並国久旧屋、有馬郡小名田村にあり、旧栖家伝云、宗近、国久 出生の地、或は当領主都より呼下して剣戟を作らしむとも云へり、金床の跡、于今あり、此旧屋に住する者、宗近の誰、国久の誰と諱を以て氏と為す、世俗剣を 作れる所を金床と云へり、毎年正月、注連を曳て燈明を置り、宗近、国久等剣を作るの妙術を感じて当所の埴土、金工于今所設之、「神社啓蒙」云、稲荷社者、 金工専為主神可也、曰有小鍛冶者、造剣戟、其利無能及無及也、一旦取当山埴土、以覚堪鎔刃也、仍数為埴土来住、且拝神矣、世不構此埋、徒為金工守神、 云々」という一文を紹介している。摂津国有馬郡は現在の兵庫県南東部にあたる。
 その他、「備前住為吉の子で、永延年間に京都へ移住し、三条小鍛冶と称した」という説もあるようだ。
 ところで、菊池山哉の著作に次のような説がある。『三条』は『産所』と同じで、『守戸』に通じるという。『守戸』は『陵戸』のことで、恐らく『産所』は 『散所』と同じものと思われる。『陵戸』は古代の陵墓守衛民のことで、触穢思想から卑賤視された。菊池はこの『守(陵)戸』から『産(散)所』が出たと考 えたのだ。三条宗近の『三条』が『産(散)所』と繋がりがあるかどうかはわからないが、その筋から職人など特殊技能を持った者が出ることは考えられなくは ない。因に散所には『声聞師』、『陰陽師』、『行者』などを生業とする者がいた。奥州鍛冶の、取り分け月山鍛冶は修験者を通じて、遠く九州などにも伝播したといわれる。そういうネットワークを通じて宗近が作刀技術を習得したとは考えられないだろうか。

 閑話休題、その他『国俊』、粟田口『則国』、保昌国光の子保昌五郎『貞吉』、長船の祖『光忠』、相伝備前の『長義』、新藤五国光の子『国広』、「郷と化 物はみたことがない」でお馴染み『郷義弘』、延寿『国友』、流浪の刀鍛冶『国広』、大左の子『安吉』と名立たる名刀ばかりが展示されていた。上手く言葉に 出来ないが、何らかのイデアが名刀には内包されているとしか思えない。或いは『刀のイデア』を持つ刀剣は、見る者に深い感動を与えるのではないだろうか。
 最後を飾っていたのは所謂『五字忠吉』。これまた忠吉も指表ではなく、指裏に銘をきる。例外があるものの、太刀銘にきるのが忠吉一門の伝統となったようだ。なぜ忠吉は太刀銘をきったのだろう。更に不思議なのは、脇差は指表に銘をきっているのだ。謎である。


 ・小桜透鐔 無銘(刀匠) 
 ・弓矢雁透鐔 無銘(尾張)
 ・梅花短冊透鐔 無銘(古正阿弥)
 ・胡蝶透鐔 芸州住貞刻
 ・芹図鐔 山城國西陣住埋忠七左作
 ・八ツ蕨手透鐔 林又七
 ・猛禽補猿図鐔 無銘(志水甚五)
 ・鼓透鐔 在哉
 ・鶴丸図鐔 武陽住如竹叟行年六十歳作之(花押)
 ・牛若丸弁慶図大小鐔 (大)周斎石黒(花押)(小)周斎石黒包元(花押)
 ・月に桜花図鐔 なつを(花押)鍛清人


 鐔と小道具類も展示されており、特に刀匠の作とされる『小桜透鐔』を見ることができて嬉しかった。私は文透など刀匠や甲冑師が作ったとされる、シンプル な意匠の透鐔が好きで、視覚的情報量が少ないせいか、ずっと見ていても飽きがこない。しかし、目が慣れてくるとデザインだけでなく地金に良し悪しに目がい く。展示されている『小桜透鐔』は大変素晴しいものだった。『刀匠鐔』は、『刀盤図譜』に「上古、刀を誂えて打立ちさする時は、鐔を添えて作りたり」とあるあそうで、ここから来ているようである。


 ずっとこの空間に居たいところだが、この次の予定を考えるとそうもいかない。未練を断ち切って残りの展示室を見て回ることにする。その中で特に興味深 かったのは、『民俗資料・アイヌ・琉球』のコーナーに展示されていたアイヌの山刀と太刀だった。『アイヌの狩猟と漁撈』というテーマで、アイヌ民族の狩猟 用の道具が展示されていた。山刀は『タシロ』といい、山猟の際に携行したという。太刀は山刀や鉈と同じ使い方をし、熊など獣を猟るのにも使用したそうだ。
 アイヌの言葉で太刀のことを『エムシ(emus, - i)』といい、その語音からエミシ(蝦夷)を連想し、蝦夷はアイヌ人とする説がある。私も「刀を肩から下げる、佩刀する」ことを『エムシ・ムツ』ということから、安易に『蝦夷、陸奥』と連想してしまった。しかし、これはアイヌ人から見て蕨手刀を腰に吊るすエミシの姿が印象的で、アイヌ人がエ ミシの太刀を『エムシ』と呼ぶようになったのではないだろうか。アイヌに刀鍛冶は居らず、物々交換で刀を手に入れていたという。因みにアイヌ語で鐔は 『セッパ』というが、これは輸入語だそうで、切羽からきていることは想像に難くない。
 刀を意味する言葉は他にも『アエシポプケプ』、『シポプケプ』、『チムッペ』、『ラムコパシテプ』などが有るそうだ。アイヌ人は『エミシ』と呼ばれるこ とを嫌ったという。これは自分たちのことを蔑称的に『エミシ』と呼ばれることを嫌ったと考えるのが普通だが、もしかするとアイヌ人が『エミシ』と同一視されることを嫌ったということなのではないだろうか。

 刀剣コーナー以外は殆ど落ち着いてみる事ができず、覗いてすらいない部屋もあった。しかし、帰りの時間を逆算すると、そろそろ移動しなくてはならない。



 国立博物館をあとにし、次に目指すは『刀剣博物館』。
 地下鉄で代々木に向かい、駅を出ると雨が大分強くなっていた。折り畳み傘を出すが、雨が強くて濡れてしまう。雨の降りしきる中、大分迷ったが、どうにか辿り着くことができた。




入口には薫山、寒山両先生の胸像が


 正面玄関から中に入ると、どうやら一階は事務室で、二階が展示室になっているようだ。階段を上ると、直ぐに受付が見える。

 展示室に入ると、相当数の刀剣が目に入ってくる。帰りの時間も考えなければならないが、30分程度でまともな見学ができる数ではない。量からいって、寧 ろこちらに時間を割くべきだとさえ思える。国立博物館も満足のいく見学時間ではなかったが、あれ以上居たらこちらで許される時間が僅かになってしまったこ とだろう。


 ・太刀 兼永
 ・太刀 来國光
 ・太刀 康暦元年八月日 包吉
 ・短刀 貞興
 ・短刀 兼友
 ・太刀 月山作
 ・刀 無銘(則重 号太閤則重)
 ・刀 村正
 ・脇指 無銘(伝正宗 向井将監忠勝旧蔵)
 ・太刀 信房作(因州池田家伝来)
 ・太刀 備前國景安
 ・太刀 真則
 ・太刀 長光
 ・短刀 備州長船元重(ウラ)正和五年六月日
 ・短刀 備州長船住兼光(ウラ)暦応三年十月
 ・脇指 備州國長船兼光(ウラ)貞和三年十二月日
 ・刀 無銘(長船倫光)
 ・刀 無銘(伝長重 大島津家伝来)
 ・太刀 備州長船師光(ウラ)永和二年六月日(庄内酒井家伝来)
 ・太刀 備州長船次行
 ・太刀 備州長船家助(ウラ)永享九月八月日
 ・刀 備前國住長船五郎左衛門尉清光(ウラ)天文廿四年八月吉日
 ・太刀 是友(古青江)
 ・刀 無銘(古青江)
 ・刀 津田越前守助広(ウラ)延宝九年八月日
 ・刀 板倉言之進照包(ウラ)延宝八年二月吉日
 ・脇指 相模守藤原政常
 ・短刀 繁慶
 ・脇指 乕徹入道興里(ウラ)彫物同作
 ・刀 水心子正秀(ウラ)出硎閃々光芒如花 二腰両腕一割若瓜
 ・短刀 源秀寿(ウラ)天保五年仲冬 為涛斎主人作之
 ・刀 為村上重君石堂運寿是一精鍛造之(ウラ)嘉永七甲寅歳二月日
 ・刀 奥州仙䑓住藤原國包(ウラ)寛文五年三月吉日
 ・刀 於南紀重國造之
 ・短刀 近江大掾藤原忠廣
 ・刀 肥前國住人伊予掾源宗次
 ・刀 肥前一文字出羽守行廣


 こちらも名刀がずらりと揃っている。正直、半分以上を把握出来ない。全体的に備前ものが多いのが印象的だった。国立博物館の三条宗近の後、今度は五条兼永である。国包をここで見られるとは思わなかった。
 あまりの質と量にお腹一杯である。全ての刀を脳裏に焼き付けるのは無理である。国立博物館に続いてはしごし、しかも全てが初見。それにしても、刀剣博物館に足繁く通える人が羨ましい。
 帰りの時間が気になり、そろそろ帰らねばならなくなった。一応、受付の方に展示品の入れ替えについてお尋ねすると、年間予定の案内を頂くことができた。 是非また此処に来ようと心に決めながら、刀剣博物館を後にした。今日は国立博物館がメインだったが、量的な見応えは刀剣博物館の方が上だった。勿論、質も 負けず劣らずだ。

 一度見ただけでは決してわからない。何度でも見たい。更には未だ見ぬ刀もっとあるはずだ。それに、他にも都内で行ってみたい場所は沢山ある。上京する回数を増やさねば。
 今日は、遥々340kmを走って来た甲斐があった。もちろん、帰りもあるわけだが…。国立博物館で一日を費やしてたら、刀剣博物館での感動は無かっ た。しかし、国立博物館の見学にもっと時間を掛ければ、勉強になったり感動があったかもしれない。どうしても、少しでも多くを見たいと思ってしまう貧乏 性。スケジュールに問題があるのはわかっているのだが。出来れば泊まりがけで余裕を持って来たいものだ。
 家に着いたのは、日付が変わってからだった。腹が減ったが眠い。眠いが腹減った。兎に角疲れた…。


 後日談が三つある。一つ目は『阿修羅像』だが、たまたまTVでその特集を見たが、館内は相当な込み用で、結局は落ち着いて観られる状況ではなさそうだった。金をケチったということもあるが、混雑を予想して観覧券を購入しなかった判断は正解だったようだ。
 二つ目は、本館の二階に『武士の装い - 平安~江戸』というコーナーがあり、ここにも名刀や鎧が展示されているようなのだが、知らずに見逃してしまったということ。刀剣コーナーを見て全て見た気 になってしまっていたのだ。下調べが不十分で、更には時間に追われて他のコーナーを落ち着いて見られなかったのが原因である。本当に勿体無いことをした。 大鎧や具足の一領も見当たらないと不思議に思っていたのだが。次回は絶対二の轍を踏むまい!
 三つ目は、高熱で床に臥してしまった。世間では新型インフルエンザが問題になっており、国立博物館内に外人が結構居たので、うつされたのではないかと生きた心地がしなかった。雨に濡れて風邪を引いてしまっただけだったのだが。

2009年5月4日月曜日

蟹仙洞博物館

 本日は山形の上山へ。
  一日身体を休め、上山にある『蟹仙洞博物館』 を訪れてみることにする。前回、上山へ訪れた時はこの『蟹仙洞』のことを知らないでいた。長谷川謙三という方が個人で収集した彫漆などを展示している博物館で、刀もいくつかあるらしい。

 出発する時間が遅かったのも悪かったが、愛子を抜けるまでひどい渋滞だった。

 上山入りは何の苦もなくできたが、肝心の『蟹仙洞』は中々見つけられなかった。近くまで来ているのは確かなのだが、それらしい建物は見当たらない。この ままでは時間の無駄なので、道に立っていたお母さんに訪ねてみる。やはりそう遠くではないようで、詳しい道順を教えて頂き、道を急いだ。

 やっと着いてみると、一見蔵のような建物で、遠く離れた場所からでは絶対にわからない。




 玄関でスリッパに履き替え、係の方に入場料を払う。
 最初の部屋が刀剣コーナーだったため、逸る気持ちを押さえることなく見学をはじめられた。

 ・短刀 備州長船景光(裏)元亨二二年三月十六日  附)短刀拵 八寸二分半
 ・脇指 長谷部國重  55.45
 ・短刀 月山 附短刀拵  20.6
 ・太刀 備前長船重吉(裏)明徳三年十月日  60.9 附)菊葉紋蒔絵糸巻太刀拵
 ・刀 兼元  二尺三寸一分
 ・刀 肥前國住近江大掾藤原忠廣  70.45
 ・脇指 山城大掾藤原國包(花押)(裏)寛永十一年八月
 ・刀 長曽袮興里入道虎徹  70.9
 ・刀 和泉守藤原國定  70.75 (井上真改代作)

 ・六十二間星兜
 ・鎧櫃 結城哲雄作
 ・鳥柏葉文蒔絵太刀掛
 ・紅白糸威二枚胴具足
 ・葵紋散蒔絵短刀箱
 ・緋羅紗地葵紋短刀箱覆

 その他、鍔や小道具も多数展示されていた。そして折紙。折紙はあるが、肝心の刀がこの博物館には存在しない。盗まれてしまったからだ。詳しいことはわか らないが、重文の国次、兼光、長義、をはじめ、重美の虎徹、行平(指定無し?)、助真など名立たる名刀が悉く盗まれてしまったそうだ。図鑑などで写真を見 ることはできるが、やはり実物を見てみたかった。盗難リストに光包は無いようだが、無事なのだろうか?

 一昨日は火災による刀剣の焼失、今日は心無い者による窃盗。天災と人災によって刀が失われることについて考えさせられると、とても辛い気持ちになる。盗 まれた刀はこの世から消えて無くなったわけではないが、日の当たる場所へ再び現れるのは難しいのではないだろうか。最悪、手に入れた者が死んだ後、誰も盗 まれた刀の手入れをする者がなく、死蔵され錆びて朽ちていく…。考えただけでもゾッとするが、家に伝わる宝刀が蔵や押入の奥で、人知れず朽ちていくという 事は珍しい事ではないと思う。博物館の学芸員が旧蔵品を寄付してもらう為に、民家などを訪ね歩くそうであるが、刀を駄目にするくらいなら逸そ然るべき所に 寄贈するか、売り払うべきだと思う。刀にとっては手入れされることもなく、忘れ去られる事は大変な不幸だと思う。

 いつも博物館などでなるべく尋ねるようにしてるので、受付の方に「入れ替えはないのですか?」と聞いてみると「入れ替えも何も、殆ど盗まれてしまってね…。展示してあるのが全部です」という答えだった。私は胸が痛くなり、何とも遣る瀬無い気持ちになってしまった。

 そういえば見学中、先客の女性二人が受付の方と話しているのが聞こえてきた。どうやら何処かの研究室の方らしく、(多分)彫漆を撮影させて欲しいと交渉 していた。どうやらこの博物館に収蔵されている彫漆はとても貴重な物ばかりらしい。私は門外漢なので彫漆のことはまったくわからないが、展示されている刀 剣の質から考えると、他の展示物も一級品ばかりなのだろうなと得心出来る。話はまとまったようで、女性は後日改めて来館する約束を取り付けていた。目出度 し目出度し。

 刀を見終えた後、館内を一通り見て廻り、彫漆のコーナー(ここが一番広く充実している)へ向かう。どれも価値のあるものなのだろうが、私には見方がさっ ぱりわからない。私には見る目が無いとつくづく自分が嫌になってしまった。せめて刀を見る目だけでも養わないと。今は『好きだから見ている』に過ぎず、決 して善し悪しが解っているわけではない。
 仙台から近いし、隠れ家的な所がいいので幾度となく足を運びたいと思う。


 次は米沢へ行きたい所だが、その前に上山と米沢の真ん中にある南陽市へ向かう。『鉄と俘囚の古代史/柴田弘武』によると、南陽市の池黒というところには 『池黒皇大神社』という神社があり、そこには『宗近』の名が出てくる棟札が納められているそうだ。また周辺には、俘囚が住んでいたと思われる『別所』が地 名として残っているという。

 南陽市へは南下するだけなのでわけなく入れたが、目的地の池黒には中々辿り着けなかった。散々迷い、一度はすぐ近くの集会所まで来たのに、神社に気付かずその場からまた離れてしまった。また迷走。どうにか神社を見つけることが出来たが、相当時間を喰ってしまった。

 立派な案内に神社の由緒が書かれている。




池黒皇大神社由緒

 当皇大神社建立の起源は、桓武天皇の延暦年間(西暦七百八十二年~)、今をさかのぼること一千二百二十余年前において坂之上田村麻呂将軍東征の際、屯軍 の地として城壁を築き社を建て天照皇大神、豊受大神、鹿島大神を祀れる。故に、古来より坂之上神明神社と称するものなり。
 白河天皇の応徳三年丙寅歳(西暦一千八十六年)今より九百二十二年前、当山別当職出羽神輿麻呂により再建し奉るものなり。(当時の棟札現存し、市文化財の指定をうけている)
更に、後水尾天皇の元和年間(西暦一千六百十五年~)伊勢国伊勢山源海寺別当に請い、天照皇大神社を再び勧請し奉り天下泰平を祈る。元和七年、北条郷代官安部右馬助及び総氏子の請願により、源海寺別当、元和八年当社に転住する、都合三度の建立を経て現在に至るものなり。
 (祭礼、例大祭四月二十一日、新嘗祭九月十六日)
 源義経公奥州下向の際、当社の御神徳に浴し先勝を祈願され馬具及び甲冑を奉納せられしこと明らかなり。
又、当皇大神社より午の方(現在の猫子の地)に、義経公愛用の麗馬(黒馬)生まれし池の旧跡あり。是、池黒の名の興りし所以なり。古来より柵を廻らし、馬頭豊受大神を祀り、当社別宮として毎年四月二十一日祭礼したるものなり。
 右、皇大神社由緒なるが、古来より緒人の崇敬深厚にして、御神徳を仰ぎ奉るものなり。
    平成二十年丙子歳九月吉日


 白山神や聖観音の名が出てくるものとばかり思っていたが、ここ皇大神社は違うようだ。『当時の棟札』とは、例の宗近の名が出てくる棟札のことだろうか。




池黒皇大神社



 残念ながら棟札を見ることは出来なかった。市文化財に指定されるほど重要なのだから、社務所或いは他所で大切に保管されているのだろう。因みに棟札には次の様に記されているという。
 「応徳三年丙寅七月十有五日
  当山別当職出羽神輿麿啓白
  奉再立天照皇大神宮
    国家安泰如意祈所
  木刻師□□鍛冶三条小□宗近
  □□□」
 『鍛冶三条小□宗近』の□には、一体何という文字が入るのだろうか?宗近は『三条小鍛冶』の通り名で知られるが、三条の前に鍛冶の字は既に使われている し、鍛冶は二文字だから違うだろう。今一つ、『小狐』というのがり、これなら一文字だからしっくりくる。しかし、『小狐』は宗近の作った刀に対する通称な ので、これに果たして当てはまるかどうか。




 神社の横には道があり、羽黒神社へ繋がっているようなので、進んでみる。思った以上に足場が悪く登りがきつい。すぐ裏にあるのかと思いきや、大分歩かされてしまった。




 この裏にも道が続いていたが、これ以上進む気にはなれず、引き返すことにした。帰りは下りが多く幾分楽だったが、足を取られそうで気が抜けなかった。


 この後、米沢に行きたかったが、蟹仙洞、皇大神社と目的地を見つけるのに手間取り、すっかり時間がなくなってしまった。ゴールデンウィーク真最中で道路も大分込むだろうからと大人しく引き上げることにした。