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2012年1月3日火曜日

『明日への煌めき - 宮城の刀匠 四人展 -』

 新年を迎え、今年も志波彦神社と塩竃神社へ初詣に行く。

 去年の震災で神社は大きな被害を免れたようだが、博物館は閉館状態がしばらく続いていた。震災後に何度か神社を訪れたが、いつ行っても博物館は休館したま まで、一向に再開する兆しが見られない。一体いつになったら再開されるのかと待ちわびていたが、サイトでアナウンスされることもなく、半年以上が過ぎて いった。例年なら、正月は新春特別展が催されているのだが、営業しているかどうかも怪しい。


 あと二月ほどで震災から一年が経とうとしている。震災直後に仙塩街道を何も知らずに走ったときは、まるで戦場かと見紛うばかりの有様だったが、今はかな り元の風景に戻りつつある。それでも被災者にしかわからない爪痕はそこかしこに残されているのだろう。泥だらけの道路や車両、瓦礫、そして憔悴しきった人 達。あの時の様子は今でも忘れることができない。

 塩釜駅を過ぎた先の下り坂から渋滞していたが、例年ほどでは無いような気がする。震災や不況の影響だろうか。運良く第一駐車場に駐めることができた。
 気になってしょうがないので、参拝前に博物館へ行ってみると、嬉しいことに博物館が営業されていた。これで安心してお詣りができる。




 お詣りを済ませ、いよいよ博物館へ。博物館が再開されているだけでも嬉しかったが、恒例の新春特別展も開催されているようだ。入場料はわずか100円で、高校生以下は無料だそうだ。
 今年は『明日への煌めき - 宮城の刀匠 四人展 -』と銘打った、宮城の現代刀匠四人の企画展らしい。宮城昭守氏の作品は『白石城歴史探訪ミュージアム』で見たことがあるが、典真氏のものは未見である。 そいえば、ローカル番組で白石市の日本刀鍛錬所が紹介されたときに、お二人が出演されていた。早坂信正氏は以前、『切込焼記念館』での個展を見る機会が あったが、他では見たことがない。


・短刀 昭守(ウラ)贈青木家重代娘求利郎 平成十一年八月日
・短刀 昭守作(ウラ)平成二十一年八月日
・短刀 典真作(ウラ)平成八年二月日
・短刀 白石住典真(ウラ)為大樹祖父卓 平成九年二月日
・短刀 法華三郎信房(ウラ)平成拾寅年二月日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十年五月五日
・短刀 信正作(ウラ)平成二十二年吉春
・短刀 悠貴 典真作(ウラ)平成十九年九月二十日
・脇指 白石住典真(ウラ)平成廿一年八月日

・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成七年五月日
・刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿寿龍集戊子年二月日
・刀 早坂信正作(ウラ)平成二十一年二月日
・太刀 宮城典真作(ウラ)平成二十一年八月吉日
・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成六年二月吉日
・脇指 早坂信正(ウラ)平成十年二月日
・太刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿禄甲申年二月日
・刀 還暦記念 宮城典真作(ウラ)平成二十三年二月一日
・刀 法華三郎信房(ウラ)平成寿戊寅年八月日
・脇指 法華三郎信房(ウラ)平成寿戊寅年八月日
・脇指 色麻住信正(ウラ)御神刀
・脇指 宮城昭守作之(ウラ)贈青木家重代家督求利郎 平成十三年二月日
・太刀 白石住典真(ウラ)平成十年三月日
・横刀 法華三郎信房 昭和甲子文化ノ日(ウラ)伊勢神宮御神宝御太刀 影打
・太刀 白石住宮城典真作(ウラ)平成十八年三月日
・太刀 宮城昭守作之(ウラ)平成二年二月日 還暦記念 日本美術刀剣保存協会いわき支部長鈴木喬二
・太刀 法華三郎信房(ウラ)平成癸酉年春
・脇指 法華三郎信房(ウラ)平成癸酉二月日

・太刀 奉納宮城昭守典真謹作(ウラ)平成二十三年六月十一日
・太刀 奉納九拝 法華三郎信房(花押)(ウラ)宮城県知事山本壮一郎打之
・刀 奉納九拝 法華三郎信次(ウラ)昭和四十九年二月日押木塩竃宮司打之
・刀 昭和六十一年吉春

・太刀 来國光


 以下、博物館内の紹介パネルより。
 「宮城昭守(みやぎあきもり) 本名・宮城真一。宮城県白石市の刀匠・宮城守国の嫡子として大正十四年に生まれる。昭和十五年、栗原昭秀に入門し日本刀 鍛錬伝習所において作刀を学ぶ。日本刀展覧会金賞、陸軍軍刀展覧会会長賞など高い評価を得る。戦後、やむ無く作刀を中断するも、昭和四十五年に作刀承認を 受けて製作を再開、以後コンクール等において入賞・入選多数。日本刀鍛錬技術保持者として、昭和五十八年に白石市無形文化財、平成十六年に宮城県無形文化 財の指定を受ける。白石市在住。」

 「法華三郎信房(ほっけさぶろうのぶふさ) 本名・高橋大喜。八代目・法華三郎信房(本名・高橋昇)の嫡子として昭和十四年に松山町に生まれる。父につ いて作刀を学び、昭和四十一年に作刀承認を受ける。以後、信次と銘して作刀し、コンクール等において入賞・入選を重ねる。平成十四年、九代目・法華三郎信 房を襲名。八代信房が復元した大和伝保昌派の作風を継承するとともに、さらなる追求を続けている。」

 「早坂信正(はやさかのぶまさ) 本名・早坂政義。昭和三十三年生まれ。昭和五十一年に八代目・法華三郎信房に入門して作刀を学び、昭和五十九年に作刀承認を受ける。昭和六十二年に独立、以後コンクール等において受賞・入選多数。加美郡色麻町在住。」

 「宮城典真(みやぎのりざね) 本名・宮城正年。昭和三十五年、刀匠・宮城昭守の嫡男として白石市に生まれる。昭和五十五年より父について作刀を修行し、昭和六十年に作刀承認を受ける。以後コンクール等において受賞・入選多数。白石市在住。」


 宮城親子も上手だが、早坂さんの板目と杢目混じりの作風が一番好みだった。それにしても、縦置きの短刀は見づらい…。
 「色麻住信正 御神刀」は南三陸町の戸倉神社に奉納された脇指なのだが、東日本大震災の際に神社が津波に流されこの奉納刀も流失してしまったという。幸い発見されたが拵 は泥と砂にまみれ、残念ながら刀身も錆に覆われていたそうだ。それを作者の早坂さんが錆を取り除いた状態で現在博物館に特別に展示されている。初めて見た 時はなんだかノッペリとした印象だったが、そんな悲しい事情があったのだ…。
 そのお隣の『法華三郎信房 昭和甲子文化ノ日 伊勢神宮御神宝御太刀 影打』は珍しいことに横刀で、大船渡三陸町『天照御祖神社』へ伊勢神宮式年遷宮の際に宝刀として鉾と共に製作されたそうだ。『影打』とは、「実際に神宮御 神宝として納められた作品に対して同時に製作された作品のことを指しています。」だそうだ。数振打った中で特に出来の良いものを選んで奉納刀とし、残りの ことを『影打』というのだろう。
 『奉納宮城昭守典真謹作 平成二十三年六月十一日』は塩竃神社の式年遷宮を記念して製作されたものだが、被災地復興への強い願いも込めて神前に捧げられたという。
 現代刀匠の目指すものがこの一口の中に凝縮されているとし、また「新しい年が「来」たりて、私たちの「国」が輝かしく「光」ように願って」との祈りも含め、最後は来国光で締め括られていた。


東参道方面


志波彦神社

塩釜湾の空。なんだか雲が刃中の働きのように見える。


 今回のテーマを知ったとき、正直「現代刀か…」と少々期待外れの感もあったが、実際に作品を見て色々考えさせられた。未曾有の天災に見舞われて様々な困 難に喘いでいるこんな時世だからこそ、『今を生きる』そして地元宮城の現代刀匠の作が展示されていることに大きな意義があるように感じられた。地元の刀匠 の作品を見る機会はあまり多くはないので、こういう場がもっと増えればと思う。未来へ向かって一歩一歩進んでいくわけだが、先人達の遺物から色々なことを 学び、そして大切に守っていかねばならない。
 ニュースでしか見たことがないが、機会があれば一度『打ち初め』を見学してみたいものだ。

2011年5月1日日曜日

震災後に訪れる一関


 東北関東大震災以降、久しぶりに一関へ。

 東北関東大震災後に一関を訪れるのは今日が初めて。ずいぶんと久しぶりな気がする。宮城もそうだが、内陸部の被災状況はそれほど多く伝えられないので、 どんな様子なのかとても気になっていた。一関市博物館のサイトを見る限り、収蔵品や建物に大きな被害は受けていないようで安心したが、観音山は果たしてど うだろうか。


 先ず厳美渓へ行ってみる。震災の影響でガラガラなのではないかと思っていたが、まずまずの賑わいだった。今日は雨 のせいか、水量が多いようだ。『岩手・宮城内陸地震』の後に訪れたときは、ずいぶんと水嵩が減っていたのが印象的だった。渓流を眺めていると、名物『かっこうだんご』がロープを伝っていく様子が見られた。こういった何気ない一コマが、経済的や心情的な盛り上がりに繋がっていくように思える。


 さて次は一関市博物館。被災地では被害を受けて休館を余儀なくされている博物館や美術館がある。そんな中、こうして見学に訪れることが出来るのは有難いことだ。


・刀 (額銘) 建武寶壽
・太刀 寶壽
・太刀 寶壽
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・短刀 寶壽
・刀 奥州仙䑓住國包
・刀 一関士宗明作(ウラ)応西尾守房需
・脇指 明弘
・短刀 玉英
・太刀 行光
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・刀 万歳藤田近江守藤原継平(ウラ)天明三癸卯年八月日
・刀 備前介藤原宗次(ウラ)文久四年二月日

・先込式大筒 宗明(ウラ)(金象嵌銘)雲月
・火縄銃 一関住源充正造之応需上鍛
・傍装雷火銃 臣久保田宗明充正作 安政五年二月吉日

 
 もし建物や刀が被害を受けていれば、こうして当たり前のように見学することは出来なかったかもしれない。今こうして刀を眺められることに感謝せずにはいられない。
 今回面白かったのは、宗明の銃三挺が展示されていたことだ。宗明がもともと鉄砲鍛冶だったことは知っていたが、実物を見るのは初めて。


  最後は観音山へ向かう。バイパスはいつもと変わりなかったが、一関市内の道路は端などに隆起や陥没が見られ、ここにも震災の爪痕が残されていることを実感 した。そういった道は気をつけて通ればなんてこと無いのだが、困ったことにいつもの道(14号線)が通行止めとなっており、大きく迂回する羽目になってしまった。知らない道を進んだため、かなり迷ってしまい、相当時間を無駄にしてしまった。

 観音山は立入禁止というような事態にはなってお らず、また儛草神社もこれといって被害を受けてはいないようで一安心。ただ、『舞草神社西遺跡』の標柱が倒れてしまったようで、木に括り付けられていた。  地震の影響を受けたものか不明だが、『舞草小戸山遺跡』の標識の傾きが一層ひどくなったような気がする…。

2011年3月13日日曜日

薬師堂、志波彦・鹽竃神社(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災三日目)

 震災三日目。昨日は新寺通りの寺を十宇ばかり見てきたが、どの寺も石仏や石灯籠に被害を受けていた。今日は『陸奥国分寺薬師堂』を見に行ってみることにする。

 薬師堂北方面から向かい、先ず公園内の準胝観音堂を見てみたが、やはり石仏が数体倒れていた。何れも損壊はしてはおらず、お堂も無事だった。

 次は薬師堂へ。西側から敷地に入ると、社務所前の倒れた石灯籠が目に入る。





 山門の方まで目をやると、参道脇の石灯籠が全て倒れていることがわかる。




 社殿も被害を受けたようで、窓の木枠が外れかかっていた。中の状況はわからないが、この程度で済んだのは幸いで、宮大工と神社建築技術の賜というべきだろうか。
 白山神社は入り口に紐が張られており、境内に侵入できなくなっていた。敷地の外から見る限り、お堂は無事のようだが、石灯籠が倒れているようだった。

 薬師堂は大きな被害を受けずに済んだが、志波彦神社と塩竈神社果たして無事なのだろうか。ラジオから得た情報によると、海の側は甚大な被害を受けたらし い。現在、バイパスの西側はどんな状況なのだろう。テレビもネットも使えないのでまとまった情報や映像が全く得られない。どうしても気になるので、危険な ら無理せず引き返そうと決め、塩竈へ向かう。 


 震災後に車を運転するのは、今日が初めてだ。信号が止まったままなので、そばの大通りに出るだけでもたいへんだ。最初の交差点で親切な方が路を譲ってく れたので、すぐに右折することができた。大きな通りに出てしまえば、あとは流れにそって行くだけだ。緊急事態なので、誰もが慎重な運転を心掛けているよう だ。しかし、扇町一丁目の交差点で、事故現場に遭遇してしまった。すでに警察官が実況見分をしているようだった。道路に男性が一人横たわっている。

 いつものように仙塩街道を走っていると、中野栄駅を過ぎた辺りから通行規制をしているようだった。ここから先は進めないのかと思いきや、片側交互通行 だった。前の車について行くが、極端にスピードが遅くなる。まさかここまで津波が来るわけはないし、道路に大きなヒビでも走ったのだろうか。しばらくすれ ば、規制区間も終わるだろうと高を括っていたが、どうも様子がおかしい。やがて信じられない光景が目に飛び込んできた。路は泥だらけで、沢山の車輌が車道 の両脇に止まっている。どの車もまるでスクラップ場の廃車のようだ。その横を徒歩や自転車で往来する人や、忙しそうに作業する人。普段から交通量は多い が、人通りが多いイメージは無い。一体何があったのだろう。戦争でもあったのかと思わせる、非現実的な風景。仙台から僅か数キロの多賀城市内とは思えな い。一体何があったのだろう…。徐行は続き、通行規制区域内では、家屋、車体などの撤去作業が行われていた。緊急の用があるわけでもないのにこのまま進ん でいいものかと迷ったが、この惨状を目の当たりにすると余計に神社が心配になってくる。
 後でわかったのだが、津波の影響で砂押川が氾濫し、周辺の地域が川の水に飲み込まれてしまったそうだ。道端の車は、その時流されたものだったのだ。車体 を流すほどの激流とはどれほど凄まじいのだろうか。想像もつかない。情報源が乏しいとはいえ、今まで多賀城がこんな悲惨な状態になっていたなんて、全く知 らなかった。
 
 念仏橋の辺りからスピードが出せるようになり、塩竈神社に無事辿り着くことが出来た。
 この非常事態に神社を訪れる人など少ないと思っていたのだが、駐車場には沢山の車が駐車されていた。神頼みに来たのか、それとも無事を感謝しに来たのだ ろうか。ところが境内には人の姿は殆ど見られない。やはりこんな時に、神社を訪れる人などいないようだ。恐らく駐車場の車は、避難のために停められている のだろう。

 先ず志波彦神社へ向かうが、正門が閉まっていて中に入ることはできなかった。何か被害を受けたのだろうか。心配である。




 一方、塩竈神社は境内に入ることが出来、門前の灯籠が一基倒れている以外はこれといった損害は無さそうだった。それにしても、いつもは多くの参拝客が訪れる拝殿に、今は人っ子一人いない。日曜の日中にこの状況は、一生に一度あるか無いかの希有なものだ。


 塩竈神社が津波の被害を受けずに済んだのは、当然神社が山の上にあるからだが、どうも元々一森山に鎮座していたわけではないらしい。

 菊地山哉の説では、塩竈神社はそもそも『六所神社』であり、陸奥の六所も多賀城の傍にあったのだという。蝦夷征伐のために六所が始まり、六所神社は国府 祭を行うために必ず国府の傍にあり、国司が夷狄降伏の祭りを行っていたのではないかとみている。『余目氏旧記』の「しほがまの明神とあらはれて、大同元年 に宮城のこほりに立給ふ、当永正十一年まで七百九年に成給ふ、昔は当国諸郡に神領有。」の一文を引用して、大同元年(806年)に陸奥の六所明神は成立 し、「どうも和泉三郎の寄進とあるところを見ると、大体奥州の国府は秀衡がうつしたらしく見られるので、その時に塩竈神社も移したんだろうと思う。平安末です。」と述べている。『こほり』とは国府のことであろうか。

 塩竈神社の遷宮についての史料は無いが、『神祇志料』に「塩竈神社今宮城郡塩竈村千賀山にあり、昔は神竈社の地に在りしを、後今の地に遷せり。塩竈を以 て霊とす。今本社の南、祭殿是なり。」とあり、『利府町誌(P289)』は、「塩釜神社の社人二九家のうち一五家が加瀬村に居住し、これにかつて加瀬村に 居住し藩政初期塩釜に移転した二家、さらに塩釜神社の元禄造替後、古内村只州神社に移転した只州太夫鎌田家を加えれば社人三〇家のうち、一八家が加瀬村に 居住していたことになる。(略)当時、加瀬村から塩釜神社に通うには、曲折の多い狭隘な急坂を越えなければならず、山犬や狼の危険もあったに相違いない。 それなのに、どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住したのだろうか。とくに塩釜地主の神といわれる岐神、すなわち塩土老翁神を祭る別宮の一の祢 宜、二の祢宜、若子がすべて加瀬村に居住していた。これは別宮が右左宮の後に出来たとも考えられるし、留守家分限帳さとの人数十七家のうち別宮分と後に加 えられた神官が加瀬に住んだとも考えられ塩釜神社三社の成立と関係あるかもしれない。」と塩竈神社の社人が加瀬村に多数住んでいたことを指摘している。

 塩竈神社に蝦夷政策が関係しているのは間違いないと思うが、一森山への遷宮については、この度の東北地方太平洋沖地震を経験したために、平安時代の自然災害が影響しているのではないかと思うようになってきた。
 天長七年(830)年正月に、隣の国出羽で地震があり、秋田城に被害をもたらした。承和四年(837)四月には、現在の鳴子温泉辺りで火山の爆発があっ たという。そして貞観十一年(869)五月に、陸奥国で大地震が発生した。この地震で多賀城は倒壊したそうで、津波が城下(多賀城のことと思われる)にま で押し寄せたという記録もある。六所神社が多賀城の傍にあったとすれば、地震か津波の被害を受けたかもしれない。立て直しが必要になったとしたら勿論だ が、たとえ大きな被害を受けなかったしても、何れ来るかもしれない大地震や津波に備えて、山の上へ遷宮するというのはあり得ることだと思う。因みに前々か ら、南宮明神が多賀城の西に位置しているのが不思議でならなかった。現在の位置まで流されたのであろうか。それとも津波の及ばない辺りに立て直したのだろ うか。余所の六所でも洪水で流され、お宮の位置が変わることがあったようだ。山哉曰く、総社は平安末頃に出来たといい、これが本当なら貞観までの被害は受 けていないことになる。


                     参考文献『東国の歴史と史跡/菊地山哉』『多賀城市史1 原始・古代・中世』

2011年3月12日土曜日

国包の墓の被害(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災二日目)

 震災二日目、一族の墓のことが気になるので、様子を見に行くことにする。


 昨日、神棚と仏壇を片付けたあと、近所の尼寺にある我が家の墓のことが気になりだした。墓場は一体どんな状況なのだろうか。かなりの強い揺れ(震度6)だったので、竿石の倒壊が心配だ…。

 外の様子も知りたかったので、昼食後に墓を見に行ってみることにした。
 震災後、最初の外出。信号が止まっていることに初めて気付く。

 尼寺に着いたものの、敷地内に立ち入ることは出来ず、墓の状態を確認することはできなかった。しかし、遠くから見る限りどの墓も無事のようだった。我が 家の墓は、祖父が早世した我が子の供養のために、東仙台の『大蓮寺』から三~四キロの道程を一人で運んだものなのだそうだ。宮城沖地震の際に倒れてしまい、傷を修正するために竿石がやや細くなってしまったそうだ。今回は無事で良かった。


 一安心し、その足で国包の墓がある善導寺へ行ってみることにする。
 新寺通りを目指しながら歩いていくと、いつもと変わらない風景があった。しかし、宮城野陸橋を歩いていて、視覚障害者用誘導ブロックとアスファルトの間 に長い亀裂が生じており、震災の爪痕を実感した。建物に関しては、大きく損壊しているものは見あたらなかったが、細かいヒビが入っていたり、タイルなど壁 の一部が落下しているものが幾つか見受けられた。

 ここまで大きな被害は無いようだったが、『道仁寺』の前に差し掛かって、目を疑った。正門が完全倒壊している。





 この他、通り沿いの寺は石仏や石灯籠などが軒並み倒壊していた。嫌な予感がする。


東秀院


林松院


林香院


 善導寺も例外ではなかった。よりにもよって、初代と五代目の墓が倒れていた。

 どうやら初代の墓石は前に倒れ、真下の香炉にぶつかって地面に転がったようだ。全面の法号『慧眼了真信男』の『慧』の字に白く長い筋が走っている。 『丰』の辺りに大きい傷が付いるが、これは以前からあったようだ。宮城沖地震の際に出来たものだろうか。香炉は今回の地震で欠けたのかわからないが、もし 宮城沖地震の時だとしたら、角がとれていたために、大きな傷が付かずに済んだのかもしれない。割れたり、大きく欠けなかったのは幸いだが、何だか顔に傷が ついたようで痛ましい。





 一方、五代目は真後ろにうつ伏せになって倒れている。墓石の後背に傷があり、左下の外柵が欠損しているので、大きな揺れのために斜め後ろに倒れ、外柵にぶつかり右横にうつ伏せになったのではないだろうか。倒れたのが土の上で良かった。





 その他、標識や記念碑などは一切無事である。しかし、隣の敷地の石仏などが無残にも転倒していた。





 『刀剣美術』の第83号(昭和38年9月10日)に日刀保の宮城県支部が『仙台国包の墓』という記事を寄せており、その中で「国包代々の没年、戒名については一部は誤り伝えられている向きも見受けられるが、火災のため焼失し、寺に過去帳も残されていない現在では墓標が唯一の手がかりなので、墓標に刻まれ ている文字をそのまま掲記してみると次の通りである。なお碑面は風化のため文字の判読が困難なものもあり、特に五代、八代等は、石質の関係もあって幾許もなく文字も消滅することが予想されるので、なんらかの方法で後世に記録を残す必要が痛感される次第である。」と碑面の状態について危惧している。拓本を取っておくべきとは安易な発想だろうか。今なら、3Dスキャナーなどのデジタル技術でデータをとることも可能だろう。五代目はうつ伏せの状態なので、碑面がどのようになっているのか、今の時点では残念ながら確認できない。

2011年1月3日月曜日

『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』

 今年の塩竈神社博物館の新春特別展は、『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』だそうである。

例年なら初詣は三が日を避けるのだが、今年は気紛れで正月の三日に参拝へ出かける。今年の新春特別展は、奉納太刀の特集のようで楽しみである。
   しかし、やはり混んでいた。途中まで順調だったが、3号線と35号線の交差点手前から急に混み出し、遅々として進まない。何度も引き返そうと思ったが、時 間が半端で他に行ける所もない。渋滞にウンザリしていると、パトカーがアナウンスを始めた。どうやら駐車場まで、一時間待ちらしい。駐禁解除区域が設けら れているそうなので、そこに車を停める。神社まで坂道を歩くことになったが、然したる苦ではない。




  今回圧巻だったのは、一階の展示物の殆ど全てが太刀と拵だったことだ。なんと、現存する藩主奉納太刀三十五口全てが展示されている。以前から現存する奉納 太刀と拵を一通り見てみたいと思ったことがあったが、まさか本当に、それもこれ程早く実現するとは夢にも思わなかった。

・太刀 安倫
・太刀 家定
・太刀 重次
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 重勝
・太刀 家定
・太刀 来國光
・太刀 兼次
・太刀 源兼次
・太刀 包蔵
・太刀 包吉
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 兼次
・太刀 安倫
・太刀 永茂造
・太刀 兼次
・太刀 藤原國包
・太刀 騰雲子包光
・太刀 包倫作
・太刀 安倫
・太刀 騰雲子包光
・太刀 永茂
・太刀 田代秀太郎長俊(ウラ)文政十三年二月日
・太刀 藤原國包作
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 包蔵
・太刀 國次
・太刀 兼次
・太刀 國包(ウラ)天保十三歳八月日
・太刀 田代秀太郎藤原長俊造之(ウラ)天保十三年八月日
・太刀 國次(ウラ)天保十三年八月吉日

・別当法蓮寺記(安永三年頃)
・一宮秘蔵記(宝暦八年頃)
・鹽竈社寶物記(文久二年)
・一宮御寶庫御寶物録(安政四年)


  『一宮御宝庫御宝物録』の解説によると、寛政四年と文政十二年に宝蔵が盗難にあったという。現存しない『家定』、『包吉』、『安倫』、『国次』の四口は、 この何れかの時に盗まれたのだろうか。刀身が失われて残った糸巻太刀拵が、三口展示されていた。いつもなら拵だけでも何も気にせず見入るのだが、事情を知 ると複雑だ。

 メモをとりながら見学していると、隣にいた女性に「お好きなんですか?」と声をかけられる。突然のことに、「あ、はい…」 としか答えられなかった。気味悪がったのか気を使ったのかわからないが、会話はたったそれだけで終了。時間が迫っていてゆっくり話をしてる余裕はなかった ので、手短に終わって良かったのかもしれないが、なんだか居た堪れない気持ちになってしまった…。

 今回は時間があまりなく、思うように見学できなかったのが悔やまれる。期間中にまた来られればよいのだが。




 『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』には、奉納太刀の目録が記載されている。

 別当法蓮寺記
    御太刀之部
一 御太刀
 一 左宮安倫
 一 右宮家定
 一 別宮家定
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥入、結緒有、各三箱ニ入。
   右ハ 吉村君御家督御相續ニ付元祿十六年九月廿六日御奉納
       左宮家定
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家次
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥各三箱入、結緒有。
   右ハ 吉村君御入部以後、始而御参詣被遊候ニ付、寶永元年七月十日御奉納。
       左宮安倫
 一 御太刀 右宮家定
       別宮家定
   但御拵、右同斷、白鞘袋結緒等、一宇右同。寶永元年九月十日、右ハ御造替
    御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納。
       左宮重勝
 一 御太刀 右宮包吉
       別宮安倫
    但御拵各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右同斷ニ付、同年同月從 前太守綱村君御奉納。
       左宮包吉
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮兼次
    但御拵一宇箱之内外共ニ右同 各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右ハ 宗吉君御家督御相續ニ付、寛保三年九月二日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家定
    但御拵等、筥入迄前々 吉村君御奉納被遊候通。
    宗村君御入部始而被遊候上、延享元年七月十日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵、筥入 吉村君御奉納之通。
    右ハ 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納。
       左宮永茂
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵等、前々御奉納之通。
    右ハ 重村君御入部以後、始而御参詣、寶暦八年七月十日被遊奉納候事。
    右御太刀三振ハ毎年七月大祭禮ニ御用立申候
    但七月大祭禮ニ付御用立申候、右御太刀ハ 御當代様ヨリ御奉納被遊候内、
    新ヲ御用立、古ヲ指置申候舊例之事。


 『鹽竃社寶物記』
  一宮鹽竃社御寶庫御寶物記
    第壹番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵一宇金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入右者 吉村君御家督御相續ニ付元祿拾六年九月廿六日御奉納也
       別宮重次
 一 御太刀 左宮家定
       右宮包蔵
    但御拵金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入結緒有右者 吉村君御入部以後始而御参詣ニ付寶永元年七月十日御奉納
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵右同斷白鞘結緒共一宇右同斷寶永元年九月十日右者御造替御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮重勝
    但御拵各三箱ニ入内外共ニ右同斷 右同斷ニ付同年同月從 前太守綱村君御奉納
       別宮兼次
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮包蔵
    但御拵一宇箱之内外右同斷右者 宗吉君御家督御相續ニ付寛保三年九月二日御奉納

    第二番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮兼次
       右宮包蔵
    但御拵箱入迄前年 吉村君御奉納之通右者 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納

    第三番
       別宮國包 白鞘無之
 一 御太刀 左宮包倫
       右宮包光
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者文化十一年八月十一日 齊宗君始御参詣之節 御奉納也
       別宮安倫 身柄關金兩方共無之
 一 御太刀 左宮包倫 袋紐ノミニテ身無之
       右宮包光 袋坐金關金壹ツ無之
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者 齊宗君御家督御相續ニ付、文化九年三月十三日御奉納也、桐之白箱ニ入結緒在各三箱ニ入
       別宮
 一 御太刀 左宮
       右宮 作者脱落
    但御拵等前年御奉納之通右者 太守齊義君御入部以後初御参詣之節御奉納、文政三年七月十九日
    右御太刀者毎年七月大祭禮ニ御用以下文意不詳御當代御奉納之物納古用新
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包光
       右宮永茂
    但御拵同前文政三年七月十九日 齊義君御奉納内外前年之通 按恐愆尤
       別宮國包
 一 御太刀 左宮長俊
       右宮兼次
    但御拵一宇前年之通文政十二年二月廿六日 齊邦君御奉納

  『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』を見比べてみると幾つかの相違がある。宝永元年の別宮が『別当~』は家次なのに対し、『鹽竃~』は重次。『別当~』の 延暦元年の三口が『鹽竃~』では宝暦七年となっている。そして、『別当~』の宝暦七年の三口が『鹽竃~』には見あたらない。鹽竃神社博物館配布の資料と見 比べてみると、「宝永元年の別宮」は重次が正解で、『別当~』の家次は誤り。『鹽竃~』の宝暦七年は延暦元年の誤り。宝暦七年は『別当~』のが正しく、 『鹽竃~』の方が抜けている。

2010年7月18日日曜日

夏の観音山

 本日は一関へ。

 先ずは久しぶりに厳美渓へ。岩手・宮城内陸地震の後に訪れて以来だ。




 次は一関市博物館へ。

・太刀 舞草
・太刀 友安
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・脇指 寶壽
・刀 無銘(月山)
・太刀 山城大掾藤原國包
・刀 應沼田延道需文久元辛酉春 鍛之一関士源宗明
・刀 之一関士源宗明作應 藩士文之助森君需(ウラ)文久二年八月吉日 あらえみしたちもきらすハ武士のさけはくものの名をいかにせん
・脇指 明弘
・剣 無銘
・小太刀 無銘(藤島友重)
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 肥前國住藤原忠廣
・脇指 對馬守橘常光

 いつもは四方のケースの内、一方に刀と全く関わりのない物が展示されているのだが、今日は四方全てが刀で埋め尽くされていた。展示スペースの都合など 色々事情があるのだろうが、『舞草と刀剣』のコーナーなのだから、できれば刀剣や儛草に関わるもので統一していただきたい。


 定番になりつつなるが、博物館の次は儛草神社へ。そういえば、夏の観音山初めてである。



夏に訪れて、ようやく『あじさい東参道』の由来を知ることが出来た


黄金色もいいが、青々とした水田も美しい


 遺跡を一通り巡廻したかったが、草深く何処をどう進んでいいのか全くわからず、奥へ踏み入るのを断念した。参道へ戻る頃には蜘蛛の糸が貼り付き、腕には山蛭が這っていた。

2010年6月26日土曜日

塩竈神社博物館

 初詣以来、半年ぶりの『塩竈神社博物館』。

 前回は『新春特別展 仙台の刀工安倫』が開催されていたので、正月早々沢山の刀剣を見ることが出来た。しかし、今日は特に特別展が催されているわけではないので、「来国光か雲生が見られればいいや」と期待せずに塩竈神社へ向かう。
 博物館へ入館すると受付に誰も居なかったので、そのうち誰か来るだろうとしばらく入口で待つことにした。何気なくいつも刀剣類が展示されている辺りに目 をやると、通常より広めに展示スペースがとられていることに気付いた。否応にも期待が高まる。暫くすると学芸員が見えられたので、受付を済ませ目当ての コーナーへ真っ先に向かう。見学を始める前に、刀剣類が展示スペースがどれくらいか気になったので、入り口から死角になって見えない奥のスペースを見やる と、そこも殆ど刀剣で占められていた。正月の特別展とほぼ同じ展示面積である。

・太刀 来國光
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
    (裏)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・太刀 重勝
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 永茂
・太刀 田代秀太郎藤原長俊造之(裏)天保十三年八月日
・刀 仙臺住白龍子永繁(裏)明治元年十二月日
・太刀 藤原國包
・太刀 藤原國包作
・太刀 包吉
・太刀 兼次
・太刀 包蔵
・太刀 國次
・脇指 奉献納寶剣一振 塩竈大明神御廣前(裏)奥刕仙䑓住家定 元禄七年五月廿一日以南蛮鉄鍛之
・剣 奉納寶剣一振 家定 塩竈大明神御廣前(裏)元禄九年二月吉日 仙䑓住福田助左衛門
・太刀 家定
・太刀 家定
・太刀 安倫
・太刀 安倫
・太刀 安倫
・脇指 奉納鹽竈宮大明神御寶前 武江城下之住 山野氏久英
 (裏)本國常陸住人至半佰 肥後守橘吉次作之 於武列江戸鍛冶士精盡
・刀 月山金利

 いつもの入館料200円でこの刀剣数はかなりのお得感がある。大満足である。もしかして前回、学芸員の方に刀剣類のスペースを増やして欲しいと要望したのが聞き届けられたのであろうか。その代わり、急に2~5月の展示内容が気になってしまった…。
 館内で『刀の拵』という企画展の案内が目に入った。場所は『登米市歴史博物館』。拵が中心で刀身は展示されてなさそうだが、面白そうなので明日行ってみようか…?

2009年5月23日土曜日

塩釜神社博物館

 今日は約半年ぶりに『塩釜神社博物館』へ。
 
 ゴールデンウィークの刀剣見学は、質・量ともに大満足だったが、私には過食気味のコース内容であった。あれだけの量が果たして、きちんと栄養として体内に行渡ったのかどうか。それでも、一口でも多く見たいと思うのが人情というものである。卑しいだけか…。
 本日は、新しい場所へ刀剣を見に行くと、何故か足を運びたくなる塩釜神社博物館へ。


・太刀 来國光
・刀 安倫 75.4 2.4  延宝三年(1675)
・刀 國包 62.4 1.6  二代目
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
   (ウラ)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・刀 月山金利 69.2 1.5


 今回は思いがけず、『二代国包』と『月山』を見とことができた。その他、糸巻太刀拵が来国光附属のものを含め計五口、葵木瓜形鐔三点が展示されていた。何れも初見ではないが、太刀拵の美観的完成形と云える糸巻太刀、特に葵鐔はつい見蕩れてしまう。

2009年5月4日月曜日

蟹仙洞博物館

 本日は山形の上山へ。
  一日身体を休め、上山にある『蟹仙洞博物館』 を訪れてみることにする。前回、上山へ訪れた時はこの『蟹仙洞』のことを知らないでいた。長谷川謙三という方が個人で収集した彫漆などを展示している博物館で、刀もいくつかあるらしい。

 出発する時間が遅かったのも悪かったが、愛子を抜けるまでひどい渋滞だった。

 上山入りは何の苦もなくできたが、肝心の『蟹仙洞』は中々見つけられなかった。近くまで来ているのは確かなのだが、それらしい建物は見当たらない。この ままでは時間の無駄なので、道に立っていたお母さんに訪ねてみる。やはりそう遠くではないようで、詳しい道順を教えて頂き、道を急いだ。

 やっと着いてみると、一見蔵のような建物で、遠く離れた場所からでは絶対にわからない。




 玄関でスリッパに履き替え、係の方に入場料を払う。
 最初の部屋が刀剣コーナーだったため、逸る気持ちを押さえることなく見学をはじめられた。

 ・短刀 備州長船景光(裏)元亨二二年三月十六日  附)短刀拵 八寸二分半
 ・脇指 長谷部國重  55.45
 ・短刀 月山 附短刀拵  20.6
 ・太刀 備前長船重吉(裏)明徳三年十月日  60.9 附)菊葉紋蒔絵糸巻太刀拵
 ・刀 兼元  二尺三寸一分
 ・刀 肥前國住近江大掾藤原忠廣  70.45
 ・脇指 山城大掾藤原國包(花押)(裏)寛永十一年八月
 ・刀 長曽袮興里入道虎徹  70.9
 ・刀 和泉守藤原國定  70.75 (井上真改代作)

 ・六十二間星兜
 ・鎧櫃 結城哲雄作
 ・鳥柏葉文蒔絵太刀掛
 ・紅白糸威二枚胴具足
 ・葵紋散蒔絵短刀箱
 ・緋羅紗地葵紋短刀箱覆

 その他、鍔や小道具も多数展示されていた。そして折紙。折紙はあるが、肝心の刀がこの博物館には存在しない。盗まれてしまったからだ。詳しいことはわか らないが、重文の国次、兼光、長義、をはじめ、重美の虎徹、行平(指定無し?)、助真など名立たる名刀が悉く盗まれてしまったそうだ。図鑑などで写真を見 ることはできるが、やはり実物を見てみたかった。盗難リストに光包は無いようだが、無事なのだろうか?

 一昨日は火災による刀剣の焼失、今日は心無い者による窃盗。天災と人災によって刀が失われることについて考えさせられると、とても辛い気持ちになる。盗 まれた刀はこの世から消えて無くなったわけではないが、日の当たる場所へ再び現れるのは難しいのではないだろうか。最悪、手に入れた者が死んだ後、誰も盗 まれた刀の手入れをする者がなく、死蔵され錆びて朽ちていく…。考えただけでもゾッとするが、家に伝わる宝刀が蔵や押入の奥で、人知れず朽ちていくという 事は珍しい事ではないと思う。博物館の学芸員が旧蔵品を寄付してもらう為に、民家などを訪ね歩くそうであるが、刀を駄目にするくらいなら逸そ然るべき所に 寄贈するか、売り払うべきだと思う。刀にとっては手入れされることもなく、忘れ去られる事は大変な不幸だと思う。

 いつも博物館などでなるべく尋ねるようにしてるので、受付の方に「入れ替えはないのですか?」と聞いてみると「入れ替えも何も、殆ど盗まれてしまってね…。展示してあるのが全部です」という答えだった。私は胸が痛くなり、何とも遣る瀬無い気持ちになってしまった。

 そういえば見学中、先客の女性二人が受付の方と話しているのが聞こえてきた。どうやら何処かの研究室の方らしく、(多分)彫漆を撮影させて欲しいと交渉 していた。どうやらこの博物館に収蔵されている彫漆はとても貴重な物ばかりらしい。私は門外漢なので彫漆のことはまったくわからないが、展示されている刀 剣の質から考えると、他の展示物も一級品ばかりなのだろうなと得心出来る。話はまとまったようで、女性は後日改めて来館する約束を取り付けていた。目出度 し目出度し。

 刀を見終えた後、館内を一通り見て廻り、彫漆のコーナー(ここが一番広く充実している)へ向かう。どれも価値のあるものなのだろうが、私には見方がさっ ぱりわからない。私には見る目が無いとつくづく自分が嫌になってしまった。せめて刀を見る目だけでも養わないと。今は『好きだから見ている』に過ぎず、決 して善し悪しが解っているわけではない。
 仙台から近いし、隠れ家的な所がいいので幾度となく足を運びたいと思う。


 次は米沢へ行きたい所だが、その前に上山と米沢の真ん中にある南陽市へ向かう。『鉄と俘囚の古代史/柴田弘武』によると、南陽市の池黒というところには 『池黒皇大神社』という神社があり、そこには『宗近』の名が出てくる棟札が納められているそうだ。また周辺には、俘囚が住んでいたと思われる『別所』が地 名として残っているという。

 南陽市へは南下するだけなのでわけなく入れたが、目的地の池黒には中々辿り着けなかった。散々迷い、一度はすぐ近くの集会所まで来たのに、神社に気付かずその場からまた離れてしまった。また迷走。どうにか神社を見つけることが出来たが、相当時間を喰ってしまった。

 立派な案内に神社の由緒が書かれている。




池黒皇大神社由緒

 当皇大神社建立の起源は、桓武天皇の延暦年間(西暦七百八十二年~)、今をさかのぼること一千二百二十余年前において坂之上田村麻呂将軍東征の際、屯軍 の地として城壁を築き社を建て天照皇大神、豊受大神、鹿島大神を祀れる。故に、古来より坂之上神明神社と称するものなり。
 白河天皇の応徳三年丙寅歳(西暦一千八十六年)今より九百二十二年前、当山別当職出羽神輿麻呂により再建し奉るものなり。(当時の棟札現存し、市文化財の指定をうけている)
更に、後水尾天皇の元和年間(西暦一千六百十五年~)伊勢国伊勢山源海寺別当に請い、天照皇大神社を再び勧請し奉り天下泰平を祈る。元和七年、北条郷代官安部右馬助及び総氏子の請願により、源海寺別当、元和八年当社に転住する、都合三度の建立を経て現在に至るものなり。
 (祭礼、例大祭四月二十一日、新嘗祭九月十六日)
 源義経公奥州下向の際、当社の御神徳に浴し先勝を祈願され馬具及び甲冑を奉納せられしこと明らかなり。
又、当皇大神社より午の方(現在の猫子の地)に、義経公愛用の麗馬(黒馬)生まれし池の旧跡あり。是、池黒の名の興りし所以なり。古来より柵を廻らし、馬頭豊受大神を祀り、当社別宮として毎年四月二十一日祭礼したるものなり。
 右、皇大神社由緒なるが、古来より緒人の崇敬深厚にして、御神徳を仰ぎ奉るものなり。
    平成二十年丙子歳九月吉日


 白山神や聖観音の名が出てくるものとばかり思っていたが、ここ皇大神社は違うようだ。『当時の棟札』とは、例の宗近の名が出てくる棟札のことだろうか。




池黒皇大神社



 残念ながら棟札を見ることは出来なかった。市文化財に指定されるほど重要なのだから、社務所或いは他所で大切に保管されているのだろう。因みに棟札には次の様に記されているという。
 「応徳三年丙寅七月十有五日
  当山別当職出羽神輿麿啓白
  奉再立天照皇大神宮
    国家安泰如意祈所
  木刻師□□鍛冶三条小□宗近
  □□□」
 『鍛冶三条小□宗近』の□には、一体何という文字が入るのだろうか?宗近は『三条小鍛冶』の通り名で知られるが、三条の前に鍛冶の字は既に使われている し、鍛冶は二文字だから違うだろう。今一つ、『小狐』というのがり、これなら一文字だからしっくりくる。しかし、『小狐』は宗近の作った刀に対する通称な ので、これに果たして当てはまるかどうか。




 神社の横には道があり、羽黒神社へ繋がっているようなので、進んでみる。思った以上に足場が悪く登りがきつい。すぐ裏にあるのかと思いきや、大分歩かされてしまった。




 この裏にも道が続いていたが、これ以上進む気にはなれず、引き返すことにした。帰りは下りが多く幾分楽だったが、足を取られそうで気が抜けなかった。


 この後、米沢に行きたかったが、蟹仙洞、皇大神社と目的地を見つけるのに手間取り、すっかり時間がなくなってしまった。ゴールデンウィーク真最中で道路も大分込むだろうからと大人しく引き上げることにした。

2009年5月2日土曜日

日光東照宮宝物館

 ゴールデンウィーク第一弾は『日光東照宮』へ。

 GWを利用して遠出することにしたが、ETCを装備していないのでその恩恵を受けられず、東北、北関東圏から目的地を選ぶことにする。色々考えて、今回は日光に決める。目的地は『日光東照宮』で、お目当ては『日光東照宮宝物館』。家康公の愛刀や、奉納された刀剣が沢山あることだろう。楽しみである。

 皆、高速道路を利用しているのか、一般道はそれほど混雑しておらず、あまりストレスを受けずに日光入りできた。東照宮に着くまで少々迷ったり、駐車場までの長い列と急な坂道は大変だったが、どうにか東照宮へ到着することが出来た。


 適当に敷地内を見て廻り、『日光東照宮宝物館』へ。


 ・太刀 兼常  68.0 1.8
 ・短刀 越前康継  36.9 0.5
 ・太刀 肥前國住人忠吉作
 ・大太刀 捧伊賀守藤原金道(裏)寛永三年十一月吉日  79.5 1.4
 ・脇指 備前國住長船勝光宗光備中於草壁作(裏)文明十九年二月吉日  附)小さ刀拵
 ・大太刀 奉献上御太刀康継以南蛮鉄江戸作之(裏)寛文三癸卯年四月十七日三代目下坂  100.9
 ・太刀 和泉大掾藤原國輝 附糸巻太刀拵  70.2 2.0
 ・太刀 家次 附糸巻太刀拵  72.9 2.6
 ・長刀 備州長船景光  57.6
 ・短刀 無銘(伝行光)  26 附)合口拵
 ・太刀 守高  58.5 2.1


 一番感激したのは、何といっても初代忠吉を初めて見られたことだ。忠吉といえば『五字忠吉』が珍重されているが、展示されているのは俗に『住人忠吉』というそうだ。『肥前刀大鑑 忠吉編』には次の様にある。「慶長十八年八月から元和元年にかけて「肥前国住人忠吉作」と銘を切ったものがあるが、この場合必ず上記の如く「作」の字を入 れて八字銘に切っていることに注目したく、「作」の字のないものは四代銘か偽銘である。」


 館内の説明文によると、文化九年(1812)大晦日の夜に別所大楽院が火災が起り、宝蔵(銅神庫)にまで延焼したため、家康遺愛の品々のほとんどが焼損してしまった。その中には助平、包平、正恒、友成、助真、国宗、長光、了戒など在銘の名刀が含まれていた。なんとも残念な話だ…。その内、十五振りは 現代の刀匠により立派に再刃復元され、常時宝物館に展示されているそうだ。もし火事で焼けてしまう前の、健全だった姿を写し取った押型があるのなら、それ も一緒に展示してもらいたいものだ。

 徳川家ではその他にも火災により、名刀を焼失する災難に遭っている。川口陟の『日本刀剣全史7(江戸時代2)』に二件の事例が紹介されている。

 「慶長十二年十二月二十二日丑時(午前二時)駿府城が失火した。折から家康は心地例ならず打伏していたが、中山雅楽助信吉に助けられて事なきをえた。つ ねづね次の室においてあった刀箱二個の中、一個には三十四本の刀が入れてあったが無事に取出し、他の一個は七十二本入れてあったために重くて取り出すこと ができず、箱を打ち破って刀はみな池の中へ投げ入れたので焼失を免れたが、座右におかれた宝物は一として烏有たらざるはなかった。豊臣秀吉から贈られた白 雲の茶壺真壺、正宗の脇差、三原の脇差、獅子の笛なども焼失した。(略)明暦三年正月十八日および十九日の江戸の大火は、江戸城本丸、二の丸残らず炎上、 江戸城にあった太刀刀類千五十一腰が焼失した。いま『桜嶽斉雑妙』なる随筆によればその焼失の主なものは左のとおりである。
 ・一、無銘藤四郎(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、豊後藤四郎 一、新身藤四郎 一、シノギ藤四郎 一、飯塚藤四郎 一、庖丁藤四郎 一、米沢藤四郎 一、樋口藤四郎
 右ノ外御脇差三百枚計ノ吉光数多
  一、三吉正宗(寛明間記に三好正宗) 一、八幡正宗 一、長銘正宗 一、対馬正宗 一、横雲正宗 一、道合正宗(十河正宗の誤か) 一、シノ木宗近 (刀剣名物帳焼失の部になし) 一、小脇差行平 一、青木國次 一、三斎國次 一、不動國平(不動國行の誤か) 一、骨ハミ吉光 一、大シヤ國吉(大子屋 國吉) 一、村雲当麻(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、岐阜國次(岐阜國吉か) 一、三吉江(三好江) 一、西タカ江 一、上杉江 一、上野江 一、紀 州江 一、伏見正宗 一、蜂屋江
 此外正宗の刀数多
 右馬頭様(甲府綱重)の御道具
 一、上野紀新太夫 一、吉光の一振(一期一振のことか) 一、の法國綱 一、秋田行平 一、しめ丸行平
 此外千貫計の行平数多、百枚二百枚の御道具数多、三十腰計入箱二十計の内五箱出る、十五箱は御本丸にて焼失す」

 以上、徳川家の蒙った刀剣焼失の事例を二つ挙げたが、明暦の大火に加え、本能寺の変、大阪城落城などで焼失や行方知れずになった名物の刀剣が、いわゆる『享保名物牒(公儀本)』の中に『古来之名物焼失之部』としてまとめられている。

 『骨喰藤四郎、一期一振藤四郎、大阪新身藤四郎、江戸新身藤四郎、長岡藤四郎吉光、塩河藤四郎、親子藤四郎、庖丁藤四郎、車屋藤四郎、豊後藤四郎、樋口 藤四郎、大森藤四郎、米沢藤四郎、凌藤四郎、鯰尾藤四郎、薬研通藤四郎、足利飯塚藤四郎、大阪長銘正宗、江戸長銘正宗、八幡正宗、横雲正宗、大内正宗、弐 筋樋正宗、黒田正宗、対馬正宗、紀伊国片桐正宗、江雪正宗、秋田石井正宗、石野正宗、笹作正宗、蒲生正宗、上リ下リ竜正宗、若江十河正宗、伏見正宗、三好 江、上杉江、桝屋江、上野江、肥後熊本紀伊江、蜂屋江、大江、常陸江、甲斐江、三好江、西方江、切刃貞宗、獅子貞宗、安宅貞宗、海老名貞宗、小尻通新藤五 国光、安宅志津、善鬼国綱、大国綱、村雲久国、岐阜国吉、太子屋国吉、大国吉、ヌケ国吉、義元左文字、伊勢左文字、北野紀新太夫行平、秋田行平、注連丸行 平、地蔵行平、本多行平、御髪行平、不動国行、小国行、秋田国行、青木来国次、三斎来国次、戸川来国次、秋田則重、増田則重、実休光忠、青屋長光、縄切筑 紫正宗』

 江戸時代、『吉光』、『正宗』、『郷』を『三作』と称していて、公儀本に記載されている二三四振の内、吉光が二十三振、正宗五十六振、郷義弘が二十二振 とその持て栄しぶりがよくわかる。しかし、中には名物と呼ぶには相応しくないものが、少なからず混じっているようである。また、公儀本は享保四年当時のもので、調べ方が稚拙だったためか『焼失之部』に記載のうち幾振かは現存するそうだ。例えば、『不動国行』と『一期一振藤四郎』が『日本名刀100選』で紹介されている。
 信長の愛刀だった『不動国行』は本能寺の変の際、安土城にあり、これを明智左馬介が分捕った。しかし坂本城が落城するとき、『二字国俊』の刀、『薬研藤 四郎』の小脇差、その他茶入れや釜などの名品と一緒に肩衣に包み、天守から投げ下ろして堀久太郎に託し、自らは自害したという。こうして秀俊の英断により、せっかく国行の太刀は焼失の愁いを逃れたのだが、上出『明暦の大火』で焼けてしまったというのだ。せめてもの救いは信国重包によって再刃され、未だ現 存するといことだ。
 今一つ、短刀の上手な吉光の唯一の太刀と云っていい、『一期一振藤四郎』は大阪落城で焼けてしまった。これも焼失は免れ康継が再刃したが、『光徳絵図』にある焼ける前と比べると、殆ど別物の様だという。秀吉が約23センチも刷上げてしまったというのも、少々残念だ。

 その他、関東大震災や世界大戦で失われた刀剣も数多いことだろう。そのことを思うと胸が痛くなる。


 『二荒山神社宝物館』にも是非寄りたかったのだが、時間の都合で今回は断念。

2009年3月20日金曜日

舞草神社探訪 其之二 (後半)

 前半に引き続き、残りの遺跡巡り。


 儛草神社から戻り始めてすぐ、右手(南側)に『舞草小戸山遺跡』の標を見つける。参道よりやや低くて目立たない所に有り、危うく見落とすところだった。



 ここからは『釘』、『鉄鏃』、『土器』などが発見されたそうだ。気になるのは『鍛冶伝承地周辺図』に『舞草小戸山遺跡』が載っておらず、代わりに『舞草鍛冶遺跡』が『土師・須恵器片出土地』となっていることだ。



 行きで探索を我慢した『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡(白山岳山頂周辺)』のポイントまで漸く戻ってきた。すぐ右(西)へ道があるが、先ずは左の『鉱山跡』へ行ってみる。



 人が普段通らないために植物が生い茂っているが、不思議と道だと認識出来る。少し進むと石碑を見つけたが、鍛冶とは無関係だった。



 更に行くと岩場に出たが、これといったものは見当たらない。木の枝をかき分け斜面を登ってみるが何も見つけられなかった。どうやらハズレだったようだ。 それどころか、道無き道を来たものだから、自分がどこを通ってきたかわからなくなってしまった。兎に角、斜面を下りながら右へ右へと向かった。「ああ、 迷ったかも…」と不安に襲われたが、どうにか戻ることが出来た。大昔の修験者が山を進むのに、刀を必要としたというのを身をもって感じた。

 もう一ヶ所、人が通れる所を見つけ、何となく気になる。「迷ったらどうしよう」と少々不安を覚えながらも、先程の生還(大袈裟)で少々大胆になり、何の根拠もなく進んでみることにする。



 暫く進むと『舞草鍛冶遺跡』の標を発見!アタリである。参道脇に建つ『舞草鍛冶遺跡』の標は此処のことを指すのかもしれない。だとすれば此処から『羽 口』の一部と『鉄滓』が発見されたということになる。そうすると『鉱山跡』も他にあるということか…?地図では此処より南に白山岳鉱山跡が標されてい る。それにしてもここに立つ標識だけ古く細い。最初に発掘調査が行われた場所なのではないだろうか。





 最後は前の二ヶ所に比べると道らしい道と思える通りだ。途中、注連縄で結ばれている二本の杉が有り、少し先で道が二つに分かれている。多分、真直ぐ(西)行けばこのまま神社へ向かうか、東参道へ合流するのだろう。ここはもう一本の道へ進んでみる。



 しばらく行くと、また注連縄を見つける。ここには曾て『金鋳神像』が祀られていたようだ。



 一度道へ戻り、奥(東)へ続く道を進むと、また注連縄が。後には巨大な岩が聳える。はじめはここが何を祀っているのか見当もつかなかったが、地図にある 『鉱山跡』の場所と大体一致する。先程、難儀しながら見て廻った岩場が『鉱山跡』なのではなく、此処こそがそうなのかもしれない。



 来た道を慎重に引き返し、二本杉の通りへ戻り、西へ向かうと思った通り東参道に合流。

 

 全てを行き尽くしたわけではないし、不明な点も多々有るが、それでも一通り見て廻ることが出来たと思うので、そろそろ引き上げることにする。
 帰り道、表参道の入り口を見つける。前回、気付かないで通り過ぎていた。



 道は徐々に険しくなる。しばらくすると石段が現れるが、また消えてしまう。







 また階段があらわれ、道路を越えてると、先程引き返した道に続き、神社正面に辿り着く。この表参道の往復は半分の距離でも大変だった。本来はこちらの参道を登って神社へ至るのだろうが、現在では車で来られる東参道を利用しているのではないだろうか。



 時間に余裕があったので『一関市博物館』へ。現在は通常展示室と企画展示室は改装中のため見学出来ない状態だった。しかし、目当ての刀剣コーナーが生きていて本当に良 かった。もしそうでなかったら項垂れて帰っていたことだろう…。

・太刀 舞草 72.7 3.2

・太刀 友安 69.3 1.4
・薙刀 無銘(舞草) 66.8 3.1
・太刀 寶壽 70.1 2.4
・刀 無銘(月山) 66.5 1.7

・刀 奥州仙䑓住國包 75.5 1.2
・刀 一関士宗明作 元治元年八月吉日(ウラ)振此利刀鏖敵者誰多巻觀民 70.5 1.5
・脇指 陸中國宗明 45.3 0.9
・脇指 明弘 38.3 0.7

・太刀 行光 84.1 2.3
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 武蔵大掾藤原是一 45.2 0.9
・刀 備前介藤原宗次 文久四年二月日 71,1 1,2


 いつもは箸休め的にサラッとしか見ていなかった発掘物も、今日は遺跡を見て廻った後なので、とても興味深く見ることが出来た。『石像金鋳神像』が『金鋳神像跡』に祀られていた姿を想像してみる。

・釘(舞草小戸山遺跡)
・鉄鏃(舞草小戸山遺跡)
・羽口(舞草鍛冶遺跡)
・土器(舞草神社西遺跡・舞草小戸山遺跡)
・窯壁(伝古屋敷跡)
・鉄滓(舞草鍛冶遺跡)
・石像金鋳神像


 お彼岸のためか、館内の一部改装のためか、客は私の他に誰も居なかった。そのため、貸し切りような気分で刀に見入ることが出来た。発掘物同様、舞草刀も旧舞草山の刀鍛冶に思いを寄せながら、いつもと違った気分で見学できた。また、はじめて『二代国包』を見たとき、『初代』でないことにがっかりしたものだが、今日は敬意を払いながら改めて見直した。