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2012年6月17日日曜日

『大震災から救われた伝家の宝刀展』~『早坂信正 現代刀展』

 本日は中鉢美術館へ『大震災から救われた伝家の宝刀展』を見に行く。

 ゴールデンウィークに中鉢美術館へお邪魔したとき、被災された方などから中鉢さんが託された刀を展示するという企画展を開くと伺っていた。企画展は月末の 27日からスタートだそうで、初日から見に行きたい気持ちもあったが、廿日には総会もあるし、月が変わってから見学することにした。


 美術館に入ると受付にいらしたのは奥様で、中鉢さんは不在だという。展示刀や寄贈者について色々お伺いしたかったので誠に残念だ。それにしても、主がいないと随分物寂しいものだ。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山

・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上
・太刀 國□(五条國永)

・太刀 包平
・太刀 次忠
・短刀 國吉
・刀 無銘(豊後正宗)
・太刀 豊後國行平作(紀州徳川家伝来)
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・脇指 長吉
・脇指 村正
・脇指 (村正)
・刀 上林恒平作
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作

被災刀剣
・薙刀 兼元
・太刀 舞草
・刀 豊後住藤原實行
・脇指 陸奥會津住道長
・刀 備州(以下切)
・短刀 備州長船守光
・短刀 宮入行平作


 事前に「凄いのが入ってくる」といくつかの作品が追加されることを予告されていたが、その内の二つは国吉と行平だったのだ。この二人の作品が宮城県外に 出ずとも見られるのは大変有り難いことだ。中鉢美術館に来れば、名刀を見られるのが当たり前のように思いがちだが、その機会を与えて下さっている中鉢さん に感謝せねばならない。楽しみにしていた「あの刀」は今回お目にかかれなかったが、次回かその次のお楽しみである。
 行平は僧定秀の子と伝え、紀新太夫行平ともいい、御番鍛冶として有名。「一説に下野日光へ配流の時は銘有風、方土、日本一又桜花を切る、承元頃。(刀工総覧)」
「この作は昔から珍重されたものらしく、原著『観智院銘尽』に当時すでに偽物があることを記述している。(略)地鉄は板目よく錬れて軟らかく感じられ、綺 麗であり、刃文は直刃小沸つき小沸足も入り、匂口うるみ、刃中初霜のごとく白い。帽子丸くあるいは焼きつめて小沸つく。すべての太刀、短刀ともに鎺元上に 焼落しがある。また、経眼したものの大部分に、腰に櫃の内に倶利伽羅、不動明王、地蔵、松喰鶴などの古雅な浮彫がある。銘はこの時代の刀工の多くが太刀銘 に切るが、行平はほとんど刀銘に切っている。上記のごとく古来偽銘が多く正真のものは字がむしろ下手であると伝えている。(日本刀講座3古刀鑑定編 (中)P340,343)」
 粟田口の国吉はエピソードが殆ど無い。
「建長ごろ。則国の子。藤原姓で、左兵衛尉と称した。太刀はきわめて少なく、短刀が多く、まれに寸延びの平造がある。短刀は筍反が多く、無反もある。刃文 は直刃が多く、帽子は小丸に反り、沸・匂は深く、足入り、まま二重刃がある。鍛は小板目が多く地沸が厚く、茎は棟が角、鑢は横、先は栗尻で、銘は「国吉」 と二字に打つものが多く、まま「左兵衛尉藤原国吉」と長銘に打ったものもある(日本刀講座2古刀鑑定編(上)P41)」
 上林恒平は以前、上山城で作品展を見たことがあったが、そういえばあの時も師匠の宮入行平の短刀が展示されていた。

 企画展のメインである『被災刀剣』は赤錆の薙刀と、海水を被ったと思われる『実行』と『道長』の状態が特に酷い。鑑賞会で実際に触れることのできた『舞 草』が展示されており、あの時のズッシリとした重みが思い浮かんだ。次回は是非、中鉢さんに被災刀の詳細をお聞きしたい。

 そろそろ帰ろうかと奥様にご挨拶したところ、お茶を一杯くらいどうですかと仰って下さった。一瞬お断りしようかとも思ったが、折角のご厚意なのでお言葉に甘えさせて頂くことにした。奥様のミルクティ、大変美味しゅう御座いました。
 話の最中、帰り道にあるから寄ってみてはどうですかと、早坂さんの企画展のチラシを頂いた。場所は457号線沿いにあるらしい。今日は明るいうちに帰宅しようと思っていたが、まだ時間に余裕があるので帰りがてらのぞいてみることにした。


 場所は『色麻町農業伝習館資料展示室』。国道から脇にそれ、小さい山をのぼっていったところにあった。




・刀 早坂信正作(ウラ)平成二十一年二月日
・短刀 早坂信正(ウラ)平成二十二年二月日吉春
・脇指 早坂信正
・刀 船形山麓 早坂信正(ウラ)平成七年八月日 野州ニ眠ル以古鉄造之
・脇指 早坂信正(ウラ)平成七年八月日 野州ニ眠ル以古鉄造之
・脇指 早坂信正(ウラ)平成十年二月日
・刀 船形山麓色麻住 早坂信正(ウラ)平成十三年二月日
・刀 信正(ウラ)平成六年二月日
・脇指 信正(ウラ)平成三年八月日
・刀 早坂信正(ウラ)平成十年八月日
・太刀 早坂信正

・刀 色麻住信正(ウラ)平成五年八月日
・短刀 信正(ウラ)平成七年八月日
・刀 船形山麓 早坂信正(ウラ)平成八年二月日

・短刀 早坂信正(ウラ)平成十七年八月日
・剣 早坂信正(ウラ)平成十一年二月日
・太刀 信正(ウラ)平成六年二月日
・短刀 信正(ウラ)平成十三年八月日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十年五月五日


 残念ながら照明が悪く、まるでステンレス製品を眺めているようだった。その中でぼんやりとだが、唯一地鉄を確認できたのは山城伝の太刀『信正(ウラ)平 成六年二月日』で、たまたま好みの鍛だった。この太刀は以前にも切込焼記念館で見たことがあり、『豊後国行平作(古今伝授行平)の写し』とあったことを思 い出した。そういえば先ほど、行平を中鉢美術館で行平を見てきたばかりだ。
 この展示会は6月24日(午前9時半から午後5時まで)まで開催されている。

2012年1月3日火曜日

『明日への煌めき - 宮城の刀匠 四人展 -』

 新年を迎え、今年も志波彦神社と塩竃神社へ初詣に行く。

 去年の震災で神社は大きな被害を免れたようだが、博物館は閉館状態がしばらく続いていた。震災後に何度か神社を訪れたが、いつ行っても博物館は休館したま まで、一向に再開する兆しが見られない。一体いつになったら再開されるのかと待ちわびていたが、サイトでアナウンスされることもなく、半年以上が過ぎて いった。例年なら、正月は新春特別展が催されているのだが、営業しているかどうかも怪しい。


 あと二月ほどで震災から一年が経とうとしている。震災直後に仙塩街道を何も知らずに走ったときは、まるで戦場かと見紛うばかりの有様だったが、今はかな り元の風景に戻りつつある。それでも被災者にしかわからない爪痕はそこかしこに残されているのだろう。泥だらけの道路や車両、瓦礫、そして憔悴しきった人 達。あの時の様子は今でも忘れることができない。

 塩釜駅を過ぎた先の下り坂から渋滞していたが、例年ほどでは無いような気がする。震災や不況の影響だろうか。運良く第一駐車場に駐めることができた。
 気になってしょうがないので、参拝前に博物館へ行ってみると、嬉しいことに博物館が営業されていた。これで安心してお詣りができる。




 お詣りを済ませ、いよいよ博物館へ。博物館が再開されているだけでも嬉しかったが、恒例の新春特別展も開催されているようだ。入場料はわずか100円で、高校生以下は無料だそうだ。
 今年は『明日への煌めき - 宮城の刀匠 四人展 -』と銘打った、宮城の現代刀匠四人の企画展らしい。宮城昭守氏の作品は『白石城歴史探訪ミュージアム』で見たことがあるが、典真氏のものは未見である。 そいえば、ローカル番組で白石市の日本刀鍛錬所が紹介されたときに、お二人が出演されていた。早坂信正氏は以前、『切込焼記念館』での個展を見る機会が あったが、他では見たことがない。


・短刀 昭守(ウラ)贈青木家重代娘求利郎 平成十一年八月日
・短刀 昭守作(ウラ)平成二十一年八月日
・短刀 典真作(ウラ)平成八年二月日
・短刀 白石住典真(ウラ)為大樹祖父卓 平成九年二月日
・短刀 法華三郎信房(ウラ)平成拾寅年二月日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十年五月五日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十二年吉春
・短刀 悠貴 典真作(ウラ)平成十九年九月二十日
・脇指 白石住典真(ウラ)平成廿一年八月日

・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成七年五月日
・刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿寿龍集戊子年二月日
・刀 早坂信正作(ウラ)平成二十一年二月日
・太刀 宮城典真作(ウラ)平成二十一年八月吉日
・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成六年二月吉日
・脇指 早坂信正(ウラ)平成十年二月日
・太刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿禄甲申年二月日
・刀 還暦記念 宮城典真作(ウラ)平成二十三年二月一日
・刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿戊寅年八月日
・脇指 法華三郎信房(ウラ)平成寿戊寅年八月日
・脇指 色麻住信正(ウラ)御神刀
・脇指 宮城昭守作之(ウラ)贈青木家重代家督求利郎 平成十三年二月日
・太刀 白石住典真(ウラ)平成十年三月日
・横刀 法華三郎信房 昭和甲子文化ノ日(ウラ)伊勢神宮御神宝御太刀 影打
・太刀 白石住宮城典真作(ウラ)平成十八年三月日
・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成二年二月日 還暦記念 日本美術刀剣保存協会いわき支部長鈴木喬二
・太刀 法華三郎信房(ウラ)平成癸酉年春
・脇指 法華三郎信房(ウラ)平成癸酉二月日

・太刀 奉納宮城昭守典真謹作(ウラ)平成二十三年六月十一日
・太刀 奉納九拝 法華三郎信房(花押)(ウラ)宮城県知事山本壮一郎打之
・刀 奉納九拝 法華三郎信次(ウラ)昭和四十九年二月日押木塩竃宮司打之
・刀 昭和六十一年吉春

・太刀 来國光


 以下、博物館内の紹介パネルより。
 「宮城昭守(みやぎあきもり) 本名・宮城真一。宮城県白石市の刀匠・宮城守国の嫡子として大正十四年に生まれる。昭和十五年、栗原昭秀に入門し日本刀 鍛錬伝習所において作刀を学ぶ。日本刀展覧会金賞、陸軍軍刀展覧会会長賞など高い評価を得る。戦後、やむ無く作刀を中断するも、昭和四十五年に作刀承認を 受けて製作を再開、以後コンクール等において入賞・入選多数。日本刀鍛錬技術保持者として、昭和五十八年に白石市無形文化財、平成十六年に宮城県無形文化 財の指定を受ける。白石市在住。」

 「法華三郎信房(ほっけさぶろうのぶふさ) 本名・高橋大喜。八代目・法華三郎信房(本名・高橋昇)の嫡子として昭和十四年に松山町に生まれる。父につ いて作刀を学び、昭和四十一年に作刀承認を受ける。以後、信次と銘して作刀し、コンクール等において入賞・入選を重ねる。平成十四年、九代目・法華三郎信 房を襲名。八代信房が復元した大和伝保昌派の作風を継承するとともに、さらなる追求を続けている。」

 「早坂信正(はやさかのぶまさ) 本名・早坂政義。昭和三十三年生まれ。昭和五十一年に八代目・法華三郎信房に入門して作刀を学び、昭和五十九年に作刀承認を受ける。昭和六十二年に独立、以後コンクール等において受賞・入選多数。加美郡色麻町在住。」

 「宮城典真(みやぎのりざね) 本名・宮城正年。昭和三十五年、刀匠・宮城昭守の嫡男として白石市に生まれる。昭和五十五年より父について作刀を修行し、昭和六十年に作刀承認を受ける。以後コンクール等において受賞・入選多数。白石市在住。」


 宮城親子も上手だが、早坂さんの板目と杢目混じりの作風が一番好みだった。それにしても、縦置きの短刀は見づらい…。
 「色麻住信正 御神刀」は南三陸町の戸倉神社に奉納された脇指なのだが、東日本大震災の際に神社が津波に流されこの奉納刀も流失してしまったという。幸い発見されたが拵 は泥と砂にまみれ、残念ながら刀身も錆に覆われていたそうだ。それを作者の早坂さんが錆を取り除いた状態で現在博物館に特別に展示されている。初めて見た 時はなんだかノッペリとした印象だったが、そんな悲しい事情があったのだ…。
 そのお隣の『法華三郎信房 昭和甲子文化ノ日 伊勢神宮御神宝御太刀 影打』は珍しいことに横刀で、大船渡三陸町『天照御祖神社』へ伊勢神宮式年遷宮の際に宝刀として鉾と共に製作されたそうだ。『影打』とは、「実際に神宮御 神宝として納められた作品に対して同時に製作された作品のことを指しています。」だそうだ。数振打った中で特に出来の良いものを選んで奉納刀とし、残りの ことを『影打』というのだろう。
 『奉納宮城昭守典真謹作 平成二十三年六月十一日』は塩竃神社の式年遷宮を記念して製作されたものだが、被災地復興への強い願いも込めて神前に捧げられたという。
 現代刀匠の目指すものがこの一口の中に凝縮されているとし、また「新しい年が「来」たりて、私たちの「国」が輝かしく「光」ように願って」との祈りも含め、最後は来国光で締め括られていた。


東参道方面


志波彦神社

塩釜湾の空。なんだか雲が刃中の働きのように見える。


 今回のテーマを知ったとき、正直「現代刀か…」と少々期待外れの感もあったが、実際に作品を見て色々考えさせられた。未曾有の天災に見舞われて様々な困 難に喘いでいるこんな時世だからこそ、『今を生きる』そして地元宮城の現代刀匠の作が展示されていることに大きな意義があるように感じられた。地元の刀匠 の作品を見る機会はあまり多くはないので、こういう場がもっと増えればと思う。未来へ向かって一歩一歩進んでいくわけだが、先人達の遺物から色々なことを 学び、そして大切に守っていかねばならない。
 ニュースでしか見たことがないが、機会があれば一度『打ち初め』を見学してみたいものだ。

2011年6月5日日曜日

中鉢美術館『えにしえの名刀展』


 開催から大分日が経ってしまったが、『中鉢美術館』の『えにしえの名刀展』へ行く。

 先月の大型連休初日に初めて『中鉢美術館』を訪れ、思いがけず館長の中鉢さんとお話しする機会を得た。刀剣をはじめ色々なお話を聞かせて頂いたのだが、そ の中に『えにしえの名刀展』を開催するという案内があった。この展示会のために『村正』をはじめ何口かの刀が用意されるということでとても楽しみなのだ が、加えて開催中(5/14~8/28)の入場料は全て義捐金として寄付されるという。これは是非参らねばなるまい。

 『中鉢博物館』に到着するが、とくに展示会を宣伝するようなものは見かけられず、いつもと変わらぬ外観の様子。前回は券売機で入場券を購入したが、今日 は受付の若い男性に直接入場料を支払う。名刀を眺められる上に、郷土への一助となれば、まさに二つのよろこびを同時に得られる。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山

・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上

・太刀 正真
・太刀 行平
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・太刀 菅原國長
・脇指 長吉
・脇指 村正
・脇指 (村正)
・刀 奥州仙䑓住安倫 武州江城住大和守安定(ウラ)仙䑓住人山野加右衛門永久監之
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作


 先日のお話の通り、村正の脇指が二口展示されていた。その内の一口は銘を作為的に潰し消されたものを、沢口希能博士が科学的手法で表出させたものだとい う。村正は世に言う妖刀伝説や、笹の葉の逸話に代表されるように何故か正宗と絡んだ俗説が多く、「相州正宗の門」とも称されるがこれは誤り。隣には村正の 師とされる長吉が展示されていた。 
 今回の目玉はやはり正真だろう。正真は友成と並ぶ古備前の祖正恒の子だそうで、その正恒は奥州舞草から移住した有正の子と伝えられる。正真が正恒の子な ら有正の孫か曾孫にあたるだろうか。正真が古の名刀として展示されるのに相応しいのは言うまでもないが、奥州の血脈を受け継ぐということでの中鉢美術館の 拘りがあるのだろう。
 ところで、宗近と同人であるという『我里馬』は元々奥州の人で、宗近は大和名なのだという。その『我里馬(k-arima)』と『有正(arima- sa)』は音が似ているのは偶々だろうか。『有(ari)』の字のつく名は『有成(ari-n-ari)』『有氏』『有永』等が居るし、そういえば『友成 (tomon-ari)』にも含まれている。

 中鉢さんは来館者を見つけては説明をしてまわられていたが、私に気付いてわざわざ話しかけて下さった。まだ二度目の来館なのだが、私の顔を憶えていて下 さったようだ。会話は来週の総会についてと軽くに留まり、「ゆっくり見ていって」とお気遣いの言葉を残して、新たな入館者のもとへと向かわれた。



 以下、『日本刀銘鑑(本間薫山 校閲/石井昌國 編著)』より。異体字の使用できないものは、□と()であらわした。
 「有行」舞草。有正の父という。出羽にてもうつと。大治という。
 「有正」舞草。安房弟。近霧同人という。保延ころ。陸奥。
 「有正」舞草。有正子。出羽・越前にてうち、のち備前にうつる。奥州太郎と号す。古備前初代正恒の父という。平治ころ。陸奥。
 「正恒」古備前。陸奥有正子。また同人ともいう。鬼切(長享)、足利又太郎忠綱の綱切太刀(観智)、太政大臣入道殿太刀の作者とあり。奥州太郎。永延という。備前
 「正真」古備前。正恒子という。建暦ころ。備前。〈注〉〈二振の太刀を経眼しているが、やはり正恒系とみえる。(薫山)〉
 「有成」宗近同人、また子という。奥州有正の門ともいう。悪源太義平の「石切」をつくる。一条院御宇。永延また正暦という。河内。
 「我里馬」陸奥秀衡の鍛冶。猛房子、鬼王丸弟。岩井郡住。応保ころ。「我里馬」は「我□(日+与のような字。旦+馬に見えるが…)」と観智院本にあるが 「我弖為」の誤写で、「我弖為」はえぞ人名である。例えば『続日本紀』にしるされる「夷大墓公阿弖利為」などであって、応保(一一六一)のころ平泉鍛冶カ テリイは猛房(もうふさ、舞草)の刀工で、藤原秀衡の抱工であるという。後世剣書は烏丸、我里宇丸、雁田丸、刈田丸、刈宇丸等の作者という。
 「雁宇」舞草。猛草子。元暦前という。我里馬同人か。
 「雁宇丸」秀衡の鍛冶。出羽鬼王丸の弟という。我□(弓+与)ときるという。雁田丸、刈田丸、我里馬いずれも同人か。応保ころ。〈注〉〈剣書では「我□(弓+与)」が古くのち我里馬となりさらに雁宇に転じ雁田となる〉
 「刈田丸」三条吉家の隠銘という。また陸奥我里馬同人ともいう。永延という。山城。〈注〉〈各系の伝承が混同している。秀衡の鍛冶我弖流為(我弖我里馬)よりきたようである。したがって平安最末のころとみるべきである〉

2011年5月1日日曜日

震災後に訪れる一関


 東北関東大震災以降、久しぶりに一関へ。

 東北関東大震災後に一関を訪れるのは今日が初めて。ずいぶんと久しぶりな気がする。宮城もそうだが、内陸部の被災状況はそれほど多く伝えられないので、 どんな様子なのかとても気になっていた。一関市博物館のサイトを見る限り、収蔵品や建物に大きな被害は受けていないようで安心したが、観音山は果たしてど うだろうか。


 先ず厳美渓へ行ってみる。震災の影響でガラガラなのではないかと思っていたが、まずまずの賑わいだった。今日は雨 のせいか、水量が多いようだ。『岩手・宮城内陸地震』の後に訪れたときは、ずいぶんと水嵩が減っていたのが印象的だった。渓流を眺めていると、名物『かっこうだんご』がロープを伝っていく様子が見られた。こういった何気ない一コマが、経済的や心情的な盛り上がりに繋がっていくように思える。


 さて次は一関市博物館。被災地では被害を受けて休館を余儀なくされている博物館や美術館がある。そんな中、こうして見学に訪れることが出来るのは有難いことだ。


・刀 (額銘) 建武寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・短刀 寶壽
・刀 奥州仙䑓住國包
・刀 一関士宗明作(ウラ)応西尾守房需
・脇指 明弘
・短刀 玉英
・太刀 行光
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・刀 万歳藤田近江守藤原継平(ウラ)天明三癸卯年八月日
・刀 備前介藤原宗次(ウラ)文久四年二月日

・先込式大筒 宗明(ウラ)(金象嵌銘)雲月
・火縄銃 一関住源充正造之応需上鍛
・傍装雷火銃 臣久保田宗明充正作 安政五年二月吉日

 
 もし建物や刀が被害を受けていれば、こうして当たり前のように見学することは出来なかったかもしれない。今こうして刀を眺められることに感謝せずにはいられない。
 今回面白かったのは、宗明の銃三挺が展示されていたことだ。宗明がもともと鉄砲鍛冶だったことは知っていたが、実物を見るのは初めて。


  最後は観音山へ向かう。バイパスはいつもと変わりなかったが、一関市内の道路は端などに隆起や陥没が見られ、ここにも震災の爪痕が残されていることを実感 した。そういった道は気をつけて通ればなんてこと無いのだが、困ったことにいつもの道(14号線)が通行止めとなっており、大きく迂回する羽目になってしまった。知らない道を進んだため、かなり迷ってしまい、相当時間を無駄にしてしまった。

 観音山は立入禁止というような事態にはなってお らず、また儛草神社もこれといって被害を受けてはいないようで一安心。ただ、『舞草神社西遺跡』の標柱が倒れてしまったようで、木に括り付けられていた。  地震の影響を受けたものか不明だが、『舞草小戸山遺跡』の標識の傾きが一層ひどくなったような気がする…。

2011年4月30日土曜日

日本刀の源流『中鉢美術館』

 今日は岩出山にある『中鉢美術館』へ行ってみる。


  大型連休前に、ネットで偶然『中鉢美術館』を見つけた。刀剣、それも奥州刀に重きを置いているようで、宮城県内にあるらしい。これまでその名を全く聞いた ことがなかったが、いつ頃からあるのだろうか。場所は岩出山で、先日の震災で被害を受けた有備館の近くらしい。はじめは一関の序でに行ってみようかとも 思ったが、一関市博物館と観音山のセットで半日ほどかかる。それに初めて行く場所を加えるのは厳しいと考え、それぞれ別の日に行くことにした。かわりに鳴 子の三条山を組み合わせることにする。

 連休スタート当日まで、岩出山・鳴子方面と一関のどちらを先にするか決めかねていたが、午前中が不意の用事で潰れてしまったため、初日は午後からでも十分間に合いそうな『中鉢美術館』を選ぶことにした。
 震災の影響なのか、県外ナンバーが殆ど見当たらず、交通量もいつもの週末と変わらない。生憎の天気で小雨がぱらついていたが、渋滞も無くのんびりと行くことが出来た。大衡村の分岐点で左側の羽後街道へ進む。
 目的地の中鉢美術館は有備館駅のすぐ傍にあった。道路を挟んで向かい側には有備館と大きな公園があり、とても見晴らしがいい。

 入り口正面のフロントで料金を払おうとしたところ、券売機での購入を促された。入場券を渡してパンフレットと展示目録を受け取っていると、奥から男性が 現れ、私を一瞥してフロントから出てきた。フロントの左手には部屋が二つあり、男性はメインと思われる右奥の展示室へ消えていった。会計を済ませ、入り口 側のもう一つの展示室へ入ると、そこには数多くの具足が展示されていた。隣の部屋には先客がいるらしく、先ほどの男性との話し声が聞こえてくる。早く刀が 見たかったので、甲冑の見学もそこそこに隣の部屋へ移動することにした。 
 室内に入ると、先ず右手に佐藤矩康先生御夫妻や日本刀のルーツについてのパネルがあり、この部屋の導入部となっている。そして残る三方と中央のショウケースに、数多くの刀が展示されている。


・太刀 (底銘)舞草
・太刀 □安
・小太刀 國平
・太刀 閉寂
・太刀 長光
・刀 月山
・刀 月山
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 無銘(伝諷誦)
・太刀 近村上
・太刀 宗吉
・脇指 波平行安 元弘三年八月日
・太刀 行平
・太刀 行利
・刀 奥州仙䑓住安倫 武州江城住大和守安定(ウラ)仙䑓住人山野加右衛門永久監之
・刀 山城大掾藤原國包
・刀 法華三郎信房 (八代)
・太刀 法華三郎信房 (九代)

・太刀 寶壽
・短刀 寶壽
・短刀 以奥州餅鉄 相州國住靖要作


 「日本刀の源流」と銘打つだけあって、奥州刀を中心に質・量共に素晴らしい展示内容である。舞草系三口、月山系三口、玉造系五口、その他俘囚として移住 した者や、奥州鍛冶の影響を受けた系統の作など七口と、価値のある古刀が惜しげもなく展示されている。中でも『閉寂』は在銘最古の奥州刀なのだそうだ。玉 造系というのは馴染みの薄い呼称だが、宝寿はこの系統だという。奥州の古鍛冶といえば舞草と月山のイメージだが、我がルーツの一つ玉造にも鍛冶集団があっ たというのは嬉しいことだ。三条山もこれに関係するのだろうか。
 新刀は国包と安倫、現代刀は法華三郎信房がそれぞれ代表として展示されていた。因みに国包と八代目の法華三郎信房は同じケースの中に展示されており、こ れは法華三郎信房が国包を写したものを、オリジナルと見比べられるようにとの演出だそうだ。素人目には一目で違いが判らない見事な出来だ。それにしても、 初代国包がこの展示室内では随分大人しく見えてしまう。

 その他、紀元前の青銅剣、奈良時代の直刀・刀子・倒卵形鐔など刀剣史上貴重な品が展示されており、何れもレプリカではない。中でも感動したのは平安中期 以前の上古刀である。以前から毛抜形太刀や古太刀といった、在銘太刀以前の進化の過程を見てみたいと常々思っていたが、今日ついにそれが叶った。今まで上 古刀を見る機会は何度かあったが、何れも直刀ばかりであった。しかし、目の前にあるのは日本刀完成以前の湾刀である。こういった蕨手刀から鎬造の湾刀の中 間がすっぽり抜けて、刀剣のミッシングリンクとなっていたらと考えると恐ろしくなる。

 一通り見終わり、次はじっくり見て回ろうと二巡目を始めたところ、美術館の男性が「刀はお好きですか?」と声をかけてきた。先客が帰ったので、わざわざ こちらへ挨拶に来てくれたのだろうか。世間話を五分もすれば終わるだろうと思っていたが、刀剣や歴史についてやたら詳しく、つい話し込んでしまった。そし て話をしているうちに目の前の男性がこの美術館の館長であり、舞草刀研究会の中鉢さんだということが判明し、二度驚いてしまった。ネットでこの美術館で見 つけた時、『中鉢』という名前と奥州刀の二つのキーワードから、真っ先に『舞草刀研究紀要』の中でよく見かける中鉢氏の名を連想した。しかし、確か同氏は 一関在住と記憶していたので、まさか岩出山にいるわけはない。それに『舞草刀研究紀要』で見た顔写真に比べて、かなり痩せているので同一人物とは全く気が つかなかった。大変な失礼をしてしまった。なんでも奥州刀を展示できる美術館の建設を思い立ったが、当時住んでいた一関に建てることができず、次の候補地 として生まれ故郷の岩出山を選んだのだそうだ。そして、一年ほど前に、様々な人達の協力もあって、この美術館を完成したそうだ。創立が最近のことと知っ て、少々安心した。それにしても、まずお会いできる機会が無いだろうなと思ってい方が、こうして目の前にいる。人生わからないものだ。
 刀剣そのものだけでなく、それに関わる人々や業界のお話なども沢山して頂き、私のするつまらない話や質問にもいちいち応えて下さった。中でも最も印象に 残ったのは、先日の東北関東大震災の大きな揺れで館内の新刀が落下してしまったが、古刀はびくともしなかったという話だ。鉄屎を求める人々の話も面白かっ た。

 しばらく立ち話を続けていたら、奥様に「こちらへどうぞ」と誘われてロビーへ移動し、お茶を御馳走になってしまった。恐縮しながらも頂戴し、引き続きお話を伺った。
 中鉢さんは頻りに、刀や人は自然と集まってくるということを仰有っていた。館内の収蔵品は全て中鉢さん独りの力で収集したものではなく、中には「ここに なら間違いない」と提供を申し出る方もおられるそうだ。中鉢さんがこれまで舞草鍛冶をはじめ、奥州刀の研究などや発展のために寄与貢献されてきたことが大 きいのだろう。刀剣の知識や刀剣そのものを求める段階から、刀剣界に尽くす段階へ進まれている。個人で刀剣の美術館を創立するなど、只の道楽では決して出 来ることではない。また、後進の育成についても意識されているそうで、若い人を気にかけているようだ。刀鍛冶や研ぎ師に憧れる若い人が、中鉢さんに相談を 持ちかけることがあるそうで、応援したりアドバイスをすることもあるそうだ。 
 私が中鉢さんと邂逅したのも、刀を通しての縁だ。「以○会友」という言葉があるが、この出会いが「以刀会師」となればいいのだが。

 尚、中鉢美術館では二週間後に『いにしえの名刀展』という企画展を開催するそうで、テーマは「日本刀の源流たる奥州刀をはじめ、それに関わる諸国の名刀 の展示」。刀への関心が薄い一般の方々にも向けて、一度はその名を聞いたことがあるだろう、村正を展示するそうだ。奥州刀について沢山の人々に知ってもら いたい、見てもらいたいという思いが伝わってくる。会期は5月14日から8月28日までで、なんと入館料は全額被災地に寄付されるそうだ。一部なら兎も 角、全額というのは中々出来るものではない。崇高な理念の基に開催される企画展なので、一人でも多くの方々に足を運んで頂きたい。
 
 話に夢中で随分と長居してしまったので、名残惜しいがお暇することにした。予定していた三条山は諦めることにしたが、大変有意義な時間を過ごすことがで きた。奥州鍛冶及びその流れを汲むの名刀の数々を見ることが出来たのもよかったが、なによりも素晴らしい出会いを得ることが出来た。そういえば三条山につ いても詳しくお聞きすればよかった…。

 宮城県内に刀剣を中心に扱ったスポットがあるのは大変有難い。これから足繁く通おう。



 以下、『日本刀銘鑑(本間薫山 校閲/石井昌國 編著)』より。
 「上一」舞草則常同人ともいう。大宝・天平ともしるし、天国の門ともいう。大和。〈注〉銘文の始源例。銘字は符号から始まるともみられる。
 「上一丸」奥州玉造郡住。のち大和にうつり宇陀に住すという。
 「家則」舞草。宮城玉造郡住。元暦という。
 「家則」舞草。宮城玉造郡住。建長ころ。〈注〉玉造は平泉の南、玉造軍団の在所。「太平記」に三の真国ありという。
 「真国」舞草。三の真国という。元暦という。陸奥。〈注〉奥州宮城郡の刀工。鬼丸をつくるという。(太平記)この真国が鎌倉に来て山内鍛冶の祖ともなるという。ただし作例はない。
 「真国」陸奥同人という。元暦という。伯耆。
 「貞房」舞草。宮城玉造郡住。文保ころ。

2011年1月3日月曜日

『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』

 今年の塩竈神社博物館の新春特別展は、『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』だそうである。

例年なら初詣は三が日を避けるのだが、今年は気紛れで正月の三日に参拝へ出かける。今年の新春特別展は、奉納太刀の特集のようで楽しみである。
   しかし、やはり混んでいた。途中まで順調だったが、3号線と35号線の交差点手前から急に混み出し、遅々として進まない。何度も引き返そうと思ったが、時 間が半端で他に行ける所もない。渋滞にウンザリしていると、パトカーがアナウンスを始めた。どうやら駐車場まで、一時間待ちらしい。駐禁解除区域が設けら れているそうなので、そこに車を停める。神社まで坂道を歩くことになったが、然したる苦ではない。




  今回圧巻だったのは、一階の展示物の殆ど全てが太刀と拵だったことだ。なんと、現存する藩主奉納太刀三十五口全てが展示されている。以前から現存する奉納 太刀と拵を一通り見てみたいと思ったことがあったが、まさか本当に、それもこれ程早く実現するとは夢にも思わなかった。

・太刀 安倫
・太刀 家定
・太刀 重次
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 重勝
・太刀 家定
・太刀 来國光
・太刀 兼次
・太刀 源兼次
・太刀 包蔵
・太刀 包吉
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 兼次
・太刀 安倫
・太刀 永茂造
・太刀 兼次
・太刀 藤原國包
・太刀 騰雲子包光
・太刀 包倫作
・太刀 安倫
・太刀 騰雲子包光
・太刀 永茂
・太刀 田代秀太郎長俊(ウラ)文政十三年二月日
・太刀 藤原國包作
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 包蔵
・太刀 國次
・太刀 兼次
・太刀 國包(ウラ)天保十三歳八月日
・太刀 田代秀太郎藤原長俊造之(ウラ)天保十三年八月日
・太刀 國次(ウラ)天保十三年八月吉日

・別当法蓮寺記(安永三年頃)
・一宮秘蔵記(宝暦八年頃)
・鹽竈社寶物記(文久二年)
・一宮御寶庫御寶物録(安政四年)


  『一宮御宝庫御宝物録』の解説によると、寛政四年と文政十二年に宝蔵が盗難にあったという。現存しない『家定』、『包吉』、『安倫』、『国次』の四口は、 この何れかの時に盗まれたのだろうか。刀身が失われて残った糸巻太刀拵が、三口展示されていた。いつもなら拵だけでも何も気にせず見入るのだが、事情を知 ると複雑だ。

 メモをとりながら見学していると、隣にいた女性に「お好きなんですか?」と声をかけられる。突然のことに、「あ、はい…」 としか答えられなかった。気味悪がったのか気を使ったのかわからないが、会話はたったそれだけで終了。時間が迫っていてゆっくり話をしてる余裕はなかった ので、手短に終わって良かったのかもしれないが、なんだか居た堪れない気持ちになってしまった…。

 今回は時間があまりなく、思うように見学できなかったのが悔やまれる。期間中にまた来られればよいのだが。




 『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』には、奉納太刀の目録が記載されている。

 別当法蓮寺記
    御太刀之部
一 御太刀
 一 左宮安倫
 一 右宮家定
 一 別宮家定
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥入、結緒有、各三箱ニ入。
   右ハ 吉村君御家督御相續ニ付元祿十六年九月廿六日御奉納
       左宮家定
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家次
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥各三箱入、結緒有。
   右ハ 吉村君御入部以後、始而御参詣被遊候ニ付、寶永元年七月十日御奉納。
       左宮安倫
 一 御太刀 右宮家定
       別宮家定
   但御拵、右同斷、白鞘袋結緒等、一宇右同。寶永元年九月十日、右ハ御造替
    御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納。
       左宮重勝
 一 御太刀 右宮包吉
       別宮安倫
    但御拵各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右同斷ニ付、同年同月從 前太守綱村君御奉納。
       左宮包吉
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮兼次
    但御拵一宇箱之内外共ニ右同 各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右ハ 宗吉君御家督御相續ニ付、寛保三年九月二日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家定
    但御拵等、筥入迄前々 吉村君御奉納被遊候通。
    宗村君御入部始而被遊候上、延享元年七月十日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵、筥入 吉村君御奉納之通。
    右ハ 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納。
       左宮永茂
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵等、前々御奉納之通。
    右ハ 重村君御入部以後、始而御参詣、寶暦八年七月十日被遊奉納候事。
    右御太刀三振ハ毎年七月大祭禮ニ御用立申候
    但七月大祭禮ニ付御用立申候、右御太刀ハ 御當代様ヨリ御奉納被遊候内、
    新ヲ御用立、古ヲ指置申候舊例之事。


 『鹽竃社寶物記』
  一宮鹽竃社御寶庫御寶物記
    第壹番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵一宇金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入右者 吉村君御家督御相續ニ付元祿拾六年九月廿六日御奉納也
       別宮重次
 一 御太刀 左宮家定
       右宮包蔵
    但御拵金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入結緒有右者 吉村君御入部以後始而御参詣ニ付寶永元年七月十日御奉納
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵右同斷白鞘結緒共一宇右同斷寶永元年九月十日右者御造替御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮重勝
    但御拵各三箱ニ入内外共ニ右同斷 右同斷ニ付同年同月從 前太守綱村君御奉納
       別宮兼次
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮包蔵
    但御拵一宇箱之内外右同斷右者 宗吉君御家督御相續ニ付寛保三年九月二日御奉納

    第二番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮兼次
       右宮包蔵
    但御拵箱入迄前年 吉村君御奉納之通右者 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納

    第三番
       別宮國包 白鞘無之
 一 御太刀 左宮包倫
       右宮包光
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者文化十一年八月十一日 齊宗君始御参詣之節 御奉納也
       別宮安倫 身柄關金兩方共無之
 一 御太刀 左宮包倫 袋紐ノミニテ身無之
       右宮包光 袋坐金關金壹ツ無之
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者 齊宗君御家督御相續ニ付、文化九年三月十三日御奉納也、桐之白箱ニ入結緒在各三箱ニ入
       別宮
 一 御太刀 左宮
       右宮 作者脱落
    但御拵等前年御奉納之通右者 太守齊義君御入部以後初御参詣之節御奉納、文政三年七月十九日
    右御太刀者毎年七月大祭禮ニ御用以下文意不詳御當代御奉納之物納古用新
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包光
       右宮永茂
    但御拵同前文政三年七月十九日 齊義君御奉納内外前年之通 按恐愆尤
       別宮國包
 一 御太刀 左宮長俊
       右宮兼次
    但御拵一宇前年之通文政十二年二月廿六日 齊邦君御奉納

  『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』を見比べてみると幾つかの相違がある。宝永元年の別宮が『別当~』は家次なのに対し、『鹽竃~』は重次。『別当~』の 延暦元年の三口が『鹽竃~』では宝暦七年となっている。そして、『別当~』の宝暦七年の三口が『鹽竃~』には見あたらない。鹽竃神社博物館配布の資料と見 比べてみると、「宝永元年の別宮」は重次が正解で、『別当~』の家次は誤り。『鹽竃~』の宝暦七年は延暦元年の誤り。宝暦七年は『別当~』のが正しく、 『鹽竃~』の方が抜けている。

2010年8月15日日曜日

終戦記念日の博物館巡り

 連休の後半、道路の空いている頃を見計らって恒例の東京刀剣ツアーへ。

 いつもは『東京国立博物館』と『刀剣博物館』の二ヶ所を訪れるパターンだが、今回はもう一ヶ所、見学地を追加する予定。
 最悪、Uターンラッシュは今日までかもしれないと覚悟はしていたが、特に渋滞に巻き込まれるようなことは殆どなかった。おかげで燃費効率の良い走りが出来た。





 栃木で車内へ急に闖入したスイッチョン。失礼、栃木ではケサカッカでしたか。東京まで連れて行こうかと思ったが、途中でいなくなってしまった。


 折角早めに上野に到着したのに、中々駐車場が見つからず、おまけに駐車場から博物館までの距離が遠くて相当タイムロスしてしまった。午前中に入館できるようにしたい…。




 漸く『東京国立博物館』へ辿り着き、さっさと入館し、早速『刀剣』コーナーへ。

・剣 無銘
・太刀 髙綱
・短刀 吉光(名物 厚藤四郎)
・太刀 包永
・短刀 備州長船住兼光
・太刀 雲生
・刀 (金象嵌銘)城和泉守所持 正宗磨上 本阿(花押) (名物 城和泉守正宗)
・短刀 則重
・太刀 備州長船盛光(ウラ)応永廿三年八月日
・刀 備前國住長船次郎左衛門尉勝光 同左京進宗光
・太刀 國廣
・刀 石堂運壽是一作(ウラ)嘉永六年八月日

 今回展示されていたのは切刃造の剣、古備前『高綱』、粟田口『平野藤四郎吉光』、手掻『平三郎包永』、景光の子『兼光』、宇廿『雲生』、相州『五郎入道 正宗』、越中『九郎三郎則重』、師光の子『修理亮盛光』、祐光の子『右京亮勝光・左京進宗光』、『堀川国広』、『七代石堂是一』など十二口。特に高綱は珍 しい。名物は『厚藤四郎』と『城和泉守正宗』。

 次は二階の『武士の装い』コーナー。

・黒漆銀銅蛭巻太刀拵
・菊造腰刀拵
・太刀 無銘(号北条太刀)
・三鱗紋兵庫鎖太刀拵(号北条太刀の拵)
・太刀 無銘(菊紋)(伝後鳥羽上皇御作)
・黒漆打刀拵(伝後鳥羽上皇御作の拵)
・太刀 國宗
・桐紋蒔絵糸巻太刀拵(國宗の拵)
・長刀 備州長船住元重(ウラ)建武五年三月日
・大笹穂槍 下坂孫次郎(ウラ)慶長拾六伏見三年在番之時長坂茶利九郎ウタスル也

 北条氏が三島大社に奉納したという『号北条太刀』は無銘の福岡一文字。菊紋の太刀は『菊作』、『菊御作』と謂われ、後鳥羽上皇の御作と伝わる。『備前三郎国宗』は新藤五国光の師、或いは父とも。
 もう一度、一階の刀剣コーナーと二階の『武士の装い』コーナーを見て廻り、このあとの予定のために早めに切り上げることにする。


 『刀剣博物館博』では現在、『古刀新刀名作展~豊かなる鉄の味わい~』が開催(平成22年6月29日~10月24日)されている。




・短刀 吉光
・短刀 貞興
・太刀 兼永
・短刀 来國次
・脇指 長谷部國信
・刀 (金象嵌銘)尻懸則長磨上之 本阿(花押)(光室)
・脇指 無銘(伝 正宗)
・短刀 兼友
・太刀 月山作
・刀 冬廣作
・太刀 真景
・太刀 信房作
・太刀 長光
・太刀 真長 (附)黒石地腰印籠刻青貝微塵塗鞘桐紋散金具半太刀拵
・刀 無銘(伝 近景)(金象嵌銘)笹之雪
・太刀 備州長船盛光(ウラ)応永十二年八月日
・短刀 清綱
・太刀 豊後國僧定秀作
・短刀 山城國西陣住人埋め忠明壽(花押)(ウラ)慶長拾七年八月日
・刀 國廣
・脇指 出羽大掾藤原國路(ウラ)寛永七年八月吉日
・脇指 津田越前守助廣(ウラ)延宝六年八月日
・短刀 繁慶
・刀 奥州仙䑓住國包(ウラ)寛文五年三月吉日
・刀 (一葉葵紋)主馬首一平安代
・刀 荘司筑前大掾大慶藤直胤(花押)(ウラ)文政四年五月日
・刀 豊永東虎左行秀 為嫡子幾馬(ウラ)明治三年二月吉日 行年五十八歳造之
・刀 津田近江守助直(ウラ)元禄二歳二月日 以地鉄颪造之
・脇指 長曽祢興里真鍛作
・刀 肥前國近江大掾藤原忠廣
・刀 長幸於摂津國作之(ウラ)以幡州完栗鋼鉄作之
・短刀 越前國康継 本多飛騨守所持内(ウラ)なんはんかね 三条こかぢ迫

・太刀 俊平 昭和五十五年十月廿二日 昭和五十三年度操業日刀保タタラ玉鋼試作刀
・脇指 以日立新玉鋼 宮入行平作 昭和五十二年正月

 何といっても『真景』が一番よかった。大好きな板目物なのだが、初めて見る名前だ。解説によると平安末期の伯耆鍛冶だという。『舞草』の太刀を見たとき以来の「グッと来る」感動である。本当に東京へ来てよかった。暑い思いをして代々木へ来てよかった…。
 前回の『鈴木嘉定コレクション』で見た覚えのあるものが数口あったのが気になったが、良いものは何度見てもいいのだ。
 もっと見ていたいところだが、もう一ヶ所廻らなければならないので、この場を後にすることにする。名残惜しいが、また今度改めて来よう。


 そして、最後の一ヶ所とは…靖國神社の『遊就館』である。以前から行ってみたいと思っていたのだが、要領が悪いために『東博』と『刀博』の二ヶ所を見る だけで精一杯で、『遊就館』まで行く余裕はなかった。『東博』か『刀博』のどちらかを諦めようとも思ったが、結局できなかった。 今日まで果たせずにい た。せっかく終戦記念日に上京するのだから、是非とも『遊就館』を拝観しようと思い立ったわけである。といっても目的は飽くまで刀なので、

 市ヶ谷駅を降りて、取りあえず大通りを進んだが、自信がない。「靖國神社→」とか案内が有っても良さそうなものだが、これが全くない。段々不安になって くるし、時間に余裕もないし、このまま歩き続けていいものかと考えていたら、左手に緑が見えた。神社に付きものの鎮守の森かなと思い、とりあえず其方へ向 かうが、ただの川沿いの緑地らしかった。しようがないので手前で右折し、両側を学校に挟まれた道をしばらく行くと、数人の警官が立っている。初めは事件か 事故かなとも思ったが、更に進むと数人の警官と機動隊バスを見つけ、靖國神社の警備だと気づく。右手が神社の敷地であるという確信を得るが、今度は入り口 がどこかわからない。前方に目をやると丁字路になっており、道路の前で塀が途切れて、路上に立番する警官とバリケードが見える。「ここを右に曲がったほう がいいような気がするが、立ち入り禁止かもしれないがどうしよう…」と迷っていると、普通に進入する一般人がいたので、ドキドキしながら右折する。すぐ先 には大きな門が見えるではないか。どうやら神社に到着したらしい。しかし、この門は北門らしく、直ぐ右手に『遊就館』が有ったので探す手間が省けた。結果 的オーライということか?結局、大通り(靖国通り)をあのまま真っ直ぐ進めばよかったのに、途中で左折したために靖国通りの真裏を迂回するハメになってし まったようだ。





 終戦記念日のためか、もう夕方の四時だというのに多くの参拝客が神社を訪れていた。





 かの『今井長賀』はここ遊就館の取締役だったことがあるそうで、また明治三十一年から五年間、遊就館で『剣話会』の講師として、別役成義と二氏で刀剣の 講話を行っていたそうだ。講話の内容は速記録を基に『剣話録』として刊行され、後に『今村別役刀剣講話(辻本直男監修)』が改めて発行されている。

 『遊就館』の玄関ホールは沢山の人で賑わっていた。戦闘機や機関車が展示されているのには驚いたが、先ずは受付を済ませ、エスカレーターで二階へ上がる。
 展示室1『武人のこころ』では元帥刀が見事にショウアップされている。

・太刀 笠間繁継(元帥刀)

 元帥刀というと西洋風のサーベルのような軍刀を連想してしまうが、展示されていたのは純然たる日本刀と大昔の衛府の太刀を思わせる姿の拵であった。た だ、刀身は一般的な鋒造ではなく諸刃鋒造で、拵は毛抜形太刀。柄は毛抜形の目貫が据えられており、中子共々も毛抜形に刳り抜かれているわけではない。正 直、軍刀には全く興味がないのだが、眼前にある元帥刀には心惹かれてしまった。特に地板の色合いが印象的だった。それにしても、刀身の形状を諸刃鋒造にし たのは何故なのだろうか?かつて大将軍の絶対的な権限の象徴として、出征する将軍や遣唐使へ節刀を授与していたが、元帥刀はそれに習ったものだろうか。元 帥刀は「国家・国民守護の象徴」として元帥府の大将に下賜されたそうだ。『笠間繁継』は『水心子正秀』の門人『中山一貫斉義弘』の系統で、『繁寿』の弟子 で『宮入昭平』の師だそうだ。

 次は展示室2『日本の武の歴史』。刀剣や甲冑など、戦前の武具が時代を追って陳列されている。勿論、目当ての刀剣類はこの展示室にあるのだ。

・太刀 帝室技藝員月山貞一八十一歳謹作
・太刀 國継
・脇指 無銘(包丁正宗)
・刀 (金象嵌銘)青江
・刀 村正
・大太刀 備州長船盛光
・大太刀 九州筑前住源信國助左衛門尉吉包(ウラ)寛文十二年八月吉日
・槍 水心子正次作
・長巻 九州筑前住人源信國平四郎作
・脇指 越前國康継作
・刀 陸奥守大道
・刀 肥前國忠吉
・刀 民龍子壽實(ウラ)文化八年八月日
・脇指 次郎太郎直勝(ウラ)天保四年十二月日
・脇指 水心子正秀(花押)(ウラ)寛政九年八月日
・靖國刀 靖光謹作
・靖國刀 (金象嵌銘)靖光謹作(ウラ)昭和十二年九月吉日靖國神社第七代宮司大野俊康所持平成八年十二月八日識

・毛抜形太刀(模造 宮口正房製作)

 
 『国継』の名を今日初めて知ったが、古刀期に大和や備前に五人の同名鍛冶がいたようだ。
 『包丁正宗』は大味というか、これといって見るべき所が無く少々ガッカリした。全体的に鈍い銀色で、彫り物がなんだか道教の札の様な印象を与える。

 その後、日本の戦争の歴史を展示物と共に順に追っていく。一階に下りると英霊の写真や遺品が多く展示されており、それを見るのがとても辛かった。失礼とは思いながらも、閉館時間が迫っていたので、駆け足で館内を一通り見学して歩いた。




 そろそろ時間なので、南門を出て靖国通り通って帰る。

 
 翌日、真景のことを調べようと思ったが、図版どころか名前すら見あたらなかった。十月には国立博物館の刀剣コーナーが入れ替えられるようなので、その時にもう一度真景を見に刀剣博物館へ行きたいと思う。
 スマートフォン欲しい…。

2010年6月27日日曜日

登米市歴史博物館『刀の拵~華麗なる刀剣外装の美~』


 『登米市歴史博物館』で開催中の『刀の拵』を見に行く。

  昨日、塩釜神社博物館内で『刀の拵』のという企画展の案内を見かけたのだが、帰りの車中で行こうかどうしようか少々迷っていた。なぜ迷ったかというと、拵 の展示が中心で恐らく刀身は期待できないだろうし、道の下調べが面倒だからである。しかし、折角の県内で見られる刀剣関係の展示会なので、塩竈神社博物館で揚がったテンションそのままに企画展へ出かけることにした。 
 帰宅してから調べてみたところ、企画展『刀の拵~華麗なる刀剣外装の美~』は、『登米市歴史博物館』の開館10周年記念展なのだそうだ。よく見ると、日刀保の宮城県支部が共同主催のようで、期待が高まる。




受付で入場料を払おうとしたら、思いがけず帳面への記帳を促された。なんだか仰々しいなとも思ったが、その代わり入場料は無料だった。
 企画展の展示室は、受付の直ぐ隣なので早速見学開始。

・青貝塗千鳥貝散鞘大小拵
・朱塗藍鮫皮包鞘打刀拵
・紫貝塗込鞘脇指拵
・孔雀石研出鞘打刀拵
・茶漆斜刷毛目塗青貝部分微塵散打刀拵
・梅花皮鮫黒研出鞘打刀拵
・変塗鞘脇指拵
・黒呂色塗蒔絵鞘打刀拵
・朱変塗菊紋金蒔絵鞘打刀拵
・朱黒漆片身替鞘打刀拵
・青貝微塵黒蛭巻鞘打刀拵
・麻糸巻朱漆黒卯殻微塵塗蛭巻鞘打刀拵
・青貝微塵散金切金塗込鞘脇指拵
・金粉平目地刷毛目模様塗鞘打刀拵
・藍鮫砂出黒漆卍紋塗鞘脇指拵
・黒漆塗九曜紋鞘半太刀拵
・黒塗藍鮫皮包二分刻鞘打刀拵
・尻鞘
・金梨子地桐葵紋散蒔絵糸巻太刀拵
・黒漆塗葵紋散蒔絵太刀拵
・金梨子地樋樫木唐草竹雀巴紋蒔絵鞘細太刀拵
・黒漆研出鮫皮包鞘大小拵
・赤茶漆塗鞘大小拵
・梅花皮鮫黒研出鞘大小拵
・棕櫚塗込鞘大小拵
・孔雀石研出鞘大小拵
・青貝微塵散金粉変塗鞘大小拵
・青貝微塵変塗鞘大小拵
・黒呂色塗刻鞘大小拵
・黒石目地鞘大小拵
・片身替黒漆鶴足皮包金粉平目地鞘打刀拵

 展示室の四方の壁面ケースに大量の拵が、中央の覗き型ケースには小道具類が展示されていた。やはり刀剣の展示は無かったが、ご存じ『稲荷山小鍛治』の作者尾形月耕の『夜討曽我』が飾られていた。
 解説が無かったので製作時期など詳しいことはわからなかったが、拵の名称は色や模様、材質、形状などを特徴をそのまま表しているので、どの言葉がどの部分を指しているのか考えるだけでも面白い。


 企画展示室の隣の部屋(常設展示室)も念のため覗いてみると、大太刀が展示されていた。

・大太刀 八幡宮 奉献上 藤原春康 元禄四年辛未年八月十五日 敬白

 作者銘が無いので誰の製作かわからないが、登米近辺に住した刀鍛冶の手によるものなのだろうか。『仙台藩刀匠銘譜』の仙台藩刀匠譜略によると、享保頃に 栗原郡高清水住の伝四郎正利という鍛冶がいたそうだ。彼は出羽国の善兵衛の弟子だったが、世継相続を許されず、野鍛冶になったという。野鍛冶は槍を作るこ ともあったというし、一応、刀鍛冶の元で修行した経験を見込んで大太刀の製作を依頼したという可能性はないだろうか?


 今回の企画展は博物館の開館10周年記念展ということだが、次は20周年記念になるのだろうか。できれば記念展に拘らず、日刀保宮城県支部の企画展をどんどん開催していただきたい。


 『石ノ森章太郎ふるさと記念館』へも行ってみたかったが、丁度良い時間なので今日はこのまま帰ることにした。時間があれば『登米懐古館』へ寄ってみてもよかったな。

2010年5月5日水曜日

東京国立博物館&刀剣博物館

 Uターンラッシュの落ち着いた頃を見はからい東京へ博物館見学へ。

 折角眠い思いをして朝早く家を出ても、上野に着いてから駐車場探しに手間取る。このタイムロスが今後の課題。




 先ずは『東京国立博物館』、一階の『刀剣』コーナーから。

・直刀 無銘(号 水龍剣) 附)宝剣拵
・太刀 宗近村上
・太刀 國俊(ウラ)弘安元年十二月日
・太刀 大和則長作
・太刀 助則
・小太刀 長光(名物 蜂屋長光)
・短刀 國光
・刀 無銘(名物 石田正宗)
・太刀 兼氏
・刀 勢州桑名住村正
・刀 大隅掾藤原正弘(ウラ)慶長十一年三月吉日
・刀 長曽祢虎徹入道興里(ウラ)(金象嵌銘)四胴 山野加右衛門六十六歳ニテ截断 永久(花押) 于時寛文五年二月廿五日

 『号 水龍剣』は切刃造の直刀で、元正倉院御剣。『宗近村上』は三条近村の『近村上(たてまつる)』の銘に宗の字を足したものだという。『国俊』は、『二字国 俊』と『来国俊』別人・同人説がある。尻懸派の祖則弘の子『則長』、大一文字助宗の子小一文字『助則』、『名物 蜂屋長光』は奥平美作守所持で、『長光』も別人説「初代長光は光忠の子で、法名順慶、左近将監長光は順慶の子」と同人説「左近将監長光が老後入道して順慶 と号した」があるという。新藤五『国光』、名物『石田正宗』は政宗公が所有していたが『日向有馬修理』へ売り、それが池田長吉の手に渡り、後に徳川秀忠、 尾張徳川家へ伝来。志津三郎『兼氏』、千子『村正』、国広の子(甥とも)『正弘』、『長曽祢虎徹入道興里』の截断銘は試し斬りの名人『山野加右衛門永久』 によるもの。


 次は二階の『武士の装い―平安~江戸』コーナー。

・牡丹造兵庫鎖太刀拵
・黒檀地花鳥蒔絵脇指拵(金具 後藤一乗、螺鈿 中野一跡)
・短刀 行光
・瑞雲文蒔絵合口拵(短刀 行光の拵)
・刀 無銘(元重)
・朱漆打刀拵(刀 無銘 元重の拵)
・太刀 吉包
・梨地葵紋蒔絵糸巻太刀拵(太刀 吉包の拵)
・薙刀 備州長船住盛景 至徳三年六月日
・十文字槍 兼常

 正宗の父ともいわれる相州『藤三郎行光』、守重の子長船『元重』、永包の子古備前『吉包』、大宮盛次の子長船『盛景』、関『兼常』。

 次は『刀剣博物館』。上野からの移動で結局、一時間ほどかかってしまう。これが結構痛い…。




 『刀剣博物館』では『鈴木嘉定コレクション寄贈品展』が開催中(平成22年3月30日~5月9日)。

・短刀 貞興
・刀 (金象嵌銘)尻懸則長磨上之 本阿(花押)(光室)  附)天和参年本阿弥光常折紙
・太刀 □(州)長船住元重
・刀 無銘(伝青江吉次)  附)享保参年本阿弥光忠折紙
・太刀 豊後國僧定秀作
・太刀 備州長船盛光(ウラ)応永十二年八月日
・刀 兼元
・脇指 羽州住人月山近則(ウラ)永正九年二月吉日
・脇指 長谷部國重
・刀 無銘(兼光)  附)寛永廿年本阿弥光温折紙
・太刀 備州長船師光(ウラ)永和二年六月(以下切)
・刀 備前國住長船五郎左衛門尉清光(ウラ)天文廿四年八月吉日
・刀 (金象嵌銘)延寿國時 貳ツ胴截断
・短刀 國資
・刀 藤原廣實
・薙刀 越中守正俊
・脇指 相模守藤原政常
・短刀 繁慶
・刀 於南紀重國造之
・刀 肥前國住人伊予掾宗次
・刀 無銘(当麻)(金象嵌銘)恐
・刀 (一葉葵紋)主馬首一平安代
・短刀 源秀寿(ウラ)天保五年仲冬 為濤斎主人作之
・刀 豊永東虎左行秀為嫡子幾馬(ウラ)明治三年二月吉日 行年五十八歳造之
・短刀 近江大掾藤原忠廣

・太刀 傘笠両山子正峯作之 庚申年霜月日(ウラ)以日刀保多多羅胴下作之
・脇指 以日立新玉鋼 宮入行平作(ウラ)昭和五十二年正月
・短刀 太阿月山源貞一作(花押)(ウラ)昭和五十二年十月吉日
・脇指 太阿月山源貞一作(花押)(ウラ)日刀保たたら炉以初玉鋼試作之 (棟)昭和五十三年二月吉日
・大身槍 謹呈鈴木嘉定先生 刀剣博物館竣工記念 加賀國住人隅谷正峯(ウラ)昭和丁未霜月吉日 迫日本号 寒山(花押)
 (彫銘)苔口仙琇彫之(金象嵌・花押)

・黒塗織田木瓜紋蒔絵薙刀拵(薙刀 越中守正俊の拵)
・朱塗鞘薙刀拵(長刀 出羽大掾国路の拵)
・朱塗一分刻鞘小さ刀拵(短刀 繁慶の拵)
・茶石目地塗腰金沃懸鞘葵紋金具大小拵 附)刀身 忠吉・兼則
・藍鮫鞘九曜紋金具肥後打刀拵(小林隆忠一作金具) 縁・鐔(銘)小林隆忠(花押)
・金海老茶砂子塗鞘楽寿金具肥後打刀拵
・黒鑞色氷割文螺鈿鞘大小拵
・脇指 備前介宗次作之(ウラ)弘化三年八月日 贈一乗法橋 附)桜皮笛巻塗鞘腰刀拵(後藤一乗一作金具)
・金沃懸地菊紋唐草蒔絵鞘糸巻太刀拵(太刀 僧定秀の拵)
・変り塗腰朱刻鞘肥後打刀拵(刀 孫六兼元の拵)
・青貝螺鈿鞘柄桐違い鷹の羽紋散金具大身槍拵(大身槍 隅谷正峯の拵)

 無銘当麻の金象嵌銘『恐』とは桃山時代のことだそうだ。

2010年2月14日日曜日

『光芒の再生 赤羽刀のきらめき』

 一関市博物館で開催中の企画展『光芒の再生 赤羽刀のきらめき』を見に行く。


 昨日、一関市博物館のサイトを何気なく見たら、『光芒の再生 -赤羽刀のきらめき-』という企画展が開催されていることを知る。文化庁との共催ということで、貴重な刀剣が見られそう。


 博物館の正面入り口前にある、企画展の案内を見て驚いてしまった。なんと今日が最終日ではないか。企画展は二ヶ月ほど前から始まっていたというのに、昨日まで全く気付かず危うく見逃すところだったのだ。
 先ずはいつも通り、『儛草刀と刀剣』コーナーへ。

・太刀 正恒
・太刀 寶壽
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・脇指 寶壽
・脇指 寶壽
・刀 月山
・刀 無銘(月山)
・刀 月山正信作
・太刀 月山定吉作二月十一日
・刀 軍勝作
・長刀 出羽國之住人月山近則(ウラ)永正二年二月日
・剣 山城大掾藤原國包 寛永十八年七月吉日(ウラ)山城子源二郎國包 (樋銘)奉寄進松島山王明神寶殿(ウラ)住持雲居叟希膺代
・脇指 奥州仙䑓住藤原國包(ウラ)慶安五年二月吉日
・刀 山城守藤原國包
・刀 安倫(ウラ)宝永ニ乙酉歳六月二十五日
・刀 一関士源宗明作(ウラ)應西尾守房需
・十文字槍 一関士宗明

 思いがけず、念願の正恒を初めて見ることが出来た。思えば初めて一関市博物館に来たとき、当たり前のように正恒と国包が見られるものと勝手に思い込んで いたので、展示されていないことにガッカリしてしまった。いつ見られるのかと受付で問い合わせたが、その時は明確な回答は得られなかった。国包は後に見る ことができたが正恒は叶わず、半ば諦め仕舞いには一関市博物館に所蔵されていることも忘れてしまっていた。それを今回は特別出品ということで、遂に目にす ることが出来た。
 正恒もそうだが、宝寿4口、月山4口、國包3口と企画展を意識してか、随分力の入った展示内容だった。正恒を除いては、全て奥州刀で統一するという凝っ た展示内容だ。正恒は古備前の刀工であるが、父の有正は儛草鍛冶だという説があり、本当ならば正恒も奥州鍛冶と無縁ではない。
 初代国包と孫(三代目)の合作の剣、二代国包の脇指、安倫の三口は仙台市博物館から貸し出しだそうだ。所蔵している仙台市博物館でも見たことがないの に。他所へ貸し出しするのは結構なことだが、所蔵元で見られないというの残念なことだ。色々事情があるのだろうけど。聞くところによると、仙台市博物館に は刀剣に明るい女性学芸員がいたが、現在他所で修行中なのだとか。修行が終わって仙台市博物館に戻ってくると、なんとナンバー2の地位が待ってるという。 もしそうなれば、刀剣の展示に期待ができるようになるのではないだろうか…?いや、あくまで風の噂と私の妄想です。


 テーマ展示だけでも充分楽しめたが、次はいよいよ企画展示室へ。

・短刀 國光
・太刀 定利
・太刀 宗忠
・太刀 則房
・太刀 備前國長船住長元作
・太刀 (朱銘)青江長次(ウラ)光遜(花押)
・小太刀 無銘(藤島友重)
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・刀 相州住廣次作(ウラ)永正元年八月日
・刀 落陽住信濃守國廣
・脇指 丹波守吉道
・長刀 越中守正俊
・刀 於南紀重國造之
・刀 (葵紋)以南蠻鐵於武州江戸越前康継(ウラ)江陽素産高田亀助
・脇指 (葵紋)康継於越前作之
・刀 大和守安定
・刀 長曽祢興正
・刀 近江守高木住助直作(ウラ)延寶五年三月日
・刀 井上真改(ウラ)延寶六年八月日
・脇指 陸奥守包保
・脇指 肥前國住藤原忠廣
・脇指 武蔵大掾藤原是一
・脇指 對馬守橘常光
・短刀 兼常
・脇指 源清麿
・刀 備前介藤原宗次(ウラ)慶応元年五月日


 気になったのは幾つかの刀の中心に、白いものが付着していたことだ。恐らくペンキか何かでナンバリングしたのではないだろうか。そんなところからも、刀のぞんざいな扱いが窺い知れる。どうも赤羽刀のことを考えると、憎悪が込み上げてくるのを禁じ得ない。

 まさか刀剣博物館とほぼ同じ展示量があるとは思ってもみなかった。できれば日を改めてもう一度来たかった。

2009年5月23日土曜日

塩釜神社博物館

 今日は約半年ぶりに『塩釜神社博物館』へ。
 
 ゴールデンウィークの刀剣見学は、質・量ともに大満足だったが、私には過食気味のコース内容であった。あれだけの量が果たして、きちんと栄養として体内に行渡ったのかどうか。それでも、一口でも多く見たいと思うのが人情というものである。卑しいだけか…。
 本日は、新しい場所へ刀剣を見に行くと、何故か足を運びたくなる塩釜神社博物館へ。


・太刀 来國光
・刀 安倫 75.4 2.4  延宝三年(1675)
・刀 國包 62.4 1.6  二代目
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
   (ウラ)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・刀 月山金利 69.2 1.5


 今回は思いがけず、『二代国包』と『月山』を見とことができた。その他、糸巻太刀拵が来国光附属のものを含め計五口、葵木瓜形鐔三点が展示されていた。何れも初見ではないが、太刀拵の美観的完成形と云える糸巻太刀、特に葵鐔はつい見蕩れてしまう。

2009年5月6日水曜日

憧れの二大博物館

 ゴールデンウィークのラストを飾るのは東京。
 また一日休息日を挟んで、今日は東京へ向かうことにした。以前から、早く行かなければと思っていた『東京国立博物館』や『刀剣博物館』を見学するためだ。貧乏旅行のために高速は使わず、ひたすら国道4号を行く。疲れを残さず東京行きを迎 えることができたが、今までで一番の長距離のため一抹の不安が残る。それに早朝の出発は辛い…。

 流石に朝早いと道路は空いているので、始めは快適に進めた。これは毎度のことである。しかし、行けども行けども東京までの距離は縮まらない…。「やっと 福島に入った」、「やっと福島を抜けた」、「やっと栃木に入った」とこんな調子である。「東京まで○○km」という案内が路肩にあるのだが、その数字がな かなか減らない。それもそのはず、 4日前は日光(約250km)まででヒイヒイ言っていたのに、さらに100km離れた東京へ向かうのである。中々着かないのは当然だ。
 それでも埼玉に入る頃には、様々な名刀に出会えることへの期待に胸を高鳴らせていたが、同時にちゃんと駐車場まで辿り着けるか心配になってしまった。

 上野駅の近くまで来られたのは良かったが、予定していた駐車場へ行くのに中央通りを右折しなければならないのに、土地勘が無いせいで左折してしまい、グ ルッと遠回りするハメになってしまった。二度目は右折できたが、上野恩賜公園の駐車場を順番待ちする車が長蛇の列をつくっており、松竹デパートの前から 中々進まなかった。
 ようやく駐車場に車を置き、「いざ国立博物館へ」と思ったら雨が降ってきた。折り畳み傘を持っていたが、「どうせ博物館に入ったら仕舞わなければならな いんだし」と何だか傘を出すのが億劫になってしまい、そのまま博物館へ向かうことにした。ところが、博物館までの距離が結構(約700m)あり、少し濡 れてしまった。
 正門で入場券を買うらしく、二ヶ所ある券売所のうち、込み合っている方に並んでみると、それは今話題の『興福寺創建1300年記念「国宝阿修羅展」』の 観覧券を購入する人達の列だった。阿修羅像を拝めるのは滅多に無いことだが、観覧料は1,500円と知り悩む。一般の二倍以上である。それに多分、相当混 んでいてゆっくり見学するのは難しいのではないかと判断し、一般券を購入することにした。こちらはがらんとしていた…。




 正門を潜ると、正面に『帝冠様式』というのだそうだが、立派な外観の『本館』がすぐ見える。これからどんな名刀に合えるのか、期待と不安が交錯する。右手にある『阿修羅展』の会場である『東洋館』を横目にしながら、『本館』を目指す。
 玄関に入ると、前方、左右と三方向に部屋が分かれており、順路がわからず一瞬迷ってしまった。取り敢えず右手から見学を始めることにしたが、それで正解 だった。先ず仏像などがが展示されている『彫刻』から始まり、『彫刻と金工』、『陶磁』、『漆工』と続き、次はお待ちかねの刀剣コーナーである。


 ・太刀 三条(名物 三日月宗近) 80
 ・短刀 来國俊(ウラ)正和五年十一月日 21.5
 ・太刀 則國
 ・短刀 □(南)都高市郡住藤原貞吉 □(文)保元年丁巳年二月吉日
 ・刀 金象嵌銘 光忠 本阿(花押) 
 ・太刀 備前國長船長義
 ・短刀 國廣鎌倉住人(裏)元亨四年十月三日 24.3
 ・刀 金象嵌銘 江磨上光徳(花押)(名物 北野江)
 ・太刀 左衛門尉藤原國友 正中元年□月日
 ・短刀 左安吉(名物 一柳安吉)
 ・刀 國廣
 ・刀 肥前國忠吉


 なんと、初っ端が『宗近』である。本でしか見たことのない、あの名刀が目の前にある。感動や興奮が起りそうなものだが、突然すぎて実感が湧かない…。宗 近は佩裏に銘をきったというのは知っていたが、本当に鋒が左を向いた状態で展示されていた。よく見れば、号の所以である所謂、三日月形の『うちのけ』が 所々に見て取れる。刀の特徴を、実際に見てみて確認出来ると、えも言われぬ喜びがある。
 
 川口陟の『定本 日本刀剣全史』によると、昔の刀剣書に「三条宗近は河内国有成同人」とあるそうで、それが本当なら、河内の有成が山城へ移住し、名を宗近と改めたというこ とになる。著者は「では何故に河内国に刀匠が発生したか、その名が有成と称する点から考察すれば、同時代の備前国に、実成、友成、介成らの刀匠があり、ま た備前正恒は奥州有正の子とあれば、これら一派の刀工らと共に、奥州から大和、河内などに移住したものと見なければならぬ。」と、名前の『成』の共通性か ら有成が奥州から俘囚として移住してきた可能性を述べている。もし、宗近と有成が同一人物であるならば、宗近も奥州と関わりがあることになる。有成は宗近 の子とするのが一般的だが、京の都からわざわざ河内へ移った理由は何だったのだろうか。
 同じく『定本 日本刀剣全史』の中で、江戸時代のものではあるが、『摂陽群談』という地誌の「三条小鍛冶宗近並国久旧屋、有馬郡小名田村にあり、旧栖家伝云、宗近、国久 出生の地、或は当領主都より呼下して剣戟を作らしむとも云へり、金床の跡、于今あり、此旧屋に住する者、宗近の誰、国久の誰と諱を以て氏と為す、世俗剣を 作れる所を金床と云へり、毎年正月、注連を曳て燈明を置り、宗近、国久等剣を作るの妙術を感じて当所の埴土、金工于今所設之、「神社啓蒙」云、稲荷社者、 金工専為主神可也、曰有小鍛冶者、造剣戟、其利無能及無及也、一旦取当山埴土、以覚堪鎔刃也、仍数為埴土来住、且拝神矣、世不構此埋、徒為金工守神、 云々」という一文を紹介している。摂津国有馬郡は現在の兵庫県南東部にあたる。
 その他、「備前住為吉の子で、永延年間に京都へ移住し、三条小鍛冶と称した」という説もあるようだ。
 ところで、菊池山哉の著作に次のような説がある。『三条』は『産所』と同じで、『守戸』に通じるという。『守戸』は『陵戸』のことで、恐らく『産所』は 『散所』と同じものと思われる。『陵戸』は古代の陵墓守衛民のことで、触穢思想から卑賤視された。菊池はこの『守(陵)戸』から『産(散)所』が出たと考 えたのだ。三条宗近の『三条』が『産(散)所』と繋がりがあるかどうかはわからないが、その筋から職人など特殊技能を持った者が出ることは考えられなくは ない。因に散所には『声聞師』、『陰陽師』、『行者』などを生業とする者がいた。奥州鍛冶の、取り分け月山鍛冶は修験者を通じて、遠く九州などにも伝播したといわれる。そういうネットワークを通じて宗近が作刀技術を習得したとは考えられないだろうか。

 閑話休題、その他『国俊』、粟田口『則国』、保昌国光の子保昌五郎『貞吉』、長船の祖『光忠』、相伝備前の『長義』、新藤五国光の子『国広』、「郷と化 物はみたことがない」でお馴染み『郷義弘』、延寿『国友』、流浪の刀鍛冶『国広』、大左の子『安吉』と名立たる名刀ばかりが展示されていた。上手く言葉に 出来ないが、何らかのイデアが名刀には内包されているとしか思えない。或いは『刀のイデア』を持つ刀剣は、見る者に深い感動を与えるのではないだろうか。
 最後を飾っていたのは所謂『五字忠吉』。これまた忠吉も指表ではなく、指裏に銘をきる。例外があるものの、太刀銘にきるのが忠吉一門の伝統となったようだ。なぜ忠吉は太刀銘をきったのだろう。更に不思議なのは、脇差は指表に銘をきっているのだ。謎である。


 ・小桜透鐔 無銘(刀匠) 
 ・弓矢雁透鐔 無銘(尾張)
 ・梅花短冊透鐔 無銘(古正阿弥)
 ・胡蝶透鐔 芸州住貞刻
 ・芹図鐔 山城國西陣住埋忠七左作
 ・八ツ蕨手透鐔 林又七
 ・猛禽補猿図鐔 無銘(志水甚五)
 ・鼓透鐔 在哉
 ・鶴丸図鐔 武陽住如竹叟行年六十歳作之(花押)
 ・牛若丸弁慶図大小鐔 (大)周斎石黒(花押)(小)周斎石黒包元(花押)
 ・月に桜花図鐔 なつを(花押)鍛清人


 鐔と小道具類も展示されており、特に刀匠の作とされる『小桜透鐔』を見ることができて嬉しかった。私は文透など刀匠や甲冑師が作ったとされる、シンプル な意匠の透鐔が好きで、視覚的情報量が少ないせいか、ずっと見ていても飽きがこない。しかし、目が慣れてくるとデザインだけでなく地金に良し悪しに目がい く。展示されている『小桜透鐔』は大変素晴しいものだった。『刀匠鐔』は、『刀盤図譜』に「上古、刀を誂えて打立ちさする時は、鐔を添えて作りたり」とあるあそうで、ここから来ているようである。


 ずっとこの空間に居たいところだが、この次の予定を考えるとそうもいかない。未練を断ち切って残りの展示室を見て回ることにする。その中で特に興味深 かったのは、『民俗資料・アイヌ・琉球』のコーナーに展示されていたアイヌの山刀と太刀だった。『アイヌの狩猟と漁撈』というテーマで、アイヌ民族の狩猟 用の道具が展示されていた。山刀は『タシロ』といい、山猟の際に携行したという。太刀は山刀や鉈と同じ使い方をし、熊など獣を猟るのにも使用したそうだ。
 アイヌの言葉で太刀のことを『エムシ(emus, - i)』といい、その語音からエミシ(蝦夷)を連想し、蝦夷はアイヌ人とする説がある。私も「刀を肩から下げる、佩刀する」ことを『エムシ・ムツ』ということから、安易に『蝦夷、陸奥』と連想してしまった。しかし、これはアイヌ人から見て蕨手刀を腰に吊るすエミシの姿が印象的で、アイヌ人がエ ミシの太刀を『エムシ』と呼ぶようになったのではないだろうか。アイヌに刀鍛冶は居らず、物々交換で刀を手に入れていたという。因みにアイヌ語で鐔は 『セッパ』というが、これは輸入語だそうで、切羽からきていることは想像に難くない。
 刀を意味する言葉は他にも『アエシポプケプ』、『シポプケプ』、『チムッペ』、『ラムコパシテプ』などが有るそうだ。アイヌ人は『エミシ』と呼ばれるこ とを嫌ったという。これは自分たちのことを蔑称的に『エミシ』と呼ばれることを嫌ったと考えるのが普通だが、もしかするとアイヌ人が『エミシ』と同一視されることを嫌ったということなのではないだろうか。

 刀剣コーナー以外は殆ど落ち着いてみる事ができず、覗いてすらいない部屋もあった。しかし、帰りの時間を逆算すると、そろそろ移動しなくてはならない。



 国立博物館をあとにし、次に目指すは『刀剣博物館』。
 地下鉄で代々木に向かい、駅を出ると雨が大分強くなっていた。折り畳み傘を出すが、雨が強くて濡れてしまう。雨の降りしきる中、大分迷ったが、どうにか辿り着くことができた。




入口には薫山、寒山両先生の胸像が


 正面玄関から中に入ると、どうやら一階は事務室で、二階が展示室になっているようだ。階段を上ると、直ぐに受付が見える。

 展示室に入ると、相当数の刀剣が目に入ってくる。帰りの時間も考えなければならないが、30分程度でまともな見学ができる数ではない。量からいって、寧 ろこちらに時間を割くべきだとさえ思える。国立博物館も満足のいく見学時間ではなかったが、あれ以上居たらこちらで許される時間が僅かになってしまったこ とだろう。


 ・太刀 兼永
 ・太刀 来國光
 ・太刀 康暦元年八月日 包吉
 ・短刀 貞興
 ・短刀 兼友
 ・太刀 月山作
 ・刀 無銘(則重 号太閤則重)
 ・刀 村正
 ・脇指 無銘(伝正宗 向井将監忠勝旧蔵)
 ・太刀 信房作(因州池田家伝来)
 ・太刀 備前國景安
 ・太刀 真則
 ・太刀 長光
 ・短刀 備州長船元重(ウラ)正和五年六月日
 ・短刀 備州長船住兼光(ウラ)暦応三年十月
 ・脇指 備州國長船兼光(ウラ)貞和三年十二月日
 ・刀 無銘(長船倫光)
 ・刀 無銘(伝長重 大島津家伝来)
 ・太刀 備州長船師光(ウラ)永和二年六月日(庄内酒井家伝来)
 ・太刀 備州長船次行
 ・太刀 備州長船家助(ウラ)永享九月八月日
 ・刀 備前國住長船五郎左衛門尉清光(ウラ)天文廿四年八月吉日
 ・太刀 是友(古青江)
 ・刀 無銘(古青江)
 ・刀 津田越前守助広(ウラ)延宝九年八月日
 ・刀 板倉言之進照包(ウラ)延宝八年二月吉日
 ・脇指 相模守藤原政常
 ・短刀 繁慶
 ・脇指 乕徹入道興里(ウラ)彫物同作
 ・刀 水心子正秀(ウラ)出硎閃々光芒如花 二腰両腕一割若瓜
 ・短刀 源秀寿(ウラ)天保五年仲冬 為涛斎主人作之
 ・刀 為村上重君石堂運寿是一精鍛造之(ウラ)嘉永七甲寅歳二月日
 ・刀 奥州仙䑓住藤原國包(ウラ)寛文五年三月吉日
 ・刀 於南紀重國造之
 ・短刀 近江大掾藤原忠廣
 ・刀 肥前國住人伊予掾源宗次
 ・刀 肥前一文字出羽守行廣


 こちらも名刀がずらりと揃っている。正直、半分以上を把握出来ない。全体的に備前ものが多いのが印象的だった。国立博物館の三条宗近の後、今度は五条兼永である。国包をここで見られるとは思わなかった。
 あまりの質と量にお腹一杯である。全ての刀を脳裏に焼き付けるのは無理である。国立博物館に続いてはしごし、しかも全てが初見。それにしても、刀剣博物館に足繁く通える人が羨ましい。
 帰りの時間が気になり、そろそろ帰らねばならなくなった。一応、受付の方に展示品の入れ替えについてお尋ねすると、年間予定の案内を頂くことができた。 是非また此処に来ようと心に決めながら、刀剣博物館を後にした。今日は国立博物館がメインだったが、量的な見応えは刀剣博物館の方が上だった。勿論、質も 負けず劣らずだ。

 一度見ただけでは決してわからない。何度でも見たい。更には未だ見ぬ刀もっとあるはずだ。それに、他にも都内で行ってみたい場所は沢山ある。上京する回数を増やさねば。
 今日は、遥々340kmを走って来た甲斐があった。もちろん、帰りもあるわけだが…。国立博物館で一日を費やしてたら、刀剣博物館での感動は無かっ た。しかし、国立博物館の見学にもっと時間を掛ければ、勉強になったり感動があったかもしれない。どうしても、少しでも多くを見たいと思ってしまう貧乏 性。スケジュールに問題があるのはわかっているのだが。出来れば泊まりがけで余裕を持って来たいものだ。
 家に着いたのは、日付が変わってからだった。腹が減ったが眠い。眠いが腹減った。兎に角疲れた…。


 後日談が三つある。一つ目は『阿修羅像』だが、たまたまTVでその特集を見たが、館内は相当な込み用で、結局は落ち着いて観られる状況ではなさそうだった。金をケチったということもあるが、混雑を予想して観覧券を購入しなかった判断は正解だったようだ。
 二つ目は、本館の二階に『武士の装い - 平安~江戸』というコーナーがあり、ここにも名刀や鎧が展示されているようなのだが、知らずに見逃してしまったということ。刀剣コーナーを見て全て見た気 になってしまっていたのだ。下調べが不十分で、更には時間に追われて他のコーナーを落ち着いて見られなかったのが原因である。本当に勿体無いことをした。 大鎧や具足の一領も見当たらないと不思議に思っていたのだが。次回は絶対二の轍を踏むまい!
 三つ目は、高熱で床に臥してしまった。世間では新型インフルエンザが問題になっており、国立博物館内に外人が結構居たので、うつされたのではないかと生きた心地がしなかった。雨に濡れて風邪を引いてしまっただけだったのだが。

2009年5月4日月曜日

蟹仙洞博物館

 本日は山形の上山へ。
  一日身体を休め、上山にある『蟹仙洞博物館』 を訪れてみることにする。前回、上山へ訪れた時はこの『蟹仙洞』のことを知らないでいた。長谷川謙三という方が個人で収集した彫漆などを展示している博物館で、刀もいくつかあるらしい。

 出発する時間が遅かったのも悪かったが、愛子を抜けるまでひどい渋滞だった。

 上山入りは何の苦もなくできたが、肝心の『蟹仙洞』は中々見つけられなかった。近くまで来ているのは確かなのだが、それらしい建物は見当たらない。この ままでは時間の無駄なので、道に立っていたお母さんに訪ねてみる。やはりそう遠くではないようで、詳しい道順を教えて頂き、道を急いだ。

 やっと着いてみると、一見蔵のような建物で、遠く離れた場所からでは絶対にわからない。




 玄関でスリッパに履き替え、係の方に入場料を払う。
 最初の部屋が刀剣コーナーだったため、逸る気持ちを押さえることなく見学をはじめられた。

 ・短刀 備州長船景光(裏)元亨二二年三月十六日  附)短刀拵 八寸二分半
 ・脇指 長谷部國重  55.45
 ・短刀 月山 附短刀拵  20.6
 ・太刀 備前長船重吉(裏)明徳三年十月日  60.9 附)菊葉紋蒔絵糸巻太刀拵
 ・刀 兼元  二尺三寸一分
 ・刀 肥前國住近江大掾藤原忠廣  70.45
 ・脇指 山城大掾藤原國包(花押)(裏)寛永十一年八月
 ・刀 長曽袮興里入道虎徹  70.9
 ・刀 和泉守藤原國定  70.75 (井上真改代作)

 ・六十二間星兜
 ・鎧櫃 結城哲雄作
 ・鳥柏葉文蒔絵太刀掛
 ・紅白糸威二枚胴具足
 ・葵紋散蒔絵短刀箱
 ・緋羅紗地葵紋短刀箱覆

 その他、鍔や小道具も多数展示されていた。そして折紙。折紙はあるが、肝心の刀がこの博物館には存在しない。盗まれてしまったからだ。詳しいことはわか らないが、重文の国次、兼光、長義、をはじめ、重美の虎徹、行平(指定無し?)、助真など名立たる名刀が悉く盗まれてしまったそうだ。図鑑などで写真を見 ることはできるが、やはり実物を見てみたかった。盗難リストに光包は無いようだが、無事なのだろうか?

 一昨日は火災による刀剣の焼失、今日は心無い者による窃盗。天災と人災によって刀が失われることについて考えさせられると、とても辛い気持ちになる。盗 まれた刀はこの世から消えて無くなったわけではないが、日の当たる場所へ再び現れるのは難しいのではないだろうか。最悪、手に入れた者が死んだ後、誰も盗 まれた刀の手入れをする者がなく、死蔵され錆びて朽ちていく…。考えただけでもゾッとするが、家に伝わる宝刀が蔵や押入の奥で、人知れず朽ちていくという 事は珍しい事ではないと思う。博物館の学芸員が旧蔵品を寄付してもらう為に、民家などを訪ね歩くそうであるが、刀を駄目にするくらいなら逸そ然るべき所に 寄贈するか、売り払うべきだと思う。刀にとっては手入れされることもなく、忘れ去られる事は大変な不幸だと思う。

 いつも博物館などでなるべく尋ねるようにしてるので、受付の方に「入れ替えはないのですか?」と聞いてみると「入れ替えも何も、殆ど盗まれてしまってね…。展示してあるのが全部です」という答えだった。私は胸が痛くなり、何とも遣る瀬無い気持ちになってしまった。

 そういえば見学中、先客の女性二人が受付の方と話しているのが聞こえてきた。どうやら何処かの研究室の方らしく、(多分)彫漆を撮影させて欲しいと交渉 していた。どうやらこの博物館に収蔵されている彫漆はとても貴重な物ばかりらしい。私は門外漢なので彫漆のことはまったくわからないが、展示されている刀 剣の質から考えると、他の展示物も一級品ばかりなのだろうなと得心出来る。話はまとまったようで、女性は後日改めて来館する約束を取り付けていた。目出度 し目出度し。

 刀を見終えた後、館内を一通り見て廻り、彫漆のコーナー(ここが一番広く充実している)へ向かう。どれも価値のあるものなのだろうが、私には見方がさっ ぱりわからない。私には見る目が無いとつくづく自分が嫌になってしまった。せめて刀を見る目だけでも養わないと。今は『好きだから見ている』に過ぎず、決 して善し悪しが解っているわけではない。
 仙台から近いし、隠れ家的な所がいいので幾度となく足を運びたいと思う。


 次は米沢へ行きたい所だが、その前に上山と米沢の真ん中にある南陽市へ向かう。『鉄と俘囚の古代史/柴田弘武』によると、南陽市の池黒というところには 『池黒皇大神社』という神社があり、そこには『宗近』の名が出てくる棟札が納められているそうだ。また周辺には、俘囚が住んでいたと思われる『別所』が地 名として残っているという。

 南陽市へは南下するだけなのでわけなく入れたが、目的地の池黒には中々辿り着けなかった。散々迷い、一度はすぐ近くの集会所まで来たのに、神社に気付かずその場からまた離れてしまった。また迷走。どうにか神社を見つけることが出来たが、相当時間を喰ってしまった。

 立派な案内に神社の由緒が書かれている。




池黒皇大神社由緒

 当皇大神社建立の起源は、桓武天皇の延暦年間(西暦七百八十二年~)、今をさかのぼること一千二百二十余年前において坂之上田村麻呂将軍東征の際、屯軍 の地として城壁を築き社を建て天照皇大神、豊受大神、鹿島大神を祀れる。故に、古来より坂之上神明神社と称するものなり。
 白河天皇の応徳三年丙寅歳(西暦一千八十六年)今より九百二十二年前、当山別当職出羽神輿麻呂により再建し奉るものなり。(当時の棟札現存し、市文化財の指定をうけている)
更に、後水尾天皇の元和年間(西暦一千六百十五年~)伊勢国伊勢山源海寺別当に請い、天照皇大神社を再び勧請し奉り天下泰平を祈る。元和七年、北条郷代官安部右馬助及び総氏子の請願により、源海寺別当、元和八年当社に転住する、都合三度の建立を経て現在に至るものなり。
 (祭礼、例大祭四月二十一日、新嘗祭九月十六日)
 源義経公奥州下向の際、当社の御神徳に浴し先勝を祈願され馬具及び甲冑を奉納せられしこと明らかなり。
又、当皇大神社より午の方(現在の猫子の地)に、義経公愛用の麗馬(黒馬)生まれし池の旧跡あり。是、池黒の名の興りし所以なり。古来より柵を廻らし、馬頭豊受大神を祀り、当社別宮として毎年四月二十一日祭礼したるものなり。
 右、皇大神社由緒なるが、古来より緒人の崇敬深厚にして、御神徳を仰ぎ奉るものなり。
    平成二十年丙子歳九月吉日


 白山神や聖観音の名が出てくるものとばかり思っていたが、ここ皇大神社は違うようだ。『当時の棟札』とは、例の宗近の名が出てくる棟札のことだろうか。




池黒皇大神社



 残念ながら棟札を見ることは出来なかった。市文化財に指定されるほど重要なのだから、社務所或いは他所で大切に保管されているのだろう。因みに棟札には次の様に記されているという。
 「応徳三年丙寅七月十有五日
  当山別当職出羽神輿麿啓白
  奉再立天照皇大神宮
    国家安泰如意祈所
  木刻師□□鍛冶三条小□宗近
  □□□」
 『鍛冶三条小□宗近』の□には、一体何という文字が入るのだろうか?宗近は『三条小鍛冶』の通り名で知られるが、三条の前に鍛冶の字は既に使われている し、鍛冶は二文字だから違うだろう。今一つ、『小狐』というのがり、これなら一文字だからしっくりくる。しかし、『小狐』は宗近の作った刀に対する通称な ので、これに果たして当てはまるかどうか。




 神社の横には道があり、羽黒神社へ繋がっているようなので、進んでみる。思った以上に足場が悪く登りがきつい。すぐ裏にあるのかと思いきや、大分歩かされてしまった。




 この裏にも道が続いていたが、これ以上進む気にはなれず、引き返すことにした。帰りは下りが多く幾分楽だったが、足を取られそうで気が抜けなかった。


 この後、米沢に行きたかったが、蟹仙洞、皇大神社と目的地を見つけるのに手間取り、すっかり時間がなくなってしまった。ゴールデンウィーク真最中で道路も大分込むだろうからと大人しく引き上げることにした。

2009年5月2日土曜日

日光東照宮宝物館

 ゴールデンウィーク第一弾は『日光東照宮』へ。

 GWを利用して遠出することにしたが、ETCを装備していないのでその恩恵を受けられず、東北、北関東圏から目的地を選ぶことにする。色々考えて、今回は日光に決める。目的地は『日光東照宮』で、お目当ては『日光東照宮宝物館』。家康公の愛刀や、奉納された刀剣が沢山あることだろう。楽しみである。

 皆、高速道路を利用しているのか、一般道はそれほど混雑しておらず、あまりストレスを受けずに日光入りできた。東照宮に着くまで少々迷ったり、駐車場までの長い列と急な坂道は大変だったが、どうにか東照宮へ到着することが出来た。


 適当に敷地内を見て廻り、『日光東照宮宝物館』へ。


 ・太刀 兼常  68.0 1.8
 ・短刀 越前康継  36.9 0.5
 ・太刀 肥前國住人忠吉作
 ・大太刀 捧伊賀守藤原金道(裏)寛永三年十一月吉日  79.5 1.4
 ・脇指 備前國住長船勝光宗光備中於草壁作(裏)文明十九年二月吉日  附)小さ刀拵
 ・大太刀 奉献上御太刀康継以南蛮鉄江戸作之(裏)寛文三癸卯年四月十七日三代目下坂  100.9
 ・太刀 和泉大掾藤原國輝 附糸巻太刀拵  70.2 2.0
 ・太刀 家次 附糸巻太刀拵  72.9 2.6
 ・長刀 備州長船景光  57.6
 ・短刀 無銘(伝行光)  26 附)合口拵
 ・太刀 守高  58.5 2.1


 一番感激したのは、何といっても初代忠吉を初めて見られたことだ。忠吉といえば『五字忠吉』が珍重されているが、展示されているのは俗に『住人忠吉』というそうだ。『肥前刀大鑑 忠吉編』には次の様にある。「慶長十八年八月から元和元年にかけて「肥前国住人忠吉作」と銘を切ったものがあるが、この場合必ず上記の如く「作」の字を入 れて八字銘に切っていることに注目したく、「作」の字のないものは四代銘か偽銘である。」


 館内の説明文によると、文化九年(1812)大晦日の夜に別所大楽院が火災が起り、宝蔵(銅神庫)にまで延焼したため、家康遺愛の品々のほとんどが焼損してしまった。その中には助平、包平、正恒、友成、助真、国宗、長光、了戒など在銘の名刀が含まれていた。なんとも残念な話だ…。その内、十五振りは 現代の刀匠により立派に再刃復元され、常時宝物館に展示されているそうだ。もし火事で焼けてしまう前の、健全だった姿を写し取った押型があるのなら、それ も一緒に展示してもらいたいものだ。

 徳川家ではその他にも火災により、名刀を焼失する災難に遭っている。川口陟の『日本刀剣全史7(江戸時代2)』に二件の事例が紹介されている。

 「慶長十二年十二月二十二日丑時(午前二時)駿府城が失火した。折から家康は心地例ならず打伏していたが、中山雅楽助信吉に助けられて事なきをえた。つ ねづね次の室においてあった刀箱二個の中、一個には三十四本の刀が入れてあったが無事に取出し、他の一個は七十二本入れてあったために重くて取り出すこと ができず、箱を打ち破って刀はみな池の中へ投げ入れたので焼失を免れたが、座右におかれた宝物は一として烏有たらざるはなかった。豊臣秀吉から贈られた白 雲の茶壺真壺、正宗の脇差、三原の脇差、獅子の笛なども焼失した。(略)明暦三年正月十八日および十九日の江戸の大火は、江戸城本丸、二の丸残らず炎上、 江戸城にあった太刀刀類千五十一腰が焼失した。いま『桜嶽斉雑妙』なる随筆によればその焼失の主なものは左のとおりである。
 ・一、無銘藤四郎(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、豊後藤四郎 一、新身藤四郎 一、シノギ藤四郎 一、飯塚藤四郎 一、庖丁藤四郎 一、米沢藤四郎 一、樋口藤四郎
 右ノ外御脇差三百枚計ノ吉光数多
  一、三吉正宗(寛明間記に三好正宗) 一、八幡正宗 一、長銘正宗 一、対馬正宗 一、横雲正宗 一、道合正宗(十河正宗の誤か) 一、シノ木宗近 (刀剣名物帳焼失の部になし) 一、小脇差行平 一、青木國次 一、三斎國次 一、不動國平(不動國行の誤か) 一、骨ハミ吉光 一、大シヤ國吉(大子屋 國吉) 一、村雲当麻(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、岐阜國次(岐阜國吉か) 一、三吉江(三好江) 一、西タカ江 一、上杉江 一、上野江 一、紀 州江 一、伏見正宗 一、蜂屋江
 此外正宗の刀数多
 右馬頭様(甲府綱重)の御道具
 一、上野紀新太夫 一、吉光の一振(一期一振のことか) 一、の法國綱 一、秋田行平 一、しめ丸行平
 此外千貫計の行平数多、百枚二百枚の御道具数多、三十腰計入箱二十計の内五箱出る、十五箱は御本丸にて焼失す」

 以上、徳川家の蒙った刀剣焼失の事例を二つ挙げたが、明暦の大火に加え、本能寺の変、大阪城落城などで焼失や行方知れずになった名物の刀剣が、いわゆる『享保名物牒(公儀本)』の中に『古来之名物焼失之部』としてまとめられている。

 『骨喰藤四郎、一期一振藤四郎、大阪新身藤四郎、江戸新身藤四郎、長岡藤四郎吉光、塩河藤四郎、親子藤四郎、庖丁藤四郎、車屋藤四郎、豊後藤四郎、樋口 藤四郎、大森藤四郎、米沢藤四郎、凌藤四郎、鯰尾藤四郎、薬研通藤四郎、足利飯塚藤四郎、大阪長銘正宗、江戸長銘正宗、八幡正宗、横雲正宗、大内正宗、弐 筋樋正宗、黒田正宗、対馬正宗、紀伊国片桐正宗、江雪正宗、秋田石井正宗、石野正宗、笹作正宗、蒲生正宗、上リ下リ竜正宗、若江十河正宗、伏見正宗、三好 江、上杉江、桝屋江、上野江、肥後熊本紀伊江、蜂屋江、大江、常陸江、甲斐江、三好江、西方江、切刃貞宗、獅子貞宗、安宅貞宗、海老名貞宗、小尻通新藤五 国光、安宅志津、善鬼国綱、大国綱、村雲久国、岐阜国吉、太子屋国吉、大国吉、ヌケ国吉、義元左文字、伊勢左文字、北野紀新太夫行平、秋田行平、注連丸行 平、地蔵行平、本多行平、御髪行平、不動国行、小国行、秋田国行、青木来国次、三斎来国次、戸川来国次、秋田則重、増田則重、実休光忠、青屋長光、縄切筑 紫正宗』

 江戸時代、『吉光』、『正宗』、『郷』を『三作』と称していて、公儀本に記載されている二三四振の内、吉光が二十三振、正宗五十六振、郷義弘が二十二振 とその持て栄しぶりがよくわかる。しかし、中には名物と呼ぶには相応しくないものが、少なからず混じっているようである。また、公儀本は享保四年当時のもので、調べ方が稚拙だったためか『焼失之部』に記載のうち幾振かは現存するそうだ。例えば、『不動国行』と『一期一振藤四郎』が『日本名刀100選』で紹介されている。
 信長の愛刀だった『不動国行』は本能寺の変の際、安土城にあり、これを明智左馬介が分捕った。しかし坂本城が落城するとき、『二字国俊』の刀、『薬研藤 四郎』の小脇差、その他茶入れや釜などの名品と一緒に肩衣に包み、天守から投げ下ろして堀久太郎に託し、自らは自害したという。こうして秀俊の英断により、せっかく国行の太刀は焼失の愁いを逃れたのだが、上出『明暦の大火』で焼けてしまったというのだ。せめてもの救いは信国重包によって再刃され、未だ現 存するといことだ。
 今一つ、短刀の上手な吉光の唯一の太刀と云っていい、『一期一振藤四郎』は大阪落城で焼けてしまった。これも焼失は免れ康継が再刃したが、『光徳絵図』にある焼ける前と比べると、殆ど別物の様だという。秀吉が約23センチも刷上げてしまったというのも、少々残念だ。

 その他、関東大震災や世界大戦で失われた刀剣も数多いことだろう。そのことを思うと胸が痛くなる。


 『二荒山神社宝物館』にも是非寄りたかったのだが、時間の都合で今回は断念。

2009年3月20日金曜日

舞草神社探訪 其之二 (後半)

 前半に引き続き、残りの遺跡巡り。


 儛草神社から戻り始めてすぐ、右手(南側)に『舞草小戸山遺跡』の標を見つける。参道よりやや低くて目立たない所に有り、危うく見落とすところだった。



 ここからは『釘』、『鉄鏃』、『土器』などが発見されたそうだ。気になるのは『鍛冶伝承地周辺図』に『舞草小戸山遺跡』が載っておらず、代わりに『舞草鍛冶遺跡』が『土師・須恵器片出土地』となっていることだ。



 行きで探索を我慢した『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡(白山岳山頂周辺)』のポイントまで漸く戻ってきた。すぐ右(西)へ道があるが、先ずは左の『鉱山跡』へ行ってみる。



 人が普段通らないために植物が生い茂っているが、不思議と道だと認識出来る。少し進むと石碑を見つけたが、鍛冶とは無関係だった。



 更に行くと岩場に出たが、これといったものは見当たらない。木の枝をかき分け斜面を登ってみるが何も見つけられなかった。どうやらハズレだったようだ。 それどころか、道無き道を来たものだから、自分がどこを通ってきたかわからなくなってしまった。兎に角、斜面を下りながら右へ右へと向かった。「ああ、 迷ったかも…」と不安に襲われたが、どうにか戻ることが出来た。大昔の修験者が山を進むのに、刀を必要としたというのを身をもって感じた。

 もう一ヶ所、人が通れる所を見つけ、何となく気になる。「迷ったらどうしよう」と少々不安を覚えながらも、先程の生還(大袈裟)で少々大胆になり、何の根拠もなく進んでみることにする。



 暫く進むと『舞草鍛冶遺跡』の標を発見!アタリである。参道脇に建つ『舞草鍛冶遺跡』の標は此処のことを指すのかもしれない。だとすれば此処から『羽 口』の一部と『鉄滓』が発見されたということになる。そうすると『鉱山跡』も他にあるということか…?地図では此処より南に白山岳鉱山跡が標されてい る。それにしてもここに立つ標識だけ古く細い。最初に発掘調査が行われた場所なのではないだろうか。





 最後は前の二ヶ所に比べると道らしい道と思える通りだ。途中、注連縄で結ばれている二本の杉が有り、少し先で道が二つに分かれている。多分、真直ぐ(西)行けばこのまま神社へ向かうか、東参道へ合流するのだろう。ここはもう一本の道へ進んでみる。



 しばらく行くと、また注連縄を見つける。ここには曾て『金鋳神像』が祀られていたようだ。



 一度道へ戻り、奥(東)へ続く道を進むと、また注連縄が。後には巨大な岩が聳える。はじめはここが何を祀っているのか見当もつかなかったが、地図にある 『鉱山跡』の場所と大体一致する。先程、難儀しながら見て廻った岩場が『鉱山跡』なのではなく、此処こそがそうなのかもしれない。



 来た道を慎重に引き返し、二本杉の通りへ戻り、西へ向かうと思った通り東参道に合流。

 

 全てを行き尽くしたわけではないし、不明な点も多々有るが、それでも一通り見て廻ることが出来たと思うので、そろそろ引き上げることにする。
 帰り道、表参道の入り口を見つける。前回、気付かないで通り過ぎていた。



 道は徐々に険しくなる。しばらくすると石段が現れるが、また消えてしまう。







 また階段があらわれ、道路を越えてると、先程引き返した道に続き、神社正面に辿り着く。この表参道の往復は半分の距離でも大変だった。本来はこちらの参道を登って神社へ至るのだろうが、現在では車で来られる東参道を利用しているのではないだろうか。



 時間に余裕があったので『一関市博物館』へ。現在は通常展示室と企画展示室は改装中のため見学出来ない状態だった。しかし、目当ての刀剣コーナーが生きていて本当に良 かった。もしそうでなかったら項垂れて帰っていたことだろう…。

・太刀 舞草 72.7 3.2

・太刀 友安 69.3 1.4
・薙刀 無銘(舞草) 66.8 3.1
・太刀 寶壽 70.1 2.4
・刀 無銘(月山) 66.5 1.7

・刀 奥州仙䑓住國包 75.5 1.2
・刀 一関士宗明作 元治元年八月吉日(ウラ)振此利刀鏖敵者誰多巻觀民 70.5 1.5
・脇指 陸中國宗明 45.3 0.9
・脇指 明弘 38.3 0.7

・太刀 行光 84.1 2.3
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 武蔵大掾藤原是一 45.2 0.9
・刀 備前介藤原宗次 文久四年二月日 71,1 1,2


 いつもは箸休め的にサラッとしか見ていなかった発掘物も、今日は遺跡を見て廻った後なので、とても興味深く見ることが出来た。『石像金鋳神像』が『金鋳神像跡』に祀られていた姿を想像してみる。

・釘(舞草小戸山遺跡)
・鉄鏃(舞草小戸山遺跡)
・羽口(舞草鍛冶遺跡)
・土器(舞草神社西遺跡・舞草小戸山遺跡)
・窯壁(伝古屋敷跡)
・鉄滓(舞草鍛冶遺跡)
・石像金鋳神像


 お彼岸のためか、館内の一部改装のためか、客は私の他に誰も居なかった。そのため、貸し切りような気分で刀に見入ることが出来た。発掘物同様、舞草刀も旧舞草山の刀鍛冶に思いを寄せながら、いつもと違った気分で見学できた。また、はじめて『二代国包』を見たとき、『初代』でないことにがっかりしたものだが、今日は敬意を払いながら改めて見直した。

2008年11月23日日曜日

『平泉 ~みちのくの浄土~』展

 仙台市博物館で開催中の『平泉 ~みちのくの浄土~』展へ。
 
 
 今回の企画展では、仏像や経典など奥州藤原氏の仏教文化を堪能できる。中でも目玉は国宝の『薬師如来坐像』、『日光菩薩立像(左脇侍像)』、『月光菩薩立 像(右脇侍像)』三躯(何れも福島・勝常寺)や『阿弥陀如来坐像』をはじめとする『金色堂西北壇上諸仏』十一躯(岩手・中尊寺金色院)、『紺紙金字一切 経』などで、他にも重文の重美指定の作品を数多く見ることができる。気になったのは、廃仏毀釈の運動で傷つけられたものか、顔や手の無い仏像が何体かあっ たことだ。

 コーナーをどんどん進んでいくと、途中で思わぬ物が視界に飛び込んできた。なんと、田村麻呂将軍所用の大刀と伝えられる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』の刀身である。残念ながら黒漆大刀拵はなかったが、切刃造りの直刀をまじまじと見ることができた。刀身はボロボロで痛々しいが、帽子が見てとれた のは嬉しかった。

 もうひとつ嬉しかったのは、企画展を後にしてから、一応常設展も覗いてみたのだが、こちらに刀剣類(刀掛一架、具足三領)が何点か展示されていた。

 ・脇指 奉献巨刀一腰 宮城郡仙䑓郭
     東照宮御寶前
     明暦元年四月十七日
 (ウラ)武州江城住人冨田大和守安定作之
     到當所仙䑓依奉寄進之弟子安幸安家助焉
     當所人山野加右衛門尉定兵之模様長短大小   56.6㎝ 附金梨地葵紋拵

 ・金梨地竹に雀九曜紋刀掛

 ・黒漆五枚胴具足(政宗公所用)
 ・黒漆鳩胸五枚胴具足(宗村公所用)
 ・黒漆五枚胴具足(綱村公所用)

 安定の大脇差は弟子の『安幸』『安家』との合作で、忠宗公が家康の命日に仙台東照宮へ奉納したもの。


 せっかく一関まで行っても、一関市博物館での見学で時間が無くなり、あとは帰宅というのが常だが、この次は平泉を訪れたいと思う。他にも岩手で行ってみたい所が沢山ある。
 今回は純粋に奥州平泉の宗教文化を見に来たのだが、思いがけず本物の黒漆剣を見ることができて本当によかった。

2008年11月15日土曜日

上山城から上杉神社へ

 Aさんに『刀匠 神林恒平展』のパンフレットを頂く。興味はあるが、果たして気軽に車で出かけられる所なのだろうか…?
 会場は山形の上山だそうで、上山といえば競馬場と温泉がパッと頭に浮かぶが、山形のどの辺かわからない。早速ネットで調べてみたところ、山形市の少し南で、距離にして大体90キロ位。大きな道を行けば然程難しくないようなので、行ってみることにする。

 朝10時に家を出発し、先ずは国包屋敷があった立町小学校前の仙台西道路から、愛子バイパス、作並街道と48号線を只管進む。空いても混んでもなく、ス ピードのあまり出ない道路状況で、紅葉を楽しみながらのんびりと行く。やがて開けてきたなと思ったらそこはOさんの故郷天童市。丁字路にぶつかった所で左 折し、13号線を南下する。そして簡単に上山市まで入ることが出来たのだが、上山城に到着するまでが大変だった。詳しい案内があまり無く、随分迷ってし まった。
 漸く『上山城』に到着し、先ずは近くにある月岡神社にお参りし、次に月岡公園から辺を眺める。
 上山城は4階建てで、1~3階が展示場、4階は展望台となっている。1階の第一展示場から始まり、エレベータで一気に4階の展望台へ。城から眺める上山 の風景を写真に撮りたかったが、カメラを持ってくるのを忘れてしまった。あとは階段を降りながら、3階の第二展示場、2階の第三展示場と上山の歴史を順に 追っていく。一階に戻り、最後は特別展示室の『刀匠 神林恒平展』である。今回の展示会は『山形県指定無形文化財保持者認定』を記念してのものらしい。先ずは氏の師匠である『宮入行平』の作品一口に始まり、 神林恒平氏の29口、計30口が三方と中央のショーケースに展示されていた。

・脇指 宮入行平作(裏)昭和五十二年八月日
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十二年二月日
・刀 三省吾身上林恒平作(裏)昭和己未年春吉祥
・刀 以山形城古鉄長谷堂住人恒平作(裏)平成十年十一月吉日
・短刀 恒平作(裏)平成十八年三月日
・短刀 恒平作(裏)平成十一年五月日
・刀 長谷堂住人上林恒平作(裏)平成六戌年春吉日
・刀 長谷堂住人恒平作(裏)平成七年春吉日
・脇指 恒平彫同作(裏)平成十一年五月日
・脇指 恒平作(裏)平成十二年春
・刀 長谷堂住人恒平作(裏)平成十三年八月吉日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十七年八月日
・脇指 於霞城恒平作(裏)守護己諒平成十二年十一月廿二日
・短刀 備州長船住景光(棟)学景光恒平作(裏)元亨三年三月日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十八年三月日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十九年二月日
・太刀 長谷堂住恒平作(裏)平成廿戌子天六月十七吉日
・刀 長谷堂住人上林恒平作(裏)平成十九年八月日
・脇指 恒平彫同作(裏)應揚妻家需平成十六年三月日
・脇指 恒平彫同作(棟)平成十七年五月吉日(裏)(個人名)種徳百年計
・太刀 於長谷堂住恒巌作(裏)平成十七年三月日

・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十二年月二日
・短刀 (個人名)恒平作(裏)仙寿之平成十二二年十月日
・短刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十五年正月仙寿之
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十六年月弥生吉日
・短刀
・短刀 守護(個人名)恒平作(裏)平成十八年三月日

 城を出ると、時間はまだ午後1時前。帰るには少し早いので、米沢の『上杉神社』へ行ってみることにする。上杉神社には上杉謙信公、二代景勝公、直江兼続 公、十代鷹山公ら縁の品々が収蔵、展示されている『稽照殿』がある。『直江兼続』といえば、来年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公である。
 13号線を南下し、米沢市内には入れたが、肝心の上杉神社に辿り着くのに難儀した。神社は観光客で賑わっており、七五三の親子連れも目立っていた。社殿にお参りし、辺を散策した後、『稽照殿』へ。

・革製金箔置烏帽子形兜(伝謙信公所用)
・禡祭の剣
・色々威腹巻(謙信公所用)
・紫糸威伊予札五枚胴具足(景勝公所用) 
・勝色威胴具足(謙信公所用)
・紫糸威五枚胴具足
・紫糸威二枚胴具足(鷹山公所用)
・金小札浅葱糸威二枚胴具足(直江兼続所用)

 『色々威腹巻』の兜の前立は飯縄明神像が飾られており、謙信公の飯縄権現信仰を窺わせる。『飯縄』は『飯綱』とも書くそうで、刀鍛冶に『綱』の字がみられるのは宗教的なものからだろうか。備前には『安縄』という鍛冶もいた。どうも刀鍛冶と狐は無縁ではないのかもしれない。『紫糸威伊予札五枚胴具足』の兜の前立には雲上の日輪が象られており、その黄金の中に『摩利支尊天』、『毘沙門天王』、『日天大勝金剛』の神名を鋲で留めてあるそうだ。

・長巻 無銘 伝片山一文字 95.7㎝ 4.5㎝
・太刀 國宗(附)戒杖刀 78.2㎝ 5.4㎝
・大太刀 無銘 伝元重 110.3㎝ 4.9㎝

 無銘の長巻『伝片山一文字』は鎬造、庵棟、板目肌、小丁字。無銘の大太刀『伝元重』は鎬造、庵棟、板目肌、直刃調、丁字乱れ。
 そういえば『刀匠 神林恒平展』に『短刀(備州長船住景光 元亨三年三月日)』の写しがあったが、本物は謙信公の所用で、現在は『埼玉県立歴史と民俗の博物館』にあるそうだ。表に『秩父大菩薩』、裏に観音を表す梵字が彫られており、『黒漆小さ刀』の外装が附く。個人蔵で『岡山県立博物館』に謙信・景勝公所用の『号 山鳥毛』の太刀が寄託されているらしく、どちらも機会があれば見てみたい。

 すぐ側にある『米沢市上杉博物館』にも寄りたかったが、帰りは仙台までの距離113キロ走らなければならないので、今回は諦めることにする。次回は米沢をメインに、特別展でも狙って来てみよう。

2008年11月1日土曜日

東北歴史博物館『塩竈・松島 その景観と信仰』

 塩竃神社博物館で頂戴したフライヤーで『東北歴史博物館』の特別展『塩竈・松島 その景観と信仰』のことを知る。
 詳しいことが知りたくなり、サイトを見てみると、展示資料項目の中に『伊達家歴代藩主奉納太刀ならびに糸巻拵』が有り、俄然気になりだす。必ず展示されているとは限らないが、他の展示物も見てみたいので、東北歴史博物館へ。

 会場に入ると、先ずは『塩竈・松島の景観』というコーナーで『不動三尊像(五大堂御前立仏)』が出迎える。『不動明王二童子像』ともいい、瑞巌寺の秘仏 だそうだ。不動明王立像が矜羯羅童子と制多迦童子を両脇に従えた三尊で、このスタイルが多いようだ。童子は不動明王の眷属で他にも6人が居り、不動八大童 子という。機会があれ見てみたいものだ。他には『木造神使白鹿像』、『木造狛犬像』、『軍旗 一宮塩竈大明神』、『鹽竈神社縁起追考』などの巻子、屏風、棟札が有り、その後に待ってましたの刀剣類が数口展示されていた。

・太刀 来國光
・太刀 包蔵
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 國次

・金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵

 来国光はやはり、こちらへ貸出中だったようだ。雲生も展示資料として予定されているようなので、期間中に他の太刀も含めて入替があるかもしれない。
 七代藩主重村公が宝暦八年(1758)七月十日に太刀を奉納した際、鍛刀を担当したのは『永茂・国次・包蔵』の三家で、もしかするとこの時の三口が今回展示されているのかもしれない。照明が暗く、刃文が確認出来る程度で、鍛えを見ることは出来なかった。
 『金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵』は来国光の拵で、伊達家の家紋『竹に雀紋』と菊紋をあしらっている。『菊紋糸巻太刀拵』は見なれた金梨地に紺色の糸と、もう一口は黄金色ではなく赤の金梨地に萌葱色の糸。


 この後も古文書、絵画、板碑、能面、陶磁器など様々な展示資料が続き、古の塩釜・松島を堪能することが出来た。会場(特別展示室)を後にすると、すぐ向 かいに総合展示室というのがあるので入ってみる。どうやら、仙台市博物館でいう常設展のようなものらしい。東北地方の歴史を時代ごとに区切り、展示資料と ともに追って行く。
 そんな中、蝦夷平定の頃に使われいた武器類が特集されたコーナーがあった。坂上田村麻呂が佩用したとされる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』、『蕨手刀(二戸市堀野遺跡)』『方頭大刀』、『圭頭大刀の柄頭』など何れも複製品であるが、これらを見ていると直刀から湾刀へ移行について考え ずにはいられない。
 日本刀が何時、何処で、誰によって完成されたかは未だはっきりわかっていない。私は奥州鍛冶が重要な鍵を握っているのは間違いないと思っている。蝦夷の 蕨手刀を除いては『直刀』が一般的だったのが、蝦夷平定後100年以上経ってから『毛抜形太刀』が現れてくる。蝦夷の鍛冶が俘囚として他の地域に移ってい き、彼らの技術が伝播していったのではないだろうか。
 おっと今度は久し振りに一関へ行きたくなってきた。

2008年10月20日月曜日

塩竃神社博物館 特別展『塩竈神社と伊達家の信仰』

 宮城では現在、『美味し国伊達な旅 - 仙台・宮城デスティネーションキャンペーン - 』を展開している。仙台市博物館の企画展『最後の戦国武将 伊達政宗』もそうなのだが、塩竃神社博物館ではキャンペーンと連動して特別展『塩竈神社と伊達家の信仰』を開催している。
  当然、企画向けの展示品が大幅にスペースを占めるだろうから、もしかすると刀剣類は肩身の狭い思いをしてるのかもしれない。最悪、今回は出番無しとか…。 しかし、その思惑は良い方へ外れた。確かに刀剣関係のスペースは狭くなっていたが、『奉納太刀』ということで太刀と外装が充実していたのだ。
 先ず、雲生とそれに付属する黒漆太刀拵があり、続いて歴代の仙台藩主が奉納した太刀八口、糸巻太刀拵が四口展示されていた。雲生と外装が飾られていたア クリル製の展示棚は、全部で四口が展示可能で、二口分が空いていた。多分、來国光と外装が展示されるのだろうが、そこにはなかった。雲生と入替えたり、は たまた同時に展示されることは有るのだろうか?

 伊達家お抱え刀工の八家(余目・大友・熊谷・田代・本郷・阿部・庄司・木村)の鍛刀した奉納太刀が一口ずつ展示されており、それぞれ時代は違えども一同に揃うと壮観である。

・太刀 安倫(四代綱村公奉納)
・太刀 家定(五代吉村公奉納)
・太刀 包吉(六代宗村公奉納)
・太刀 包蔵(六代宗村公奉納)
・太刀 兼次(七代重村公奉納)
・太刀 永茂(十一代斉義公奉納)
・太刀 國包(十二代斉邦公奉納)
・太刀 國次(十三代慶邦公奉納)

 『奉納太刀』は四代綱村が藩主となって来国光を奉納したのが始まりで、別宮・左宮・右宮にそれぞれ一口ずつ奉納するようになったのは、五代吉村からだそうだ。
 それにしても意外というか残念なのは、国包一門が作った奉納太刀の数の少なさだ。太刀の奉納は、計12回で各回三口ずつ。初めて下命があったのは9回目 の年で、十一代国包が一口。それから11回目と12回目の年に十二代国包が一口ずつ。奉納太刀三十九口のうち、国包一門が緞刀したのは計三口のみ。原因 は、奉納時期の国包家当主が何れも若く、任されるに相応しくなかったからのようだ。タイミングが悪かったということか。また、五代目から十代目まで早世す る者が多く、刀鍛冶としてだけでなく本郷家そのものが絶えてしまう危機に幾度となくおそわれた。因に十一代と十二代は婿入りで(十二代は十一代の実子とい う説も)、初代とは赤の他人である。それでも嫁はどちらも本郷家の血縁者なので、幸い遺伝子は絶えていないようである。

 その隣には糸巻太刀拵がこれまた四口一緒に展示されている。いずれも紺色の糸で、一口だけ萌葱色。更に細かく見ればそれぞれ意匠が違う。どの拵にどの太 刀が収まるのかわからないが、各代仙台藩主によって奉納された太刀は計三十九口(内四口は現存せず)で、当然太刀拵もその分だけ奉納されたことだろう。三 十五口の太刀と拵が一同に展示されたら、さぞ壮観だろう。

 神道分野で一番興味深かったのは『鹽竈神社縁起』。創建以来、塩竃神社の祭神の名は明らかにされておらず、四代藩主綱村公が家臣に命じて神社に関する調査させた。その成果をもとに吉田兼見により『鹽竈神社縁起』が編まれたそうだ。

 鹽竈神社縁起
 陸奥國一宮正一位鹽竈大明神三社
 在宮城郡多賀國府民艮去国府城十八町許
 左宮 武甕槌命
 右宮 經津主命
 別宮 岐神
 (以下略)


 今日は見学に来て本当に良かった。刀剣類も思いのほか良かったし、神道分野の貴重な資料を見ることが出来た。

 帰宅してから受付で頂いた資料やパンフレットに目を通していて、今回の特別展は『東北歴史博物館』、『瑞巌寺』との合同開催だということを知った。東北歴史 博物館のサイトを覗いてみると、展示資料の項目に『太刀(銘 来国光)』、『太刀(銘 雲生)』、『黒漆太刀拵(雲生太刀拵)』とある。塩竃神社博物館に來国光が無かったのは、東北歴史博物館に貸し出していたからなのか?それなら、今日来国 光が展示されていなかったのは納得出来る。更に『伊達家歴代藩主奉納太刀ならびに糸巻拵』というのを見つけ、期待がふくらんでしまう。詳細は全くわからな いが、取り敢えず行ってみようか?

2008年9月20日土曜日

『最後の戦国武将 伊達政宗』展

 塩竃神社博物館に行くと、何故か次ぎに行きたくなるのが『仙台市博物館』。現在『最後の戦国武将 伊達政宗』展が開催されている
  今回、仙台市博物館に足を向けたのは、刀剣と糸巻太刀拵、そして現在開催されている企画展『最後の戦国武将 伊達政宗』が目的。刀に関してはあまり期待出来ないが、糸巻太刀拵は常設展示されているはずだし、企画展の面白さは鉄板だと思う。何も感動が得られないわ けは無いので、いざ入館。

 …残念ながら、刀剣類は一口も展示されていなかった。正直がっかりしたが、気を取り直して他の展示物を楽しむことにする。
 常設展示では、先ず博物館の目玉の一つである『金梨子地葵紋桐紋糸巻太刀拵』をじっくりと見る。もったいないことに今までサラッとしか見ていなかった。 傷みが激しいため新しく拵を作り、オリジナルから漆を剥がし移植したそうだ。糸巻太刀拵は四角の透明ケースで展示されているので、正規の見方ではないが四 方八方から見ることが出来た。丁度、糸巻太刀拵の裏には柳生宗矩が政宗へ宛てて送った書状が展示されていた。内容はといえば、参勤交代で江戸へ着いた政宗 に、宗矩がお茶のお誘いをしたというもの。一体どんな話をするためだったのだろうか…?

 さて、企画展だが、六つのスペースに分けて政宗所縁の品々が展示されており、エピローグと題された初っ端が特に良かった。政宗公所用の『黒漆五枚胴具 足』が『白地赤日の丸旗』をバックに飾られていた。前回は五~六領の具足が展示されていたのだが、一領だけでしかも日の丸の前というのが逆に映える。ス ター・ウォーズのダース・ベイダーが冠るマスクのモデルとなったという『六十二間筋兜』。吹返には梅紋を透かしており、私が鍔で最も好きなデザインであ る。前立の弦月がまるで腰反りの太刀にも見える。同じスペースの『白絹宿地雪薄紋単衣』と『納戸地緞子雲文袴』(二領とも10月10日までの展示)も素晴 しい。
 他には企画展示室に

・紫糸威胴丸(伝伊達政宗所用)
・銀伊予白糸威胴丸具足
・鉄錆地五枚胴(伝鈴木元信所用)
・黒漆五枚胴具足(片倉重綱所用)

 の五領が展示されていた。『黒漆五枚胴具足』と『銀伊予白糸威胴丸具足』は360°どこからでも好きに見られるのが有難い。
 今回、最も印象に残ったのは、濱田景隆所用の『浅葱麻地小紋染鎧下着』だった。これは濱田景隆が宮崎城攻めで討死した時に着用していた鎧下着で、血痕や生地の破れが戦の壮絶さを物語っている。破れた箇所に受けたのは刃物か銃弾か。

 武具や衣類の他、書状、絵画など仙台公縁の興味深い品々が多数展示されており、一度と云わず何度でも会場に足を運ぶ価値があると思う。10月11日から『黒漆五枚胴具足』二領や『山形文様陣羽織』、『黒羅背板地胴服』の四点が追加展示されるそうだ。こちらも楽しみ。
 展示物を見ている間、或いはその後、凡そ三百数十年前の仙台にロマンを思い馳せるのは必至だと思う。展示物を一通り見学し、伊達政宗のスケールに触れた気になり、仙台公の入神後に国包が入道した気持ちが少しわかったような気がした。