2011年3月13日日曜日

薬師堂、志波彦・鹽竃神社(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災三日目)

 震災三日目。昨日は新寺通りの寺を十宇ばかり見てきたが、どの寺も石仏や石灯籠に被害を受けていた。今日は『陸奥国分寺薬師堂』を見に行ってみることにする。

 薬師堂北方面から向かい、先ず公園内の準胝観音堂を見てみたが、やはり石仏が数体倒れていた。何れも損壊はしてはおらず、お堂も無事だった。

 次は薬師堂へ。西側から敷地に入ると、社務所前の倒れた石灯籠が目に入る。





 山門の方まで目をやると、参道脇の石灯籠が全て倒れていることがわかる。




 社殿も被害を受けたようで、窓の木枠が外れかかっていた。中の状況はわからないが、この程度で済んだのは幸いで、宮大工と神社建築技術の賜というべきだろうか。
 白山神社は入り口に紐が張られており、境内に侵入できなくなっていた。敷地の外から見る限り、お堂は無事のようだが、石灯籠が倒れているようだった。

 薬師堂は大きな被害を受けずに済んだが、志波彦神社と塩竈神社果たして無事なのだろうか。ラジオから得た情報によると、海の側は甚大な被害を受けたらし い。現在、バイパスの西側はどんな状況なのだろう。テレビもネットも使えないのでまとまった情報や映像が全く得られない。どうしても気になるので、危険な ら無理せず引き返そうと決め、塩竈へ向かう。 


 震災後に車を運転するのは、今日が初めてだ。信号が止まったままなので、そばの大通りに出るだけでもたいへんだ。最初の交差点で親切な方が路を譲ってく れたので、すぐに右折することができた。大きな通りに出てしまえば、あとは流れにそって行くだけだ。緊急事態なので、誰もが慎重な運転を心掛けているよう だ。しかし、扇町一丁目の交差点で、事故現場に遭遇してしまった。すでに警察官が実況見分をしているようだった。道路に男性が一人横たわっている。

 いつものように仙塩街道を走っていると、中野栄駅を過ぎた辺りから通行規制をしているようだった。ここから先は進めないのかと思いきや、片側交互通行 だった。前の車について行くが、極端にスピードが遅くなる。まさかここまで津波が来るわけはないし、道路に大きなヒビでも走ったのだろうか。しばらくすれ ば、規制区間も終わるだろうと高を括っていたが、どうも様子がおかしい。やがて信じられない光景が目に飛び込んできた。路は泥だらけで、沢山の車輌が車道 の両脇に止まっている。どの車もまるでスクラップ場の廃車のようだ。その横を徒歩や自転車で往来する人や、忙しそうに作業する人。普段から交通量は多い が、人通りが多いイメージは無い。一体何があったのだろう。戦争でもあったのかと思わせる、非現実的な風景。仙台から僅か数キロの多賀城市内とは思えな い。一体何があったのだろう…。徐行は続き、通行規制区域内では、家屋、車体などの撤去作業が行われていた。緊急の用があるわけでもないのにこのまま進ん でいいものかと迷ったが、この惨状を目の当たりにすると余計に神社が心配になってくる。
 後でわかったのだが、津波の影響で砂押川が氾濫し、周辺の地域が川の水に飲み込まれてしまったそうだ。道端の車は、その時流されたものだったのだ。車体 を流すほどの激流とはどれほど凄まじいのだろうか。想像もつかない。情報源が乏しいとはいえ、今まで多賀城がこんな悲惨な状態になっていたなんて、全く知 らなかった。
 
 念仏橋の辺りからスピードが出せるようになり、塩竈神社に無事辿り着くことが出来た。
 この非常事態に神社を訪れる人など少ないと思っていたのだが、駐車場には沢山の車が駐車されていた。神頼みに来たのか、それとも無事を感謝しに来たのだ ろうか。ところが境内には人の姿は殆ど見られない。やはりこんな時に、神社を訪れる人などいないようだ。恐らく駐車場の車は、避難のために停められている のだろう。

 先ず志波彦神社へ向かうが、正門が閉まっていて中に入ることはできなかった。何か被害を受けたのだろうか。心配である。




 一方、塩竈神社は境内に入ることが出来、門前の灯籠が一基倒れている以外はこれといった損害は無さそうだった。それにしても、いつもは多くの参拝客が訪れる拝殿に、今は人っ子一人いない。日曜の日中にこの状況は、一生に一度あるか無いかの希有なものだ。


 塩竈神社が津波の被害を受けずに済んだのは、当然神社が山の上にあるからだが、どうも元々一森山に鎮座していたわけではないらしい。

 菊地山哉の説では、塩竈神社はそもそも『六所神社』であり、陸奥の六所も多賀城の傍にあったのだという。蝦夷征伐のために六所が始まり、六所神社は国府 祭を行うために必ず国府の傍にあり、国司が夷狄降伏の祭りを行っていたのではないかとみている。『余目氏旧記』の「しほがまの明神とあらはれて、大同元年 に宮城のこほりに立給ふ、当永正十一年まで七百九年に成給ふ、昔は当国諸郡に神領有。」の一文を引用して、大同元年(806年)に陸奥の六所明神は成立 し、「どうも和泉三郎の寄進とあるところを見ると、大体奥州の国府は秀衡がうつしたらしく見られるので、その時に塩竈神社も移したんだろうと思う。平安末です。」と述べている。『こほり』とは国府のことであろうか。

 塩竈神社の遷宮についての史料は無いが、『神祇志料』に「塩竈神社今宮城郡塩竈村千賀山にあり、昔は神竈社の地に在りしを、後今の地に遷せり。塩竈を以 て霊とす。今本社の南、祭殿是なり。」とあり、『利府町誌(P289)』は、「塩釜神社の社人二九家のうち一五家が加瀬村に居住し、これにかつて加瀬村に 居住し藩政初期塩釜に移転した二家、さらに塩釜神社の元禄造替後、古内村只州神社に移転した只州太夫鎌田家を加えれば社人三〇家のうち、一八家が加瀬村に 居住していたことになる。(略)当時、加瀬村から塩釜神社に通うには、曲折の多い狭隘な急坂を越えなければならず、山犬や狼の危険もあったに相違いない。 それなのに、どうしてわざわざこのように不便な加瀬村に居住したのだろうか。とくに塩釜地主の神といわれる岐神、すなわち塩土老翁神を祭る別宮の一の祢 宜、二の祢宜、若子がすべて加瀬村に居住していた。これは別宮が右左宮の後に出来たとも考えられるし、留守家分限帳さとの人数十七家のうち別宮分と後に加 えられた神官が加瀬に住んだとも考えられ塩釜神社三社の成立と関係あるかもしれない。」と塩竈神社の社人が加瀬村に多数住んでいたことを指摘している。

 塩竈神社に蝦夷政策が関係しているのは間違いないと思うが、一森山への遷宮については、この度の東北地方太平洋沖地震を経験したために、平安時代の自然災害が影響しているのではないかと思うようになってきた。
 天長七年(830)年正月に、隣の国出羽で地震があり、秋田城に被害をもたらした。承和四年(837)四月には、現在の鳴子温泉辺りで火山の爆発があっ たという。そして貞観十一年(869)五月に、陸奥国で大地震が発生した。この地震で多賀城は倒壊したそうで、津波が城下(多賀城のことと思われる)にま で押し寄せたという記録もある。六所神社が多賀城の傍にあったとすれば、地震か津波の被害を受けたかもしれない。立て直しが必要になったとしたら勿論だ が、たとえ大きな被害を受けなかったしても、何れ来るかもしれない大地震や津波に備えて、山の上へ遷宮するというのはあり得ることだと思う。因みに前々か ら、南宮明神が多賀城の西に位置しているのが不思議でならなかった。現在の位置まで流されたのであろうか。それとも津波の及ばない辺りに立て直したのだろ うか。余所の六所でも洪水で流され、お宮の位置が変わることがあったようだ。山哉曰く、総社は平安末頃に出来たといい、これが本当なら貞観までの被害は受 けていないことになる。


                     参考文献『東国の歴史と史跡/菊地山哉』『多賀城市史1 原始・古代・中世』

2011年3月12日土曜日

国包の墓の被害(3.11 東北地方太平洋沖地震 震災二日目)

 震災二日目、一族の墓のことが気になるので、様子を見に行くことにする。


 昨日、神棚と仏壇を片付けたあと、近所の尼寺にある我が家の墓のことが気になりだした。墓場は一体どんな状況なのだろうか。かなりの強い揺れ(震度6)だったので、竿石の倒壊が心配だ…。

 外の様子も知りたかったので、昼食後に墓を見に行ってみることにした。
 震災後、最初の外出。信号が止まっていることに初めて気付く。

 尼寺に着いたものの、敷地内に立ち入ることは出来ず、墓の状態を確認することはできなかった。しかし、遠くから見る限りどの墓も無事のようだった。我が 家の墓は、祖父が早世した我が子の供養のために、東仙台の『大蓮寺』から三~四キロの道程を一人で運んだものなのだそうだ。宮城沖地震の際に倒れてしまい、傷を修正するために竿石がやや細くなってしまったそうだ。今回は無事で良かった。


 一安心し、その足で国包の墓がある善導寺へ行ってみることにする。
 新寺通りを目指しながら歩いていくと、いつもと変わらない風景があった。しかし、宮城野陸橋を歩いていて、視覚障害者用誘導ブロックとアスファルトの間 に長い亀裂が生じており、震災の爪痕を実感した。建物に関しては、大きく損壊しているものは見あたらなかったが、細かいヒビが入っていたり、タイルなど壁 の一部が落下しているものが幾つか見受けられた。

 ここまで大きな被害は無いようだったが、『道仁寺』の前に差し掛かって、目を疑った。正門が完全倒壊している。





 この他、通り沿いの寺は石仏や石灯籠などが軒並み倒壊していた。嫌な予感がする。


東秀院


林松院


林香院


 善導寺も例外ではなかった。よりにもよって、初代と五代目の墓が倒れていた。

 どうやら初代の墓石は前に倒れ、真下の香炉にぶつかって地面に転がったようだ。全面の法号『慧眼了真信男』の『慧』の字に白く長い筋が走っている。 『丰』の辺りに大きい傷が付いるが、これは以前からあったようだ。宮城沖地震の際に出来たものだろうか。香炉は今回の地震で欠けたのかわからないが、もし 宮城沖地震の時だとしたら、角がとれていたために、大きな傷が付かずに済んだのかもしれない。割れたり、大きく欠けなかったのは幸いだが、何だか顔に傷が ついたようで痛ましい。





 一方、五代目は真後ろにうつ伏せになって倒れている。墓石の後背に傷があり、左下の外柵が欠損しているので、大きな揺れのために斜め後ろに倒れ、外柵にぶつかり右横にうつ伏せになったのではないだろうか。倒れたのが土の上で良かった。





 その他、標識や記念碑などは一切無事である。しかし、隣の敷地の石仏などが無残にも転倒していた。





 『刀剣美術』の第83号(昭和38年9月10日)に日刀保の宮城県支部が『仙台国包の墓』という記事を寄せており、その中で「国包代々の没年、戒名については一部は誤り伝えられている向きも見受けられるが、火災のため焼失し、寺に過去帳も残されていない現在では墓標が唯一の手がかりなので、墓標に刻まれ ている文字をそのまま掲記してみると次の通りである。なお碑面は風化のため文字の判読が困難なものもあり、特に五代、八代等は、石質の関係もあって幾許もなく文字も消滅することが予想されるので、なんらかの方法で後世に記録を残す必要が痛感される次第である。」と碑面の状態について危惧している。拓本を取っておくべきとは安易な発想だろうか。今なら、3Dスキャナーなどのデジタル技術でデータをとることも可能だろう。五代目はうつ伏せの状態なので、碑面がどのようになっているのか、今の時点では残念ながら確認できない。

2011年1月3日月曜日

『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』

 今年の塩竈神社博物館の新春特別展は、『奉納太刀のかがやき - 藩主奉納太刀文化財指定三〇年 - 』だそうである。

例年なら初詣は三が日を避けるのだが、今年は気紛れで正月の三日に参拝へ出かける。今年の新春特別展は、奉納太刀の特集のようで楽しみである。
   しかし、やはり混んでいた。途中まで順調だったが、3号線と35号線の交差点手前から急に混み出し、遅々として進まない。何度も引き返そうと思ったが、時 間が半端で他に行ける所もない。渋滞にウンザリしていると、パトカーがアナウンスを始めた。どうやら駐車場まで、一時間待ちらしい。駐禁解除区域が設けら れているそうなので、そこに車を停める。神社まで坂道を歩くことになったが、然したる苦ではない。




  今回圧巻だったのは、一階の展示物の殆ど全てが太刀と拵だったことだ。なんと、現存する藩主奉納太刀三十五口全てが展示されている。以前から現存する奉納 太刀と拵を一通り見てみたいと思ったことがあったが、まさか本当に、それもこれ程早く実現するとは夢にも思わなかった。

・太刀 安倫
・太刀 家定
・太刀 重次
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 重勝
・太刀 家定
・太刀 来國光
・太刀 兼次
・太刀 源兼次
・太刀 包蔵
・太刀 包吉
・太刀 家定
・太刀 包蔵
・太刀 安倫
・太刀 兼次
・太刀 安倫
・太刀 永茂造
・太刀 兼次
・太刀 藤原國包
・太刀 騰雲子包光
・太刀 包倫作
・太刀 安倫
・太刀 騰雲子包光
・太刀 永茂
・太刀 田代秀太郎長俊(ウラ)文政十三年二月日
・太刀 藤原國包作
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 包蔵
・太刀 國次
・太刀 兼次
・太刀 國包(ウラ)天保十三歳八月日
・太刀 田代秀太郎藤原長俊造之(ウラ)天保十三年八月日
・太刀 國次(ウラ)天保十三年八月吉日

・別当法蓮寺記(安永三年頃)
・一宮秘蔵記(宝暦八年頃)
・鹽竈社寶物記(文久二年)
・一宮御寶庫御寶物録(安政四年)


  『一宮御宝庫御宝物録』の解説によると、寛政四年と文政十二年に宝蔵が盗難にあったという。現存しない『家定』、『包吉』、『安倫』、『国次』の四口は、 この何れかの時に盗まれたのだろうか。刀身が失われて残った糸巻太刀拵が、三口展示されていた。いつもなら拵だけでも何も気にせず見入るのだが、事情を知 ると複雑だ。

 メモをとりながら見学していると、隣にいた女性に「お好きなんですか?」と声をかけられる。突然のことに、「あ、はい…」 としか答えられなかった。気味悪がったのか気を使ったのかわからないが、会話はたったそれだけで終了。時間が迫っていてゆっくり話をしてる余裕はなかった ので、手短に終わって良かったのかもしれないが、なんだか居た堪れない気持ちになってしまった…。

 今回は時間があまりなく、思うように見学できなかったのが悔やまれる。期間中にまた来られればよいのだが。




 『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』には、奉納太刀の目録が記載されている。

 別当法蓮寺記
    御太刀之部
一 御太刀
 一 左宮安倫
 一 右宮家定
 一 別宮家定
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥入、結緒有、各三箱ニ入。
   右ハ 吉村君御家督御相續ニ付元祿十六年九月廿六日御奉納
       左宮家定
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家次
   但御拵、一宇金襴袋入、結緒共ニ白鞘有、桐白筥各三箱入、結緒有。
   右ハ 吉村君御入部以後、始而御参詣被遊候ニ付、寶永元年七月十日御奉納。
       左宮安倫
 一 御太刀 右宮家定
       別宮家定
   但御拵、右同斷、白鞘袋結緒等、一宇右同。寶永元年九月十日、右ハ御造替
    御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納。
       左宮重勝
 一 御太刀 右宮包吉
       別宮安倫
    但御拵各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右同斷ニ付、同年同月從 前太守綱村君御奉納。
       左宮包吉
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮兼次
    但御拵一宇箱之内外共ニ右同 各三筥ニ入、内外共ニ右同斷
    右ハ 宗吉君御家督御相續ニ付、寛保三年九月二日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮包蔵
       別宮家定
    但御拵等、筥入迄前々 吉村君御奉納被遊候通。
    宗村君御入部始而被遊候上、延享元年七月十日御奉納。
       左宮兼次
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵、筥入 吉村君御奉納之通。
    右ハ 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納。
       左宮永茂
 一 御太刀 右宮兼次
       別宮安倫
    但御拵等、前々御奉納之通。
    右ハ 重村君御入部以後、始而御参詣、寶暦八年七月十日被遊奉納候事。
    右御太刀三振ハ毎年七月大祭禮ニ御用立申候
    但七月大祭禮ニ付御用立申候、右御太刀ハ 御當代様ヨリ御奉納被遊候内、
    新ヲ御用立、古ヲ指置申候舊例之事。


 『鹽竃社寶物記』
  一宮鹽竃社御寶庫御寶物記
    第壹番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵一宇金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入右者 吉村君御家督御相續ニ付元祿拾六年九月廿六日御奉納也
       別宮重次
 一 御太刀 左宮家定
       右宮包蔵
    但御拵金襴袋入結緒共白鞘有桐之白箱各三箱ニ入結緒有右者 吉村君御入部以後始而御参詣ニ付寶永元年七月十日御奉納
       別宮家定
 一 御太刀 左宮安倫
       右宮家定
    但御拵右同斷白鞘結緒共一宇右同斷寶永元年九月十日右者御造替御遷宮ニ付 吉村君御参詣御奉納
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮重勝
    但御拵各三箱ニ入内外共ニ右同斷 右同斷ニ付同年同月從 前太守綱村君御奉納
       別宮兼次
 一 御太刀 左宮包吉
       右宮包蔵
    但御拵一宇箱之内外右同斷右者 宗吉君御家督御相續ニ付寛保三年九月二日御奉納

    第二番
       別宮家定
 一 御太刀 左宮兼次
       右宮包蔵
    但御拵箱入迄前年 吉村君御奉納之通右者 重村君御家督御相續ニ付、寶暦七年七月朔日御奉納

    第三番
       別宮國包 白鞘無之
 一 御太刀 左宮包倫
       右宮包光
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者文化十一年八月十一日 齊宗君始御参詣之節 御奉納也
       別宮安倫 身柄關金兩方共無之
 一 御太刀 左宮包倫 袋紐ノミニテ身無之
       右宮包光 袋坐金關金壹ツ無之
    但御拵一宇白鞘袋入金襴結緒共右者 齊宗君御家督御相續ニ付、文化九年三月十三日御奉納也、桐之白箱ニ入結緒在各三箱ニ入
       別宮
 一 御太刀 左宮
       右宮 作者脱落
    但御拵等前年御奉納之通右者 太守齊義君御入部以後初御参詣之節御奉納、文政三年七月十九日
    右御太刀者毎年七月大祭禮ニ御用以下文意不詳御當代御奉納之物納古用新
       別宮安倫
 一 御太刀 左宮包光
       右宮永茂
    但御拵同前文政三年七月十九日 齊義君御奉納内外前年之通 按恐愆尤
       別宮國包
 一 御太刀 左宮長俊
       右宮兼次
    但御拵一宇前年之通文政十二年二月廿六日 齊邦君御奉納

  『別当法蓮寺記』と『鹽竃社寶物記』を見比べてみると幾つかの相違がある。宝永元年の別宮が『別当~』は家次なのに対し、『鹽竃~』は重次。『別当~』の 延暦元年の三口が『鹽竃~』では宝暦七年となっている。そして、『別当~』の宝暦七年の三口が『鹽竃~』には見あたらない。鹽竃神社博物館配布の資料と見 比べてみると、「宝永元年の別宮」は重次が正解で、『別当~』の家次は誤り。『鹽竃~』の宝暦七年は延暦元年の誤り。宝暦七年は『別当~』のが正しく、 『鹽竃~』の方が抜けている。

2010年8月15日日曜日

終戦記念日の博物館巡り

 連休の後半、道路の空いている頃を見計らって恒例の東京刀剣ツアーへ。

 いつもは『東京国立博物館』と『刀剣博物館』の二ヶ所を訪れるパターンだが、今回はもう一ヶ所、見学地を追加する予定。
 最悪、Uターンラッシュは今日までかもしれないと覚悟はしていたが、特に渋滞に巻き込まれるようなことは殆どなかった。おかげで燃費効率の良い走りが出来た。





 栃木で車内へ急に闖入したスイッチョン。失礼、栃木ではケサカッカでしたか。東京まで連れて行こうかと思ったが、途中でいなくなってしまった。


 折角早めに上野に到着したのに、中々駐車場が見つからず、おまけに駐車場から博物館までの距離が遠くて相当タイムロスしてしまった。午前中に入館できるようにしたい…。




 漸く『東京国立博物館』へ辿り着き、さっさと入館し、早速『刀剣』コーナーへ。

・剣 無銘
・太刀 髙綱
・短刀 吉光(名物 厚藤四郎)
・太刀 包永
・短刀 備州長船住兼光
・太刀 雲生
・刀 (金象嵌銘)城和泉守所持 正宗磨上 本阿(花押) (名物 城和泉守正宗)
・短刀 則重
・太刀 備州長船盛光(ウラ)応永廿三年八月日
・刀 備前國住長船次郎左衛門尉勝光 同左京進宗光
・太刀 國廣
・刀 石堂運壽是一作(ウラ)嘉永六年八月日

 今回展示されていたのは切刃造の剣、古備前『高綱』、粟田口『平野藤四郎吉光』、手掻『平三郎包永』、景光の子『兼光』、宇廿『雲生』、相州『五郎入道 正宗』、越中『九郎三郎則重』、師光の子『修理亮盛光』、祐光の子『右京亮勝光・左京進宗光』、『堀川国広』、『七代石堂是一』など十二口。特に高綱は珍 しい。名物は『厚藤四郎』と『城和泉守正宗』。

 次は二階の『武士の装い』コーナー。

・黒漆銀銅蛭巻太刀拵
・菊造腰刀拵
・太刀 無銘(号北条太刀)
・三鱗紋兵庫鎖太刀拵(号北条太刀の拵)
・太刀 無銘(菊紋)(伝後鳥羽上皇御作)
・黒漆打刀拵(伝後鳥羽上皇御作の拵)
・太刀 國宗
・桐紋蒔絵糸巻太刀拵(國宗の拵)
・長刀 備州長船住元重(ウラ)建武五年三月日
・大笹穂槍 下坂孫次郎(ウラ)慶長拾六伏見三年在番之時長坂茶利九郎ウタスル也

 北条氏が三島大社に奉納したという『号北条太刀』は無銘の福岡一文字。菊紋の太刀は『菊作』、『菊御作』と謂われ、後鳥羽上皇の御作と伝わる。『備前三郎国宗』は新藤五国光の師、或いは父とも。
 もう一度、一階の刀剣コーナーと二階の『武士の装い』コーナーを見て廻り、このあとの予定のために早めに切り上げることにする。


 『刀剣博物館博』では現在、『古刀新刀名作展~豊かなる鉄の味わい~』が開催(平成22年6月29日~10月24日)されている。




・短刀 吉光
・短刀 貞興
・太刀 兼永
・短刀 来國次
・脇指 長谷部國信
・刀 (金象嵌銘)尻懸則長磨上之 本阿(花押)(光室)
・脇指 無銘(伝 正宗)
・短刀 兼友
・太刀 月山作
・刀 冬廣作
・太刀 真景
・太刀 信房作
・太刀 長光
・太刀 真長 (附)黒石地腰印籠刻青貝微塵塗鞘桐紋散金具半太刀拵
・刀 無銘(伝 近景)(金象嵌銘)笹之雪
・太刀 備州長船盛光(ウラ)応永十二年八月日
・短刀 清綱
・太刀 豊後國僧定秀作
・短刀 山城國西陣住人埋め忠明壽(花押)(ウラ)慶長拾七年八月日
・刀 國廣
・脇指 出羽大掾藤原國路(ウラ)寛永七年八月吉日
・脇指 津田越前守助廣(ウラ)延宝六年八月日
・短刀 繁慶
・刀 奥州仙䑓住國包(ウラ)寛文五年三月吉日
・刀 (一葉葵紋)主馬首一平安代
・刀 荘司筑前大掾大慶藤直胤(花押)(ウラ)文政四年五月日
・刀 豊永東虎左行秀 為嫡子幾馬(ウラ)明治三年二月吉日 行年五十八歳造之
・刀 津田近江守助直(ウラ)元禄二歳二月日 以地鉄颪造之
・脇指 長曽祢興里真鍛作
・刀 肥前國近江大掾藤原忠廣
・刀 長幸於摂津國作之(ウラ)以幡州完栗鋼鉄作之
・短刀 越前國康継 本多飛騨守所持内(ウラ)なんはんかね 三条こかぢ迫

・太刀 俊平 昭和五十五年十月廿二日 昭和五十三年度操業日刀保タタラ玉鋼試作刀
・脇指 以日立新玉鋼 宮入行平作 昭和五十二年正月

 何といっても『真景』が一番よかった。大好きな板目物なのだが、初めて見る名前だ。解説によると平安末期の伯耆鍛冶だという。『舞草』の太刀を見たとき以来の「グッと来る」感動である。本当に東京へ来てよかった。暑い思いをして代々木へ来てよかった…。
 前回の『鈴木嘉定コレクション』で見た覚えのあるものが数口あったのが気になったが、良いものは何度見てもいいのだ。
 もっと見ていたいところだが、もう一ヶ所廻らなければならないので、この場を後にすることにする。名残惜しいが、また今度改めて来よう。


 そして、最後の一ヶ所とは…靖國神社の『遊就館』である。以前から行ってみたいと思っていたのだが、要領が悪いために『東博』と『刀博』の二ヶ所を見る だけで精一杯で、『遊就館』まで行く余裕はなかった。『東博』か『刀博』のどちらかを諦めようとも思ったが、結局できなかった。 今日まで果たせずにい た。せっかく終戦記念日に上京するのだから、是非とも『遊就館』を拝観しようと思い立ったわけである。といっても目的は飽くまで刀なので、

 市ヶ谷駅を降りて、取りあえず大通りを進んだが、自信がない。「靖國神社→」とか案内が有っても良さそうなものだが、これが全くない。段々不安になって くるし、時間に余裕もないし、このまま歩き続けていいものかと考えていたら、左手に緑が見えた。神社に付きものの鎮守の森かなと思い、とりあえず其方へ向 かうが、ただの川沿いの緑地らしかった。しようがないので手前で右折し、両側を学校に挟まれた道をしばらく行くと、数人の警官が立っている。初めは事件か 事故かなとも思ったが、更に進むと数人の警官と機動隊バスを見つけ、靖國神社の警備だと気づく。右手が神社の敷地であるという確信を得るが、今度は入り口 がどこかわからない。前方に目をやると丁字路になっており、道路の前で塀が途切れて、路上に立番する警官とバリケードが見える。「ここを右に曲がったほう がいいような気がするが、立ち入り禁止かもしれないがどうしよう…」と迷っていると、普通に進入する一般人がいたので、ドキドキしながら右折する。すぐ先 には大きな門が見えるではないか。どうやら神社に到着したらしい。しかし、この門は北門らしく、直ぐ右手に『遊就館』が有ったので探す手間が省けた。結果 的オーライということか?結局、大通り(靖国通り)をあのまま真っ直ぐ進めばよかったのに、途中で左折したために靖国通りの真裏を迂回するハメになってし まったようだ。





 終戦記念日のためか、もう夕方の四時だというのに多くの参拝客が神社を訪れていた。





 かの『今井長賀』はここ遊就館の取締役だったことがあるそうで、また明治三十一年から五年間、遊就館で『剣話会』の講師として、別役成義と二氏で刀剣の 講話を行っていたそうだ。講話の内容は速記録を基に『剣話録』として刊行され、後に『今村別役刀剣講話(辻本直男監修)』が改めて発行されている。

 『遊就館』の玄関ホールは沢山の人で賑わっていた。戦闘機や機関車が展示されているのには驚いたが、先ずは受付を済ませ、エスカレーターで二階へ上がる。
 展示室1『武人のこころ』では元帥刀が見事にショウアップされている。

・太刀 笠間繁継(元帥刀)

 元帥刀というと西洋風のサーベルのような軍刀を連想してしまうが、展示されていたのは純然たる日本刀と大昔の衛府の太刀を思わせる姿の拵であった。た だ、刀身は一般的な鋒造ではなく諸刃鋒造で、拵は毛抜形太刀。柄は毛抜形の目貫が据えられており、中子共々も毛抜形に刳り抜かれているわけではない。正 直、軍刀には全く興味がないのだが、眼前にある元帥刀には心惹かれてしまった。特に地板の色合いが印象的だった。それにしても、刀身の形状を諸刃鋒造にし たのは何故なのだろうか?かつて大将軍の絶対的な権限の象徴として、出征する将軍や遣唐使へ節刀を授与していたが、元帥刀はそれに習ったものだろうか。元 帥刀は「国家・国民守護の象徴」として元帥府の大将に下賜されたそうだ。『笠間繁継』は『水心子正秀』の門人『中山一貫斉義弘』の系統で、『繁寿』の弟子 で『宮入昭平』の師だそうだ。

 次は展示室2『日本の武の歴史』。刀剣や甲冑など、戦前の武具が時代を追って陳列されている。勿論、目当ての刀剣類はこの展示室にあるのだ。

・太刀 帝室技藝員月山貞一八十一歳謹作
・太刀 國継
・脇指 無銘(包丁正宗)
・刀 (金象嵌銘)青江
・刀 村正
・大太刀 備州長船盛光
・大太刀 九州筑前住源信國助左衛門尉吉包(ウラ)寛文十二年八月吉日
・槍 水心子正次作
・長巻 九州筑前住人源信國平四郎作
・脇指 越前國康継作
・刀 陸奥守大道
・刀 肥前國忠吉
・刀 民龍子壽實(ウラ)文化八年八月日
・脇指 次郎太郎直勝(ウラ)天保四年十二月日
・脇指 水心子正秀(花押)(ウラ)寛政九年八月日
・靖國刀 靖光謹作
・靖國刀 (金象嵌銘)靖光謹作(ウラ)昭和十二年九月吉日靖國神社第七代宮司大野俊康所持平成八年十二月八日識

・毛抜形太刀(模造 宮口正房製作)

 
 『国継』の名を今日初めて知ったが、古刀期に大和や備前に五人の同名鍛冶がいたようだ。
 『包丁正宗』は大味というか、これといって見るべき所が無く少々ガッカリした。全体的に鈍い銀色で、彫り物がなんだか道教の札の様な印象を与える。

 その後、日本の戦争の歴史を展示物と共に順に追っていく。一階に下りると英霊の写真や遺品が多く展示されており、それを見るのがとても辛かった。失礼とは思いながらも、閉館時間が迫っていたので、駆け足で館内を一通り見学して歩いた。




 そろそろ時間なので、南門を出て靖国通り通って帰る。

 
 翌日、真景のことを調べようと思ったが、図版どころか名前すら見あたらなかった。十月には国立博物館の刀剣コーナーが入れ替えられるようなので、その時にもう一度真景を見に刀剣博物館へ行きたいと思う。
 スマートフォン欲しい…。

2010年7月18日日曜日

夏の観音山

 本日は一関へ。

 先ずは久しぶりに厳美渓へ。岩手・宮城内陸地震の後に訪れて以来だ。




 次は一関市博物館へ。

・太刀 舞草
・太刀 友安
・脇指 寶壽(ウラ)貞治三年八月日
・脇指 寶壽
・刀 無銘(月山)
・太刀 山城大掾藤原國包
・刀 應沼田延道需文久元辛酉春 鍛之一関士源宗明
・刀 之一関士源宗明作應 藩士文之助森君需(ウラ)文久二年八月吉日 あらえみしたちもきらすハ武士のさけはくものの名をいかにせん
・脇指 明弘
・剣 無銘
・小太刀 無銘(藤島友重)
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 肥前國住藤原忠廣
・脇指 對馬守橘常光

 いつもは四方のケースの内、一方に刀と全く関わりのない物が展示されているのだが、今日は四方全てが刀で埋め尽くされていた。展示スペースの都合など 色々事情があるのだろうが、『舞草と刀剣』のコーナーなのだから、できれば刀剣や儛草に関わるもので統一していただきたい。


 定番になりつつなるが、博物館の次は儛草神社へ。そういえば、夏の観音山初めてである。



夏に訪れて、ようやく『あじさい東参道』の由来を知ることが出来た


黄金色もいいが、青々とした水田も美しい


 遺跡を一通り巡廻したかったが、草深く何処をどう進んでいいのか全くわからず、奥へ踏み入るのを断念した。参道へ戻る頃には蜘蛛の糸が貼り付き、腕には山蛭が這っていた。

2010年6月27日日曜日

登米市歴史博物館『刀の拵~華麗なる刀剣外装の美~』


 『登米市歴史博物館』で開催中の『刀の拵』を見に行く。

  昨日、塩釜神社博物館内で『刀の拵』のという企画展の案内を見かけたのだが、帰りの車中で行こうかどうしようか少々迷っていた。なぜ迷ったかというと、拵 の展示が中心で恐らく刀身は期待できないだろうし、道の下調べが面倒だからである。しかし、折角の県内で見られる刀剣関係の展示会なので、塩竈神社博物館で揚がったテンションそのままに企画展へ出かけることにした。 
 帰宅してから調べてみたところ、企画展『刀の拵~華麗なる刀剣外装の美~』は、『登米市歴史博物館』の開館10周年記念展なのだそうだ。よく見ると、日刀保の宮城県支部が共同主催のようで、期待が高まる。




受付で入場料を払おうとしたら、思いがけず帳面への記帳を促された。なんだか仰々しいなとも思ったが、その代わり入場料は無料だった。
 企画展の展示室は、受付の直ぐ隣なので早速見学開始。

・青貝塗千鳥貝散鞘大小拵
・朱塗藍鮫皮包鞘打刀拵
・紫貝塗込鞘脇指拵
・孔雀石研出鞘打刀拵
・茶漆斜刷毛目塗青貝部分微塵散打刀拵
・梅花皮鮫黒研出鞘打刀拵
・変塗鞘脇指拵
・黒呂色塗蒔絵鞘打刀拵
・朱変塗菊紋金蒔絵鞘打刀拵
・朱黒漆片身替鞘打刀拵
・青貝微塵黒蛭巻鞘打刀拵
・麻糸巻朱漆黒卯殻微塵塗蛭巻鞘打刀拵
・青貝微塵散金切金塗込鞘脇指拵
・金粉平目地刷毛目模様塗鞘打刀拵
・藍鮫砂出黒漆卍紋塗鞘脇指拵
・黒漆塗九曜紋鞘半太刀拵
・黒塗藍鮫皮包二分刻鞘打刀拵
・尻鞘
・金梨子地桐葵紋散蒔絵糸巻太刀拵
・黒漆塗葵紋散蒔絵太刀拵
・金梨子地樋樫木唐草竹雀巴紋蒔絵鞘細太刀拵
・黒漆研出鮫皮包鞘大小拵
・赤茶漆塗鞘大小拵
・梅花皮鮫黒研出鞘大小拵
・棕櫚塗込鞘大小拵
・孔雀石研出鞘大小拵
・青貝微塵散金粉変塗鞘大小拵
・青貝微塵変塗鞘大小拵
・黒呂色塗刻鞘大小拵
・黒石目地鞘大小拵
・片身替黒漆鶴足皮包金粉平目地鞘打刀拵

 展示室の四方の壁面ケースに大量の拵が、中央の覗き型ケースには小道具類が展示されていた。やはり刀剣の展示は無かったが、ご存じ『稲荷山小鍛治』の作者尾形月耕の『夜討曽我』が飾られていた。
 解説が無かったので製作時期など詳しいことはわからなかったが、拵の名称は色や模様、材質、形状などを特徴をそのまま表しているので、どの言葉がどの部分を指しているのか考えるだけでも面白い。


 企画展示室の隣の部屋(常設展示室)も念のため覗いてみると、大太刀が展示されていた。

・大太刀 八幡宮 奉献上 藤原春康 元禄四年辛未年八月十五日 敬白

 作者銘が無いので誰の製作かわからないが、登米近辺に住した刀鍛冶の手によるものなのだろうか。『仙台藩刀匠銘譜』の仙台藩刀匠譜略によると、享保頃に 栗原郡高清水住の伝四郎正利という鍛冶がいたそうだ。彼は出羽国の善兵衛の弟子だったが、世継相続を許されず、野鍛冶になったという。野鍛冶は槍を作るこ ともあったというし、一応、刀鍛冶の元で修行した経験を見込んで大太刀の製作を依頼したという可能性はないだろうか?


 今回の企画展は博物館の開館10周年記念展ということだが、次は20周年記念になるのだろうか。できれば記念展に拘らず、日刀保宮城県支部の企画展をどんどん開催していただきたい。


 『石ノ森章太郎ふるさと記念館』へも行ってみたかったが、丁度良い時間なので今日はこのまま帰ることにした。時間があれば『登米懐古館』へ寄ってみてもよかったな。

2010年6月26日土曜日

塩竈神社博物館

 初詣以来、半年ぶりの『塩竈神社博物館』。

 前回は『新春特別展 仙台の刀工安倫』が開催されていたので、正月早々沢山の刀剣を見ることが出来た。しかし、今日は特に特別展が催されているわけではないので、「来国光か雲生が見られればいいや」と期待せずに塩竈神社へ向かう。
 博物館へ入館すると受付に誰も居なかったので、そのうち誰か来るだろうとしばらく入口で待つことにした。何気なくいつも刀剣類が展示されている辺りに目 をやると、通常より広めに展示スペースがとられていることに気付いた。否応にも期待が高まる。暫くすると学芸員が見えられたので、受付を済ませ目当ての コーナーへ真っ先に向かう。見学を始める前に、刀剣類が展示スペースがどれくらいか気になったので、入り口から死角になって見えない奥のスペースを見やる と、そこも殆ど刀剣で占められていた。正月の特別展とほぼ同じ展示面積である。

・太刀 来國光
・刀 (菊紋)一 奉納造鹽竈大明神 神釖一腰 同所住御硑高橋善助磨是 寛文四年七月十日
    (裏)奥州仙臺住田代摂津守藤原永重作 弟子重則重清
・太刀 重勝
・太刀 (菊紋)一 永茂
・太刀 永茂
・太刀 田代秀太郎藤原長俊造之(裏)天保十三年八月日
・刀 仙臺住白龍子永繁(裏)明治元年十二月日
・太刀 藤原國包
・太刀 藤原國包作
・太刀 包吉
・太刀 兼次
・太刀 包蔵
・太刀 國次
・脇指 奉献納寶剣一振 塩竈大明神御廣前(裏)奥刕仙䑓住家定 元禄七年五月廿一日以南蛮鉄鍛之
・剣 奉納寶剣一振 家定 塩竈大明神御廣前(裏)元禄九年二月吉日 仙䑓住福田助左衛門
・太刀 家定
・太刀 家定
・太刀 安倫
・太刀 安倫
・太刀 安倫
・脇指 奉納鹽竈宮大明神御寶前 武江城下之住 山野氏久英
 (裏)本國常陸住人至半佰 肥後守橘吉次作之 於武列江戸鍛冶士精盡
・刀 月山金利

 いつもの入館料200円でこの刀剣数はかなりのお得感がある。大満足である。もしかして前回、学芸員の方に刀剣類のスペースを増やして欲しいと要望したのが聞き届けられたのであろうか。その代わり、急に2~5月の展示内容が気になってしまった…。
 館内で『刀の拵』という企画展の案内が目に入った。場所は『登米市歴史博物館』。拵が中心で刀身は展示されてなさそうだが、面白そうなので明日行ってみようか…?