2009年2月15日日曜日

鹿島神宮

 今回は思い切って『鹿島神宮』へ行ってみることに。

 土曜の夕方、父に「明日、朝の6時半までに仙台駅へ送って欲しい」と頼まれる。そういえば、両親が東京へ出かけると云ってたっけ。起きられるか自信が無かったが、早起きすれば遠出が出来るし、父の車を借りればナビが使える。早速、何所へ行こうか幾つか候補を考え、その中から『日光東照宮』と迷ったあげく、『鹿島神宮』へ出かけることに決めた。『鹿島神宮宝物館』 には20口近くの刀剣が常設展示されているらしく、加えて武術の聖地に行ってみたいと思う気持ちが決め手だった。
 時間はかかるが、金がかからない下の道を行くことにし、ネットでルートを検索する。すると距離が290㎞、時間にして7時間超。一瞬たじろいでしまい、日光か山形に変更しようかとも考えたが、太平洋側を直走る簡単そうな道のりだったので肚を決める。

 そして今朝、両親を駅に送り届け、朝食を取りに一度帰宅する。その間考えたのだが、「慣れている自分の車が良いのでは」と思い立ち、結局ナビに頼ることは出来なくなった。食事の後、急いで大まかなルートを頭に入れ、いざ出発。
 先ず、国道4号線(仙台バイパス→奥州街道→岩沼バイパス)→6号線(陸前浜街道)をひたすら南下。朝早いので交通量は少ないが、殆ど一車線なので、遅い車が一台でもあるとスピードが出ない。単調な景色が暫く続いたが、福島に入ってから海が見えるようになり、途中海岸沿いの鳥居良い気分転換になった。
 中弛みの感が出てきた頃、いよいよ茨城に突入。水戸で51号線に乗らなければならないので、気を引き締める。気がつけば知らない地名、車は茨城ナンバー ばかりが目につく。ああ、他所に来たという実感が湧いてくる。『御先祖様万々歳!』を連想してしまう、海水浴場で有名な大洗を通り、漸く鹿島市内に入る。 あとちょっとだと安心していたところ、暴走族の集団と遭遇。十数台のグループと4~5回擦れ違う。東北ではこれだけの数をそれも昼間に見かけることは殆ど 全く無いのでドキドキしてしまった。やがて『鹿島サッカースタジアム』の横をを通り過ぎ、『鹿島神宮』への案内が目立ってくる。そして程なく到着。朝7時に出発し、着いたのは午後1時。


 昼食のことは頭に無く、早速本殿へお参りを済ませ、宝物館へ。

・直刀 金銅黒漆塗平文拵 (附)刀唐櫃 一合
・太刀 藤一貫齋政丞作(現代)
・脇指 長谷部國重
・刀 加州住田向藤原翥武(とびたけ) 嘉永五年八日吉日
・現代刀 堀井胤次作
・刀 武州下原住廣重 奉納廣重
・刀 筑前住源信國吉貞
・刀 肥前國住近江大掾藤原忠吉
・脇指 備州長船則光
・薙刀 無銘(富上家奉納)
・短刀 常州住綱吉作
・脇指 伊賀守藤原金道
・刀 総州佐倉士細川忠義
・現代刀 納鈴木家重代 渡辺繁平作
・刀 菊紋 信濃守藤原信吉
・脇指 渡辺繁平(現代)
・刀 大和守安定
・脇指 祐定作
・脇指 但馬守田原住藤原國重
・太刀 景安(初代水戸藩主徳川頼房公奉納)
・刀 金象嵌銘國俊
・直刀 常陸國岩間住 岡島正忠(現代)
・刀 無銘(伝了戒)
・太刀(小烏丸造) 荘司美濃介直胤
・刀 荘司次郎太郎藤原直勝精練
・太刀(飾太刀) 奉納 鹿島神宮御宝前

 一番の目玉は『金銅黒漆塗平文太刀』で、『韴霊剣』とも呼ばれ、俗に『直刀』とも。国宝の登録名称は『直刀・大刀拵』。何と全長が2.25㎝(七尺三寸 八分)もあり、拵を合わせると2.71㎝(八尺九寸四分)にもなる巨大な直刀。『刀身・拵・刀唐櫃』の三点セットでの国宝指定だそうである。刀身は切刃造 で角棟、鍛えは小板目。刃文は直刃、小湾たれごころに乱れる。『古代刀と鉄の科学(石井昌国・佐々木稔)』によると、「きわめて長大であるため、三折に緞 着されているといい、その接着部の上下には小疵が遺る。研師の小野光敬氏は、緞接された地鉄はおのおの相違するという。地肌は板目肌のようであるが、白研 ぎのため、その肌目はよく見えない。やはり拭い清めることが必要である。刃文は、七尺余りの大太刀にみごとな直刃があると示されているが、実はそうではな く、無焼刃である。この直刃は、研師が作った直刃である。したがって、現在はほとんど見えない。」とある。
 展示作中、最も好みだったのは『肥前國住近江大掾藤原忠吉』だった。『初代忠吉』でも『初、二代忠廣』でもないのだが、肥前刀を見たのは初めてだった し、姿が素晴しかった。四代忠吉は19の時、父である『三大忠吉』を亡くしその跡を継ぐ。父からも緞刀について学んでいただろうが、父の没後は祖父である 『二代忠廣』に教えを受けたそうで、その影響はかなり強いものと思われる。多分代打を任されたこともあっただろう。私は世間で評価の高い三代より二代の方 が好みなのだが、四代が父である三代から薫陶を受けていたら、作柄は違ったものになったであろうか。残念ながら、長命の割に四代の現存刀は数が少ないそう である。そういえば、私の他に父と息子の二人連れがいたのだが、父親の方が『肥前國住近江大掾藤原忠吉』をすっかり気に入ったようで、頻りに刀身の姿形を 褒めていた。その口ぶりから、あまり刀剣に詳しくないようだったが、「お父さん、趣味が合いますね」と心の中で思ってしまった。そのお父さんのセンスがい いのか、刀剣に関わりのない人々まで魅了する四代忠吉が素晴しいのか。

 その他、
・香木 沈香(ラオス産)
・悪路王の首と首桶
・鎧、胴丸、兜
・常陸国風土記
 などが展示されていた。香木は見事な大きさだが、温めないと香りが楽しめないので、ガラス越しではただの『木っ端』にしか見えない…。
 『悪路王の首』と『首桶』は本物を見られると思っていなかったので嬉しかった。『悪路王の首』は田村麻呂の口伝をもとに復元したものを、1664年に奥州の藤原満清が鹿島神宮に奉納したと伝わっているそうだ。もちろん写実的では無いし、幾分ディフォルメされている感があるが、実際見る者はそんな印象を受けたのかもしれない。
 胴丸は初代明珍家作で、在銘『大永六年丙戌八月吉日花押』。


 宝物館を出た後、『鹿園』、『奥宮』、『要石』、『御手洗池』などを見てまわる。境内は広く緑豊かで、聖域を散策しているせいか、何だか心身に良い効果 をもたらされるような気がしてくる。一通り見て歩くと時は既に3時半を過ぎていた。帰りの時間を考え、神社をあとにする。


 もうすぐ福島を抜けるという頃、ガソリンのエンプティ・ランプがオレンジ色に点滅しだした。どこかで給油しようと思いながらもチャンスが無く、結局給油 せずに家に辿り着いた。朝満タンだったのが、帰宅したときはランプが赤く点滅しており、ガス欠寸前。走行距離は約640㎞。長距離だからこれだけ燃費良く走られたようだ。

 結局、家に着いたのは10時半過ぎだった。ほとほと疲れていたが、遅い夕食を取り、旅の余韻に浸ることも出来ずに就寝。

 今回は塚原卜伝や新當流に因んだ場所を巡ることが出来なかったが、次回は是非訪れてみたいと思う。

2009年2月8日日曜日

舞草神社探訪 其之一

 本日は『儛草神社』の場所を確認しに行ってみることに。

 正午前に目が覚め、起き抜けに昼食を取る。
 何処かに行きたいけれど、時間が半端で遠出は出来ない。移動距離が片道三時間を越えてしまうと、見学のための時間が十分にとれない。そんな中、思いつい たのが『儛草神社』の場所を確認することだった。一関を訪れる度に「早く舞草神社へ行かねば」と思うのだが、一度も果たせずにいた。いつも『一関市博物館』の見学だけで、あっという間に帰りの時間になってしまうからだ。同じ理由で『平泉』にも行けないでいる。一関までだったら片道約二時間半なので、午後1時に出発すれば、3時半頃に到着できる。帰りの時間を逆算して、四時半頃まで神社の探索ができる。早々に神社を見つけられれば参拝や散策も出来そうだ。 実際はそう上手くいかないものだが…。

 早速、場所を確認して手書きの簡単な地図を作る。市内中心部は目印になるものが豊富だが、郡部はそれらが少ない。本当は神社のある観音山周辺こそ詳細に書かなければならないのだが、あまり時間に余裕が無いこともあり、神社周辺は『鍛冶伝承地周辺図』を参考にすることにした。 

 いつものように4号線を北上し、予定通り三時台に一関入りすることができた。博物館に行きたいところだが、グッと堪えて一関署の前で右折し、厳美渓とは 逆の東へ向かう。しばらくは手書きの地図を見ながら、信号と橋の数を頼りに進む。途中までは良かったのだが、北上川を越えた途端、急に迷いだしてしまった。ただでさ初めての道なのに、目印が少なく、加えて一面の雪景色のせいで、自分が何所を走っているのかよくわからない。しばらく走っていれば、そのうち神社か案内を見つけるのではないかと軽い気持ちでいたが、そう上手くはいかなかった。そんな調子で30分以上迷走していたが、雪かきしている男性を見つけ、道を尋ねることにした。そのお父さんが云うには、ここの先にバス停があり、そこを左に曲り、しばらく行った所にあるという。ただ、今日は雪が積もっているため、神社までは辿り着けないだろうと忠告された。私も始めからそのつもりだったので、「今日は場所を確認に来ただけなんです」と忠告に従うことを告げ、お礼を述べて車に乗り込んだ。
 一先ず教わったバス停を目指したが、目印が雪に埋もれて判然としない。どうやら通り過ぎたらしくまた引き返すハメになった。つもった雪がここまで邪魔するとは。戻る途中、石柱の立ったそれらしい丁字路を見つけた。それが何と標されているか確認もせず、取り敢えずその道を進んだ。半ば自棄になっていた。
 辺に注意を向けながらしばらく進むと、神社への入り口を示す『儛草神社東参道』の標示板を見つけることができた。その時の嬉しさと安堵感といったら…。


一関市教育委員会による『舞草鍛冶』の解説。今回、神社探索の参考にした『鍛冶伝承地周辺図』が横に載せられている。
 この上に神社があると思うとえも言われぬ気持ちになってくるが、先程のお父さんの言葉を思い出し、今回は諦めて大人しく帰ることにした。山道でスタックしては大変である。
 散々迷ったせいで、時刻は4時半を回っていた。今日は本当に神社の場所を確認して終わってしまった。もし雪が無くて上まで登られたとしても、夕暮れの中、短時間しか参拝することができなかっただろう。

 帰りは意外とすんなり4号線に乗ることができた。道すがら、当然のように奥州鍛冶への思いを馳せていた。

 ところで、道州制が導入されたら、東北地方は何州になるのだろう。やはり東北州なのだろうか?それではつまらないから、『奥州』の方が良いような気がする。「奥州仙台住」。うん、好い響きだ。しかし、岩手には奥州市がある…。田中義一内閣の時代(1927年)、全国を6つの州に分ける「州庁設置案」というのがあったそうで、その案の中で東北は『仙台州』だったそうだ。

2009年1月4日日曜日

初詣

 塩竃神社へ初詣。

 参拝客で込み合う正月三ヶ日を避けたのだが、第二駐車場まで車の列が続き、駐車するまで大分時間がかかってしまった。それでも肝心のお参りはゆっくりとすることができた。

 お参りも済んだので、博物館へ。
 刀剣類に関しては前回見た内容とほぼ同じだったが、『雲生』と『来国光』が入替えられており、糸巻太刀拵と共に展示されていた。刀身だけでも見応えはあるが、外装と一緒だと尚素晴しい。更には来国光の『太刀箱』と、それらが奉納された際に奉上された祝詞も展示されていた。黒い太刀箱には、金の字で

  奉献上
  鹽竈六所大明神御寳前 御太刀一振 來國光
  延寳三乚卯歳仲冬十日
  従四位下行左近衛權少将兼陸奥守藤原朝臣綱基

と箱書きされてある。因みに来国光の奉納について、「一 來國光御太刀 但御拵金作、鞘外白鞘、金襴袋入黒塗箱淺黄羽二重服紗包、黒塗外家筥入、延寶三年 十一月十日 綱基公御奉納。」、「一 來國光御太刀 壹腰 但御拵金作鞘外白鞘金襴袋入桐之白箱ニ入、減黄羽二重服紗包黒塗之外家筥入延寶三年十一月 太守綱基公御奉納」などの記録がある。
 祝詞には綱基(後の綱村)公が「延宝三(1675)年十一月十日に太刀とともに神馬一頭を鹽竃六所大明神の広前に奉る」と記されているそうで、『鹽竃六 所大明神』とは塩竃神社の古い呼称なのだそうだ。『六所明神』について、『鹽竃社神籍』には「鹽竃六所大明神、或曰、猿田彦、事勝國勝、鹽土老翁、歧神、 興玉神、大田命、六座同禮之神、故有六所名成、」、『鹽竃社縁起』には「鹽釜六所明神、或曰、猿田彦、事勝國勝、鹽土老翁、歧神、興玉神、大田命、六座同 體異名神也、祠之於別宮、」 と記載されている。縁起といえば、同じく去年の初詣で来館した際に見た『鹽竈神社縁起』には、「左宮武甕槌命・右宮經津主 命・別宮岐神」と書かれており、「あれ、塩釜の神様の名前がない」と怪訝に思ったことがあった。しかし、神道の知識が無いので「創建以来、塩竃神社の祭神 の名は明らかにされておらず、四代藩主綱村公が家臣に命じて神社に関する調査させた。」という解説を読んで、「この頃はまだはっきりしていなかったのかな」とそれ以上は深く考えなかった。

 鹽竃神社は名称が『鹽竃宮』、『鹽竃明神』、『鹽竃六所明神』、『三社の神』など色々あり、祭神も一定していなかった。それを綱村公が游佐好生らに調査させ、吉田兼連に縁起の撰述を要請する。それが前述の『鹽竈社縁起』である。祭神は

 陸奥國一宮正一位鹽竈大明神三座
 左宮 武甕槌神
 右宮 經津主神
 別宮 歧神

となっており、異論もあったようだがこれに代わる決定的な説は出なかった。
 その後、藤塚雅楽が『鹽竃神社記』を著し、

 所祭三座
  別宮 鹽土老翁
  左宮 武甕槌神
  右宮 經津主神

 とし、更には「猿田彦、事勝國勝、鹽土老翁、岐神興玉神、大田命は各其系譜異にして、時代亦同じからず。然れども導く所に於て其揆一なり、故に配享し以て六神同禮なり、と云ふは可なり、同體異名なり、と云ふは不可なり」と記し『鹽竈神社縁起』と異なる見解を示した。
 別宮は岐神から鹽土老翁へと代わり、やがて明治七年に国幣社へ加列される。

2008年12月21日日曜日

今のうち『瑞巌寺』

 『瑞巌寺』は10年に及ぶ本堂の改修工事が予定されており、そうなると長期間見学できなくなるので、今のうちとばかりに訪問。

 『瑞巌寺』は本堂の改修工事が行われる予定で、工期は10年ほどかかるようだ。本堂を見学できなくなってしまうが、瑞巌寺の前身である円福寺の建物遺構の発掘調査計画や、近い将来やってくる大地震に備えるためであるならば仕方ない。
 ということで工事が始まる前に、今年集中的に回った刀剣・歴史見学の旅の締めくくりとして瑞巌寺へ。

 何はさて置き、先ず本堂へ。




 端から順にと思い『松の間』を見ていると、思いがけず守衛さんに声をかけられた。何でも離れの間で、和尚さんの法話が聞けるという。あまり乗り気ではな かったが、そこは普段、一般人は立ち入ることの出来ない場所だそうで、つい食いついてしまう。案内されて回廊を進み、『大書院』に通される。襖を開け部屋 に入ると三十人程の聴衆を前に既にお話の最中だった。和尚さんに「どうぞ前の方へおいで下さい」と云われ、そそくさと空いている場所へ見つけて正座する。 膝行で進もうとも思ったが、止めることにした。
 途中からではあったが、2~30分ほど拝聴できただろうか。禅問答の小難しい話なのかと思ったが、誰にでもわかる易しい内容で分かりやすく、自分の中で あれこれ考えを巡らせながら聞くことができた。特に「人に答えを求めるな、自分の中に答えはある」という言葉が印象的で、思い当たる節がいくつもあった。 反省…。後でわかったのだが、和尚の名は『梅澤徹玄』師といい、臨済宗妙心寺派布教師で、黒川にある『臨済宗妙心寺派禅興寺』の住職なのだそうだ。

 また『鷹の間(武士の控室)』から見学に戻る。その隣はメインである『室中孔雀の間』で本尊『観世音菩薩』、歴代伊達藩主の位牌、『開山法身性西和尚像』が安置されている。次は『文王の間(伊達家親王の詰所)』で、左手に下ると『御成玄関』、


ここを政宗公が出入りしたわけだ



右手に進むと『上々段の間』、『上段の間(藩主の部屋)』、『仏間』、『羅漢の間』、『墨絵の間(住持の控室)』、『菊の間(御典医の控室)』と続き最初の『松の間』に戻り、本堂を一周したことになる。

 さて、続いては瑞巌寺を訪れたもう一つの目的である宝物館。

 ・脇指  奉献巨刀一腰奥州宮城郡仙䑓城下
     前州主黄門貞山利公御廟前
       明暦元年乙未五月廿四日
  (裏)  武州江城住人冨田大和守安定
     到當所仙䑓作之以奉寄進之弟子安次安倫助之
       當所人山野加右衛門尉定兵之模様長短大小
  (棟)切物奥州仙䑓住 家定作

 刀剣類に関しては『安定』の大脇指で一口のみで、これは忠宗公が政宗公の二十回忌の際、東照宮に奉納するため江戸から安定を招聘し仙台で作刀させたとい う。その他にも有名な『伊達政宗公甲冑倚像』や『円空』の仏像、『不動明王立像および二童子立像』など様々な品が展示されていた。 

 瑞巌寺を後にすると、空は雲行きが怪しくなっており、車に戻る途中雨に振られてしまった。


 
 次に瑞巌寺に訪れるとき、はたして自分はどう変わっているのだろうか。もしかすると、その答えは既に自分の中にあるのかもしれない。変わるも変わらぬも、己次第。

2008年11月23日日曜日

『平泉 ~みちのくの浄土~』展

 仙台市博物館で開催中の『平泉 ~みちのくの浄土~』展へ。
 
 
 今回の企画展では、仏像や経典など奥州藤原氏の仏教文化を堪能できる。中でも目玉は国宝の『薬師如来坐像』、『日光菩薩立像(左脇侍像)』、『月光菩薩立 像(右脇侍像)』三躯(何れも福島・勝常寺)や『阿弥陀如来坐像』をはじめとする『金色堂西北壇上諸仏』十一躯(岩手・中尊寺金色院)、『紺紙金字一切 経』などで、他にも重文の重美指定の作品を数多く見ることができる。気になったのは、廃仏毀釈の運動で傷つけられたものか、顔や手の無い仏像が何体かあっ たことだ。

 コーナーをどんどん進んでいくと、途中で思わぬ物が視界に飛び込んできた。なんと、田村麻呂将軍所用の大刀と伝えられる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』の刀身である。残念ながら黒漆大刀拵はなかったが、切刃造りの直刀をまじまじと見ることができた。刀身はボロボロで痛々しいが、帽子が見てとれた のは嬉しかった。

 もうひとつ嬉しかったのは、企画展を後にしてから、一応常設展も覗いてみたのだが、こちらに刀剣類(刀掛一架、具足三領)が何点か展示されていた。

 ・脇指 奉献巨刀一腰 宮城郡仙䑓郭
     東照宮御寶前
     明暦元年四月十七日
 (ウラ)武州江城住人冨田大和守安定作之
     到當所仙䑓依奉寄進之弟子安幸安家助焉
     當所人山野加右衛門尉定兵之模様長短大小   56.6㎝ 附金梨地葵紋拵

 ・金梨地竹に雀九曜紋刀掛

 ・黒漆五枚胴具足(政宗公所用)
 ・黒漆鳩胸五枚胴具足(宗村公所用)
 ・黒漆五枚胴具足(綱村公所用)

 安定の大脇差は弟子の『安幸』『安家』との合作で、忠宗公が家康の命日に仙台東照宮へ奉納したもの。


 せっかく一関まで行っても、一関市博物館での見学で時間が無くなり、あとは帰宅というのが常だが、この次は平泉を訪れたいと思う。他にも岩手で行ってみたい所が沢山ある。
 今回は純粋に奥州平泉の宗教文化を見に来たのだが、思いがけず本物の黒漆剣を見ることができて本当によかった。

2008年11月15日土曜日

上山城から上杉神社へ

 Aさんに『刀匠 神林恒平展』のパンフレットを頂く。興味はあるが、果たして気軽に車で出かけられる所なのだろうか…?
 会場は山形の上山だそうで、上山といえば競馬場と温泉がパッと頭に浮かぶが、山形のどの辺かわからない。早速ネットで調べてみたところ、山形市の少し南で、距離にして大体90キロ位。大きな道を行けば然程難しくないようなので、行ってみることにする。

 朝10時に家を出発し、先ずは国包屋敷があった立町小学校前の仙台西道路から、愛子バイパス、作並街道と48号線を只管進む。空いても混んでもなく、ス ピードのあまり出ない道路状況で、紅葉を楽しみながらのんびりと行く。やがて開けてきたなと思ったらそこはOさんの故郷天童市。丁字路にぶつかった所で左 折し、13号線を南下する。そして簡単に上山市まで入ることが出来たのだが、上山城に到着するまでが大変だった。詳しい案内があまり無く、随分迷ってし まった。
 漸く『上山城』に到着し、先ずは近くにある月岡神社にお参りし、次に月岡公園から辺を眺める。
 上山城は4階建てで、1~3階が展示場、4階は展望台となっている。1階の第一展示場から始まり、エレベータで一気に4階の展望台へ。城から眺める上山 の風景を写真に撮りたかったが、カメラを持ってくるのを忘れてしまった。あとは階段を降りながら、3階の第二展示場、2階の第三展示場と上山の歴史を順に 追っていく。一階に戻り、最後は特別展示室の『刀匠 神林恒平展』である。今回の展示会は『山形県指定無形文化財保持者認定』を記念してのものらしい。先ずは氏の師匠である『宮入行平』の作品一口に始まり、 神林恒平氏の29口、計30口が三方と中央のショーケースに展示されていた。

・脇指 宮入行平作(裏)昭和五十二年八月日
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十二年二月日
・刀 三省吾身上林恒平作(裏)昭和己未年春吉祥
・刀 以山形城古鉄長谷堂住人恒平作(裏)平成十年十一月吉日
・短刀 恒平作(裏)平成十八年三月日
・短刀 恒平作(裏)平成十一年五月日
・刀 長谷堂住人上林恒平作(裏)平成六戌年春吉日
・刀 長谷堂住人恒平作(裏)平成七年春吉日
・脇指 恒平彫同作(裏)平成十一年五月日
・脇指 恒平作(裏)平成十二年春
・刀 長谷堂住人恒平作(裏)平成十三年八月吉日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十七年八月日
・脇指 於霞城恒平作(裏)守護己諒平成十二年十一月廿二日
・短刀 備州長船住景光(棟)学景光恒平作(裏)元亨三年三月日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十八年三月日
・刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十九年二月日
・太刀 長谷堂住恒平作(裏)平成廿戌子天六月十七吉日
・刀 長谷堂住人上林恒平作(裏)平成十九年八月日
・脇指 恒平彫同作(裏)應揚妻家需平成十六年三月日
・脇指 恒平彫同作(棟)平成十七年五月吉日(裏)(個人名)種徳百年計
・太刀 於長谷堂住恒巌作(裏)平成十七年三月日

・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平作(裏)平成七年八月日
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十二年月二日
・短刀 (個人名)恒平作(裏)仙寿之平成十二二年十月日
・短刀 長谷堂住恒平作(裏)平成十五年正月仙寿之
・短刀 恒平彫同作(裏)平成十六年月弥生吉日
・短刀
・短刀 守護(個人名)恒平作(裏)平成十八年三月日

 城を出ると、時間はまだ午後1時前。帰るには少し早いので、米沢の『上杉神社』へ行ってみることにする。上杉神社には上杉謙信公、二代景勝公、直江兼続 公、十代鷹山公ら縁の品々が収蔵、展示されている『稽照殿』がある。『直江兼続』といえば、来年のNHK大河ドラマ『天地人』の主人公である。
 13号線を南下し、米沢市内には入れたが、肝心の上杉神社に辿り着くのに難儀した。神社は観光客で賑わっており、七五三の親子連れも目立っていた。社殿にお参りし、辺を散策した後、『稽照殿』へ。

・革製金箔置烏帽子形兜(伝謙信公所用)
・禡祭の剣
・色々威腹巻(謙信公所用)
・紫糸威伊予札五枚胴具足(景勝公所用) 
・勝色威胴具足(謙信公所用)
・紫糸威五枚胴具足
・紫糸威二枚胴具足(鷹山公所用)
・金小札浅葱糸威二枚胴具足(直江兼続所用)

 『色々威腹巻』の兜の前立は飯縄明神像が飾られており、謙信公の飯縄権現信仰を窺わせる。『飯縄』は『飯綱』とも書くそうで、刀鍛冶に『綱』の字がみられるのは宗教的なものからだろうか。備前には『安縄』という鍛冶もいた。どうも刀鍛冶と狐は無縁ではないのかもしれない。『紫糸威伊予札五枚胴具足』の兜の前立には雲上の日輪が象られており、その黄金の中に『摩利支尊天』、『毘沙門天王』、『日天大勝金剛』の神名を鋲で留めてあるそうだ。

・長巻 無銘 伝片山一文字 95.7㎝ 4.5㎝
・太刀 國宗(附)戒杖刀 78.2㎝ 5.4㎝
・大太刀 無銘 伝元重 110.3㎝ 4.9㎝

 無銘の長巻『伝片山一文字』は鎬造、庵棟、板目肌、小丁字。無銘の大太刀『伝元重』は鎬造、庵棟、板目肌、直刃調、丁字乱れ。
 そういえば『刀匠 神林恒平展』に『短刀(備州長船住景光 元亨三年三月日)』の写しがあったが、本物は謙信公の所用で、現在は『埼玉県立歴史と民俗の博物館』にあるそうだ。表に『秩父大菩薩』、裏に観音を表す梵字が彫られており、『黒漆小さ刀』の外装が附く。個人蔵で『岡山県立博物館』に謙信・景勝公所用の『号 山鳥毛』の太刀が寄託されているらしく、どちらも機会があれば見てみたい。

 すぐ側にある『米沢市上杉博物館』にも寄りたかったが、帰りは仙台までの距離113キロ走らなければならないので、今回は諦めることにする。次回は米沢をメインに、特別展でも狙って来てみよう。

2008年11月1日土曜日

東北歴史博物館『塩竈・松島 その景観と信仰』

 塩竃神社博物館で頂戴したフライヤーで『東北歴史博物館』の特別展『塩竈・松島 その景観と信仰』のことを知る。
 詳しいことが知りたくなり、サイトを見てみると、展示資料項目の中に『伊達家歴代藩主奉納太刀ならびに糸巻拵』が有り、俄然気になりだす。必ず展示されているとは限らないが、他の展示物も見てみたいので、東北歴史博物館へ。

 会場に入ると、先ずは『塩竈・松島の景観』というコーナーで『不動三尊像(五大堂御前立仏)』が出迎える。『不動明王二童子像』ともいい、瑞巌寺の秘仏 だそうだ。不動明王立像が矜羯羅童子と制多迦童子を両脇に従えた三尊で、このスタイルが多いようだ。童子は不動明王の眷属で他にも6人が居り、不動八大童 子という。機会があれ見てみたいものだ。他には『木造神使白鹿像』、『木造狛犬像』、『軍旗 一宮塩竈大明神』、『鹽竈神社縁起追考』などの巻子、屏風、棟札が有り、その後に待ってましたの刀剣類が数口展示されていた。

・太刀 来國光
・太刀 包蔵
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 國次

・金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵
・菊紋糸巻太刀拵

 来国光はやはり、こちらへ貸出中だったようだ。雲生も展示資料として予定されているようなので、期間中に他の太刀も含めて入替があるかもしれない。
 七代藩主重村公が宝暦八年(1758)七月十日に太刀を奉納した際、鍛刀を担当したのは『永茂・国次・包蔵』の三家で、もしかするとこの時の三口が今回展示されているのかもしれない。照明が暗く、刃文が確認出来る程度で、鍛えを見ることは出来なかった。
 『金梨地菊竹に雀紋蒔絵鞘糸巻太刀拵』は来国光の拵で、伊達家の家紋『竹に雀紋』と菊紋をあしらっている。『菊紋糸巻太刀拵』は見なれた金梨地に紺色の糸と、もう一口は黄金色ではなく赤の金梨地に萌葱色の糸。


 この後も古文書、絵画、板碑、能面、陶磁器など様々な展示資料が続き、古の塩釜・松島を堪能することが出来た。会場(特別展示室)を後にすると、すぐ向 かいに総合展示室というのがあるので入ってみる。どうやら、仙台市博物館でいう常設展のようなものらしい。東北地方の歴史を時代ごとに区切り、展示資料と ともに追って行く。
 そんな中、蝦夷平定の頃に使われいた武器類が特集されたコーナーがあった。坂上田村麻呂が佩用したとされる『黒漆剣(鞍馬寺蔵 重文)』、『蕨手刀(二戸市堀野遺跡)』『方頭大刀』、『圭頭大刀の柄頭』など何れも複製品であるが、これらを見ていると直刀から湾刀へ移行について考え ずにはいられない。
 日本刀が何時、何処で、誰によって完成されたかは未だはっきりわかっていない。私は奥州鍛冶が重要な鍵を握っているのは間違いないと思っている。蝦夷の 蕨手刀を除いては『直刀』が一般的だったのが、蝦夷平定後100年以上経ってから『毛抜形太刀』が現れてくる。蝦夷の鍛冶が俘囚として他の地域に移ってい き、彼らの技術が伝播していったのではないだろうか。
 おっと今度は久し振りに一関へ行きたくなってきた。