2009年5月4日月曜日

蟹仙洞博物館

 本日は山形の上山へ。
  一日身体を休め、上山にある『蟹仙洞博物館』 を訪れてみることにする。前回、上山へ訪れた時はこの『蟹仙洞』のことを知らないでいた。長谷川謙三という方が個人で収集した彫漆などを展示している博物館で、刀もいくつかあるらしい。

 出発する時間が遅かったのも悪かったが、愛子を抜けるまでひどい渋滞だった。

 上山入りは何の苦もなくできたが、肝心の『蟹仙洞』は中々見つけられなかった。近くまで来ているのは確かなのだが、それらしい建物は見当たらない。この ままでは時間の無駄なので、道に立っていたお母さんに訪ねてみる。やはりそう遠くではないようで、詳しい道順を教えて頂き、道を急いだ。

 やっと着いてみると、一見蔵のような建物で、遠く離れた場所からでは絶対にわからない。




 玄関でスリッパに履き替え、係の方に入場料を払う。
 最初の部屋が刀剣コーナーだったため、逸る気持ちを押さえることなく見学をはじめられた。

 ・短刀 備州長船景光(裏)元亨二二年三月十六日  附)短刀拵 八寸二分半
 ・脇指 長谷部國重  55.45
 ・短刀 月山 附短刀拵  20.6
 ・太刀 備前長船重吉(裏)明徳三年十月日  60.9 附)菊葉紋蒔絵糸巻太刀拵
 ・刀 兼元  二尺三寸一分
 ・刀 肥前國住近江大掾藤原忠廣  70.45
 ・脇指 山城大掾藤原國包(花押)(裏)寛永十一年八月
 ・刀 長曽袮興里入道虎徹  70.9
 ・刀 和泉守藤原國定  70.75 (井上真改代作)

 ・六十二間星兜
 ・鎧櫃 結城哲雄作
 ・鳥柏葉文蒔絵太刀掛
 ・紅白糸威二枚胴具足
 ・葵紋散蒔絵短刀箱
 ・緋羅紗地葵紋短刀箱覆

 その他、鍔や小道具も多数展示されていた。そして折紙。折紙はあるが、肝心の刀がこの博物館には存在しない。盗まれてしまったからだ。詳しいことはわか らないが、重文の国次、兼光、長義、をはじめ、重美の虎徹、行平(指定無し?)、助真など名立たる名刀が悉く盗まれてしまったそうだ。図鑑などで写真を見 ることはできるが、やはり実物を見てみたかった。盗難リストに光包は無いようだが、無事なのだろうか?

 一昨日は火災による刀剣の焼失、今日は心無い者による窃盗。天災と人災によって刀が失われることについて考えさせられると、とても辛い気持ちになる。盗 まれた刀はこの世から消えて無くなったわけではないが、日の当たる場所へ再び現れるのは難しいのではないだろうか。最悪、手に入れた者が死んだ後、誰も盗 まれた刀の手入れをする者がなく、死蔵され錆びて朽ちていく…。考えただけでもゾッとするが、家に伝わる宝刀が蔵や押入の奥で、人知れず朽ちていくという 事は珍しい事ではないと思う。博物館の学芸員が旧蔵品を寄付してもらう為に、民家などを訪ね歩くそうであるが、刀を駄目にするくらいなら逸そ然るべき所に 寄贈するか、売り払うべきだと思う。刀にとっては手入れされることもなく、忘れ去られる事は大変な不幸だと思う。

 いつも博物館などでなるべく尋ねるようにしてるので、受付の方に「入れ替えはないのですか?」と聞いてみると「入れ替えも何も、殆ど盗まれてしまってね…。展示してあるのが全部です」という答えだった。私は胸が痛くなり、何とも遣る瀬無い気持ちになってしまった。

 そういえば見学中、先客の女性二人が受付の方と話しているのが聞こえてきた。どうやら何処かの研究室の方らしく、(多分)彫漆を撮影させて欲しいと交渉 していた。どうやらこの博物館に収蔵されている彫漆はとても貴重な物ばかりらしい。私は門外漢なので彫漆のことはまったくわからないが、展示されている刀 剣の質から考えると、他の展示物も一級品ばかりなのだろうなと得心出来る。話はまとまったようで、女性は後日改めて来館する約束を取り付けていた。目出度 し目出度し。

 刀を見終えた後、館内を一通り見て廻り、彫漆のコーナー(ここが一番広く充実している)へ向かう。どれも価値のあるものなのだろうが、私には見方がさっ ぱりわからない。私には見る目が無いとつくづく自分が嫌になってしまった。せめて刀を見る目だけでも養わないと。今は『好きだから見ている』に過ぎず、決 して善し悪しが解っているわけではない。
 仙台から近いし、隠れ家的な所がいいので幾度となく足を運びたいと思う。


 次は米沢へ行きたい所だが、その前に上山と米沢の真ん中にある南陽市へ向かう。『鉄と俘囚の古代史/柴田弘武』によると、南陽市の池黒というところには 『池黒皇大神社』という神社があり、そこには『宗近』の名が出てくる棟札が納められているそうだ。また周辺には、俘囚が住んでいたと思われる『別所』が地 名として残っているという。

 南陽市へは南下するだけなのでわけなく入れたが、目的地の池黒には中々辿り着けなかった。散々迷い、一度はすぐ近くの集会所まで来たのに、神社に気付かずその場からまた離れてしまった。また迷走。どうにか神社を見つけることが出来たが、相当時間を喰ってしまった。

 立派な案内に神社の由緒が書かれている。




池黒皇大神社由緒

 当皇大神社建立の起源は、桓武天皇の延暦年間(西暦七百八十二年~)、今をさかのぼること一千二百二十余年前において坂之上田村麻呂将軍東征の際、屯軍 の地として城壁を築き社を建て天照皇大神、豊受大神、鹿島大神を祀れる。故に、古来より坂之上神明神社と称するものなり。
 白河天皇の応徳三年丙寅歳(西暦一千八十六年)今より九百二十二年前、当山別当職出羽神輿麻呂により再建し奉るものなり。(当時の棟札現存し、市文化財の指定をうけている)
更に、後水尾天皇の元和年間(西暦一千六百十五年~)伊勢国伊勢山源海寺別当に請い、天照皇大神社を再び勧請し奉り天下泰平を祈る。元和七年、北条郷代官安部右馬助及び総氏子の請願により、源海寺別当、元和八年当社に転住する、都合三度の建立を経て現在に至るものなり。
 (祭礼、例大祭四月二十一日、新嘗祭九月十六日)
 源義経公奥州下向の際、当社の御神徳に浴し先勝を祈願され馬具及び甲冑を奉納せられしこと明らかなり。
又、当皇大神社より午の方(現在の猫子の地)に、義経公愛用の麗馬(黒馬)生まれし池の旧跡あり。是、池黒の名の興りし所以なり。古来より柵を廻らし、馬頭豊受大神を祀り、当社別宮として毎年四月二十一日祭礼したるものなり。
 右、皇大神社由緒なるが、古来より緒人の崇敬深厚にして、御神徳を仰ぎ奉るものなり。
    平成二十年丙子歳九月吉日


 白山神や聖観音の名が出てくるものとばかり思っていたが、ここ皇大神社は違うようだ。『当時の棟札』とは、例の宗近の名が出てくる棟札のことだろうか。




池黒皇大神社



 残念ながら棟札を見ることは出来なかった。市文化財に指定されるほど重要なのだから、社務所或いは他所で大切に保管されているのだろう。因みに棟札には次の様に記されているという。
 「応徳三年丙寅七月十有五日
  当山別当職出羽神輿麿啓白
  奉再立天照皇大神宮
    国家安泰如意祈所
  木刻師□□鍛冶三条小□宗近
  □□□」
 『鍛冶三条小□宗近』の□には、一体何という文字が入るのだろうか?宗近は『三条小鍛冶』の通り名で知られるが、三条の前に鍛冶の字は既に使われている し、鍛冶は二文字だから違うだろう。今一つ、『小狐』というのがり、これなら一文字だからしっくりくる。しかし、『小狐』は宗近の作った刀に対する通称な ので、これに果たして当てはまるかどうか。




 神社の横には道があり、羽黒神社へ繋がっているようなので、進んでみる。思った以上に足場が悪く登りがきつい。すぐ裏にあるのかと思いきや、大分歩かされてしまった。




 この裏にも道が続いていたが、これ以上進む気にはなれず、引き返すことにした。帰りは下りが多く幾分楽だったが、足を取られそうで気が抜けなかった。


 この後、米沢に行きたかったが、蟹仙洞、皇大神社と目的地を見つけるのに手間取り、すっかり時間がなくなってしまった。ゴールデンウィーク真最中で道路も大分込むだろうからと大人しく引き上げることにした。

2009年5月2日土曜日

日光東照宮宝物館

 ゴールデンウィーク第一弾は『日光東照宮』へ。

 GWを利用して遠出することにしたが、ETCを装備していないのでその恩恵を受けられず、東北、北関東圏から目的地を選ぶことにする。色々考えて、今回は日光に決める。目的地は『日光東照宮』で、お目当ては『日光東照宮宝物館』。家康公の愛刀や、奉納された刀剣が沢山あることだろう。楽しみである。

 皆、高速道路を利用しているのか、一般道はそれほど混雑しておらず、あまりストレスを受けずに日光入りできた。東照宮に着くまで少々迷ったり、駐車場までの長い列と急な坂道は大変だったが、どうにか東照宮へ到着することが出来た。


 適当に敷地内を見て廻り、『日光東照宮宝物館』へ。


 ・太刀 兼常  68.0 1.8
 ・短刀 越前康継  36.9 0.5
 ・太刀 肥前國住人忠吉作
 ・大太刀 捧伊賀守藤原金道(裏)寛永三年十一月吉日  79.5 1.4
 ・脇指 備前國住長船勝光宗光備中於草壁作(裏)文明十九年二月吉日  附)小さ刀拵
 ・大太刀 奉献上御太刀康継以南蛮鉄江戸作之(裏)寛文三癸卯年四月十七日三代目下坂  100.9
 ・太刀 和泉大掾藤原國輝 附糸巻太刀拵  70.2 2.0
 ・太刀 家次 附糸巻太刀拵  72.9 2.6
 ・長刀 備州長船景光  57.6
 ・短刀 無銘(伝行光)  26 附)合口拵
 ・太刀 守高  58.5 2.1


 一番感激したのは、何といっても初代忠吉を初めて見られたことだ。忠吉といえば『五字忠吉』が珍重されているが、展示されているのは俗に『住人忠吉』というそうだ。『肥前刀大鑑 忠吉編』には次の様にある。「慶長十八年八月から元和元年にかけて「肥前国住人忠吉作」と銘を切ったものがあるが、この場合必ず上記の如く「作」の字を入 れて八字銘に切っていることに注目したく、「作」の字のないものは四代銘か偽銘である。」


 館内の説明文によると、文化九年(1812)大晦日の夜に別所大楽院が火災が起り、宝蔵(銅神庫)にまで延焼したため、家康遺愛の品々のほとんどが焼損してしまった。その中には助平、包平、正恒、友成、助真、国宗、長光、了戒など在銘の名刀が含まれていた。なんとも残念な話だ…。その内、十五振りは 現代の刀匠により立派に再刃復元され、常時宝物館に展示されているそうだ。もし火事で焼けてしまう前の、健全だった姿を写し取った押型があるのなら、それ も一緒に展示してもらいたいものだ。

 徳川家ではその他にも火災により、名刀を焼失する災難に遭っている。川口陟の『日本刀剣全史7(江戸時代2)』に二件の事例が紹介されている。

 「慶長十二年十二月二十二日丑時(午前二時)駿府城が失火した。折から家康は心地例ならず打伏していたが、中山雅楽助信吉に助けられて事なきをえた。つ ねづね次の室においてあった刀箱二個の中、一個には三十四本の刀が入れてあったが無事に取出し、他の一個は七十二本入れてあったために重くて取り出すこと ができず、箱を打ち破って刀はみな池の中へ投げ入れたので焼失を免れたが、座右におかれた宝物は一として烏有たらざるはなかった。豊臣秀吉から贈られた白 雲の茶壺真壺、正宗の脇差、三原の脇差、獅子の笛なども焼失した。(略)明暦三年正月十八日および十九日の江戸の大火は、江戸城本丸、二の丸残らず炎上、 江戸城にあった太刀刀類千五十一腰が焼失した。いま『桜嶽斉雑妙』なる随筆によればその焼失の主なものは左のとおりである。
 ・一、無銘藤四郎(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、豊後藤四郎 一、新身藤四郎 一、シノギ藤四郎 一、飯塚藤四郎 一、庖丁藤四郎 一、米沢藤四郎 一、樋口藤四郎
 右ノ外御脇差三百枚計ノ吉光数多
  一、三吉正宗(寛明間記に三好正宗) 一、八幡正宗 一、長銘正宗 一、対馬正宗 一、横雲正宗 一、道合正宗(十河正宗の誤か) 一、シノ木宗近 (刀剣名物帳焼失の部になし) 一、小脇差行平 一、青木國次 一、三斎國次 一、不動國平(不動國行の誤か) 一、骨ハミ吉光 一、大シヤ國吉(大子屋 國吉) 一、村雲当麻(刀剣名物帳焼失の部になし) 一、岐阜國次(岐阜國吉か) 一、三吉江(三好江) 一、西タカ江 一、上杉江 一、上野江 一、紀 州江 一、伏見正宗 一、蜂屋江
 此外正宗の刀数多
 右馬頭様(甲府綱重)の御道具
 一、上野紀新太夫 一、吉光の一振(一期一振のことか) 一、の法國綱 一、秋田行平 一、しめ丸行平
 此外千貫計の行平数多、百枚二百枚の御道具数多、三十腰計入箱二十計の内五箱出る、十五箱は御本丸にて焼失す」

 以上、徳川家の蒙った刀剣焼失の事例を二つ挙げたが、明暦の大火に加え、本能寺の変、大阪城落城などで焼失や行方知れずになった名物の刀剣が、いわゆる『享保名物牒(公儀本)』の中に『古来之名物焼失之部』としてまとめられている。

 『骨喰藤四郎、一期一振藤四郎、大阪新身藤四郎、江戸新身藤四郎、長岡藤四郎吉光、塩河藤四郎、親子藤四郎、庖丁藤四郎、車屋藤四郎、豊後藤四郎、樋口 藤四郎、大森藤四郎、米沢藤四郎、凌藤四郎、鯰尾藤四郎、薬研通藤四郎、足利飯塚藤四郎、大阪長銘正宗、江戸長銘正宗、八幡正宗、横雲正宗、大内正宗、弐 筋樋正宗、黒田正宗、対馬正宗、紀伊国片桐正宗、江雪正宗、秋田石井正宗、石野正宗、笹作正宗、蒲生正宗、上リ下リ竜正宗、若江十河正宗、伏見正宗、三好 江、上杉江、桝屋江、上野江、肥後熊本紀伊江、蜂屋江、大江、常陸江、甲斐江、三好江、西方江、切刃貞宗、獅子貞宗、安宅貞宗、海老名貞宗、小尻通新藤五 国光、安宅志津、善鬼国綱、大国綱、村雲久国、岐阜国吉、太子屋国吉、大国吉、ヌケ国吉、義元左文字、伊勢左文字、北野紀新太夫行平、秋田行平、注連丸行 平、地蔵行平、本多行平、御髪行平、不動国行、小国行、秋田国行、青木来国次、三斎来国次、戸川来国次、秋田則重、増田則重、実休光忠、青屋長光、縄切筑 紫正宗』

 江戸時代、『吉光』、『正宗』、『郷』を『三作』と称していて、公儀本に記載されている二三四振の内、吉光が二十三振、正宗五十六振、郷義弘が二十二振 とその持て栄しぶりがよくわかる。しかし、中には名物と呼ぶには相応しくないものが、少なからず混じっているようである。また、公儀本は享保四年当時のもので、調べ方が稚拙だったためか『焼失之部』に記載のうち幾振かは現存するそうだ。例えば、『不動国行』と『一期一振藤四郎』が『日本名刀100選』で紹介されている。
 信長の愛刀だった『不動国行』は本能寺の変の際、安土城にあり、これを明智左馬介が分捕った。しかし坂本城が落城するとき、『二字国俊』の刀、『薬研藤 四郎』の小脇差、その他茶入れや釜などの名品と一緒に肩衣に包み、天守から投げ下ろして堀久太郎に託し、自らは自害したという。こうして秀俊の英断により、せっかく国行の太刀は焼失の愁いを逃れたのだが、上出『明暦の大火』で焼けてしまったというのだ。せめてもの救いは信国重包によって再刃され、未だ現 存するといことだ。
 今一つ、短刀の上手な吉光の唯一の太刀と云っていい、『一期一振藤四郎』は大阪落城で焼けてしまった。これも焼失は免れ康継が再刃したが、『光徳絵図』にある焼ける前と比べると、殆ど別物の様だという。秀吉が約23センチも刷上げてしまったというのも、少々残念だ。

 その他、関東大震災や世界大戦で失われた刀剣も数多いことだろう。そのことを思うと胸が痛くなる。


 『二荒山神社宝物館』にも是非寄りたかったのだが、時間の都合で今回は断念。

2009年3月20日金曜日

舞草神社探訪 其之二 (後半)

 前半に引き続き、残りの遺跡巡り。


 儛草神社から戻り始めてすぐ、右手(南側)に『舞草小戸山遺跡』の標を見つける。参道よりやや低くて目立たない所に有り、危うく見落とすところだった。



 ここからは『釘』、『鉄鏃』、『土器』などが発見されたそうだ。気になるのは『鍛冶伝承地周辺図』に『舞草小戸山遺跡』が載っておらず、代わりに『舞草鍛冶遺跡』が『土師・須恵器片出土地』となっていることだ。



 行きで探索を我慢した『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡(白山岳山頂周辺)』のポイントまで漸く戻ってきた。すぐ右(西)へ道があるが、先ずは左の『鉱山跡』へ行ってみる。



 人が普段通らないために植物が生い茂っているが、不思議と道だと認識出来る。少し進むと石碑を見つけたが、鍛冶とは無関係だった。



 更に行くと岩場に出たが、これといったものは見当たらない。木の枝をかき分け斜面を登ってみるが何も見つけられなかった。どうやらハズレだったようだ。 それどころか、道無き道を来たものだから、自分がどこを通ってきたかわからなくなってしまった。兎に角、斜面を下りながら右へ右へと向かった。「ああ、 迷ったかも…」と不安に襲われたが、どうにか戻ることが出来た。大昔の修験者が山を進むのに、刀を必要としたというのを身をもって感じた。

 もう一ヶ所、人が通れる所を見つけ、何となく気になる。「迷ったらどうしよう」と少々不安を覚えながらも、先程の生還(大袈裟)で少々大胆になり、何の根拠もなく進んでみることにする。



 暫く進むと『舞草鍛冶遺跡』の標を発見!アタリである。参道脇に建つ『舞草鍛冶遺跡』の標は此処のことを指すのかもしれない。だとすれば此処から『羽 口』の一部と『鉄滓』が発見されたということになる。そうすると『鉱山跡』も他にあるということか…?地図では此処より南に白山岳鉱山跡が標されてい る。それにしてもここに立つ標識だけ古く細い。最初に発掘調査が行われた場所なのではないだろうか。





 最後は前の二ヶ所に比べると道らしい道と思える通りだ。途中、注連縄で結ばれている二本の杉が有り、少し先で道が二つに分かれている。多分、真直ぐ(西)行けばこのまま神社へ向かうか、東参道へ合流するのだろう。ここはもう一本の道へ進んでみる。



 しばらく行くと、また注連縄を見つける。ここには曾て『金鋳神像』が祀られていたようだ。



 一度道へ戻り、奥(東)へ続く道を進むと、また注連縄が。後には巨大な岩が聳える。はじめはここが何を祀っているのか見当もつかなかったが、地図にある 『鉱山跡』の場所と大体一致する。先程、難儀しながら見て廻った岩場が『鉱山跡』なのではなく、此処こそがそうなのかもしれない。



 来た道を慎重に引き返し、二本杉の通りへ戻り、西へ向かうと思った通り東参道に合流。

 

 全てを行き尽くしたわけではないし、不明な点も多々有るが、それでも一通り見て廻ることが出来たと思うので、そろそろ引き上げることにする。
 帰り道、表参道の入り口を見つける。前回、気付かないで通り過ぎていた。



 道は徐々に険しくなる。しばらくすると石段が現れるが、また消えてしまう。







 また階段があらわれ、道路を越えてると、先程引き返した道に続き、神社正面に辿り着く。この表参道の往復は半分の距離でも大変だった。本来はこちらの参道を登って神社へ至るのだろうが、現在では車で来られる東参道を利用しているのではないだろうか。



 時間に余裕があったので『一関市博物館』へ。現在は通常展示室と企画展示室は改装中のため見学出来ない状態だった。しかし、目当ての刀剣コーナーが生きていて本当に良 かった。もしそうでなかったら項垂れて帰っていたことだろう…。

・太刀 舞草 72.7 3.2

・太刀 友安 69.3 1.4
・薙刀 無銘(舞草) 66.8 3.1
・太刀 寶壽 70.1 2.4
・刀 無銘(月山) 66.5 1.7

・刀 奥州仙䑓住國包 75.5 1.2
・刀 一関士宗明作 元治元年八月吉日(ウラ)振此利刀鏖敵者誰多巻觀民 70.5 1.5
・脇指 陸中國宗明 45.3 0.9
・脇指 明弘 38.3 0.7

・太刀 行光 84.1 2.3
・刀 備州長船祐定(ウラ)天正二年八月日
・脇指 武蔵大掾藤原是一 45.2 0.9
・刀 備前介藤原宗次 文久四年二月日 71,1 1,2


 いつもは箸休め的にサラッとしか見ていなかった発掘物も、今日は遺跡を見て廻った後なので、とても興味深く見ることが出来た。『石像金鋳神像』が『金鋳神像跡』に祀られていた姿を想像してみる。

・釘(舞草小戸山遺跡)
・鉄鏃(舞草小戸山遺跡)
・羽口(舞草鍛冶遺跡)
・土器(舞草神社西遺跡・舞草小戸山遺跡)
・窯壁(伝古屋敷跡)
・鉄滓(舞草鍛冶遺跡)
・石像金鋳神像


 お彼岸のためか、館内の一部改装のためか、客は私の他に誰も居なかった。そのため、貸し切りような気分で刀に見入ることが出来た。発掘物同様、舞草刀も旧舞草山の刀鍛冶に思いを寄せながら、いつもと違った気分で見学できた。また、はじめて『二代国包』を見たとき、『初代』でないことにがっかりしたものだが、今日は敬意を払いながら改めて見直した。

舞草神社探訪 其之二 (前半)

 前回、場所を確認するに終わった『儛草神社』をもう一度目指す。

 今日は朝から近所の寺へ墓参りをしたので、遠出するには十分な時間が出来た。何処にしようか考えて浮かんだのは『儛草神社』だった。
 前回は『儛草神社』を目指すも散々迷い、挙句積雪のため参拝を断念せざるをえなかった。今日こそは是非参拝を果たしたい。


 前回は一関署前の交差点を右折したが、今回はもう一つ先の交差点を右折した。次は『何となく』一つ目の信号を左折、しばらく直進した後、道形(の様に思 えた丁字路)に沿って右に曲った。信号を越えると、前回迷走中に見た覚えのある道へ差掛かる。左側手には見覚えのある『水防倉庫』があり「これは行けるだ ろう」と確信。一本道(14号線)を直走り、信号で二股に分かれる道を右へ。前回の苦労が嘘のように、目印である石の道標を見つけ左折。


前回はよく見えなかったが、『延喜式内儛草神社参道』と標されている






 今回は二回目にもかかわらず、参道の入り口まで地図無しで到着することが出来た。前回、舞川周辺を車でグルグル回ったことで、多少は道に慣れたかもしれな い。だとすればあの迷走も無駄ではなかったようだ。この道を上るとすぐ近くに駐車場があって、そこからは徒歩なのだろうと思っていたが、さらに先まで車で 進むことが出来た。







 少し進むと、最初の案内が。南斜面の下に屋敷跡があるのかと思ったが、そうではないようだ。残念。



『伝古屋敷跡(安永風土記)』『昔、舞草と言う鍛冶の住居と伝える』




 ここまでは舗装された道路だったので、何の苦もなく進めたが分岐点、分岐点の案内を境に勾配のきつい砂利道となる。道は轍が出来ているが、石や木の枝な どが落ちており凸凹で、タイヤのパンクが怖いので恐る恐る進んだ。しかし、案内にあったように1.5㎞のこの山道を徒歩で行くのはしんどい。





 ようやく砂利道を抜けると、横道と交わる交叉点に出た。この先も車で進めるようだが、『←儛草神社参道』の道標をみつけ、何だか参道を車で行くのは悪い気がして、ここからは車を置いて歩いて行くことにする。





 道はそれほど険しくなく、散歩気分で普通に進むことができた。ただ、車内は暑いくらいだったのに、外は肌寒かった。道の他は見渡す限りの杉林。道脇には折れた杉の木が無造作に倒れている。




 道の途中、左手に『舞草鍛冶遺跡』と『鉱山跡』の標を見つける。直ぐにでも見に行きたいところだが、ここはグッと堪えて参道に戻る。




 今度は右手の北斜面のかなり高い所に『舞草鍛冶遺跡 あじさい東参道』の標を見つける。左の杉林をふと見ると、靄のようなものがかかっていた。よく見てみると、薄ら黄色がかっている。あれは飛散した杉花粉なのだろうか。





 やっと目的地の『儛草神社』に到着。この『随身門』には『左神』と『右神』がそれぞれ両脇に居り、神社を守護している。




 本殿正面。この神社は勧請、遷座、合併が幾度か行われ、また三度の火災に見舞われている。現在の本殿は明治39年に落成、昭和12年に改築されたものだそうだ。




御神木の樹齢は如何ほどだろうか




 儛草神社 来歴

 養老 二年  羽場白山岳に白山妙利社勧請 祭神菊理姫命 陸奥県守多治見直人建立と伝える
 延暦十八年  吉祥山に馬頭観音勧請 坂上田村麻呂東夷征伐の折り祈願の為 吉祥山東城寺を建立する
 嘉祥 三年  慈覚大師東北巡陽の折り吉祥山に錫杖を止め多羅葉の木にて四尺二寸の聖観音像を彫刻安置すと伝う
 仁寿 二年  往時東山 舞草 小字穴の倉に鎮座する稲倉明神社舞草神に従五位下を授かる 
 延暦 五年  既に延喜式神名帳に登載の舞草神社である
 承平     白山社跡近くに金鋳神社跡がある 舞草安房以来二神を深く信仰してその守護により
        無双の名剣を代々約三百年間に亘り作り続けたと伝えている
 天正 二年  吉祥山東城寺野火の為に堂塔社炎上す
 文禄 元年  吉祥山一山の堂社宇僧坊同年三月十二日野火為炎上する
        神社直属の三枝称宜これを深く嘆き御霊を穴の倉に鎮座する稲倉神社に遷座して稲倉明神と称える
 寛永十九年  往時吉祥山は羽場村なるもお村直しの令により 羽場村の一部を合併して舞草村と相成る
 寛保 三年  御上より稲倉明神に舞草神社稲倉大明神の神号を賜る
 明治 二年  神仏混淆禁止令により吉祥山東城寺より聖観音像並びに仁王像を別当宅地内の大悲閣内に安置する
    四年  同村穴の倉鎮座の稲倉大明神より十月二十六日御霊を当観音堂地に遷座延喜式内舞草神社と称える
    九年  九月十七日舞草神社三問四面の堂 炎上 随身門を残し焼失する
  三十九年  舞草神社本殿拝 殿落成式
 大正 二年  同村川岸鎮座の熊野神社を合祀
 昭和十二年  本拝殿改築する
 
    祭神  伊邪那岐尊 白山姫神 稲倉魂命 熊野大神
    祭日  歳旦祭 四月十七日八月十七日
                    延喜式内舞草神社

 菊池山哉は『蝦夷とアイヌ』の中で儛草神社について、「『名跡志』にも、「山を白山嶽と称す、白山社地あって宮社なし、郷人云、この地古えの儛草の社地也、この地を去る西三町余、悲閣あり、又寺あり、大同年中田村麿呂東征之時所建、吉祥山東城寺と曰う。今は巳に廃れて、観音堂を余す。郷堂観音あるを知って、未だ嘗つて儛草神社あるを知らず」云々とある。按うに観音が若しも当初十一面観音ならばその儘白山神であり、儛草神社である。神社の祭神は恐らく白山神であったものであろう。然れば俘囚郡領の建立である」とふれている。




 『日本刀源流之一ツ鎌倉鍛冶之始祖 舞草古鍛冶発祥之地』。この碑を建立した『舞草刀研究会』の代表として、間宮光治先生の名も刻まれている。一般に鎌倉鍛冶は粟田口国綱、備前三郎国宗、福岡一文字の助真らが鎌倉に下向してから本格的に始まったと考えられているが、間宮先生は著書『鎌倉鍛冶 藻塩草』の中で、それ以前から鎌倉鍛冶は存在していたこと、そして鎌倉鍛冶と舞草鍛冶の関わりについてなどの研究を発表されている。



 神社から西に少し歩いた所に『舞草神社西遺跡』がある。ここから『土器』が発掘されたという。





 観音山から望む一関。昔、この山に住まった古鍛冶や修験者達も、ここからの風景を展望したのだろうか。
  







 もう一つの参道はがどのような道だろうか。下へ降りてみることにする。





 南に下る一本道がここで途切れ、東西に延びる道路を挟んでまた下へと続く。取り敢えずここで引返すことにする。





 もと来た道を戻る。参道は杉の葉や枝び敷き詰められた絨毯のようだ。





 神社に近づくと先ず『一の鳥居』が見えてくる。





 『一の鳥居』を潜り階段を上ると次は『二の鳥居』。『二の鳥居』は額束と注連縄があり、『一の鳥居』に比べると大分新しい。





 この正面参道と東参道の間にもう一本の道がある。ここを下った所に仁王像があるようだ。 




 道を下ると民家が一軒あり、その敷地内にお堂があった。残念ながらお堂の扉は閉ざされており、仁王像の姿を見ることは出来なかった。

 
 『一関市指定文化財 木造仁王像』の説明板(一関市教育委員会)より抜粋
 由緒
 現在の舞草神社の拝殿の位置には、かつて舞草観音堂(有悲閣)があり、現舞草神社随身門が仁王門として観音堂の守護神として安置されていたものである が、明治維新廃仏毀釈運動に起こり、別当千葉氏は自宅(小戸屋敷)の一隅に観音堂を建て本尊聖観音像と仁王像を移して祀り現在に至る。」


 『舞草山と仁王像』の説明板(一関市教育委員会)より抜粋
 この山は、古代は舞草山と言い、今は観音山と言う。山上の杉木立の中に舞草神社が鎮座し、仁寿二年従五位下を贈られ延喜式内社にも列している。かつては 延暦二十年坂上田村麻呂、東征のみぎり勧請したと言い伝えられる棄馬寺の観音と合祀して吉祥山東城寺と称した。又、修験道場になり、集まる修験者は二十四 院とも十八坊とも言った。(略)同寺には、一山守護のため舞草村民により文化八年八月、仁王門と共に仁王像が建立された。当時京都の修業先から帰った東磐 井郡大東町渋民出身の芦法眼祐覚の晩年の作で、像高約二・五米の寄木造である。明治元年神仏分離の令が布かれたため、同四年本尊の聖観音と仁王像は、ここ の別当宅地内に移され今日に至った。仁王像は昭和五十一年、一関市指定有形文化財になっている。」


 東参道沿いの遺跡も気になるので、神社をあとにすることにした。

 - 後半へ続く -

2009年2月15日日曜日

鹿島神宮

 今回は思い切って『鹿島神宮』へ行ってみることに。

 土曜の夕方、父に「明日、朝の6時半までに仙台駅へ送って欲しい」と頼まれる。そういえば、両親が東京へ出かけると云ってたっけ。起きられるか自信が無かったが、早起きすれば遠出が出来るし、父の車を借りればナビが使える。早速、何所へ行こうか幾つか候補を考え、その中から『日光東照宮』と迷ったあげく、『鹿島神宮』へ出かけることに決めた。『鹿島神宮宝物館』 には20口近くの刀剣が常設展示されているらしく、加えて武術の聖地に行ってみたいと思う気持ちが決め手だった。
 時間はかかるが、金がかからない下の道を行くことにし、ネットでルートを検索する。すると距離が290㎞、時間にして7時間超。一瞬たじろいでしまい、日光か山形に変更しようかとも考えたが、太平洋側を直走る簡単そうな道のりだったので肚を決める。

 そして今朝、両親を駅に送り届け、朝食を取りに一度帰宅する。その間考えたのだが、「慣れている自分の車が良いのでは」と思い立ち、結局ナビに頼ることは出来なくなった。食事の後、急いで大まかなルートを頭に入れ、いざ出発。
 先ず、国道4号線(仙台バイパス→奥州街道→岩沼バイパス)→6号線(陸前浜街道)をひたすら南下。朝早いので交通量は少ないが、殆ど一車線なので、遅い車が一台でもあるとスピードが出ない。単調な景色が暫く続いたが、福島に入ってから海が見えるようになり、途中海岸沿いの鳥居良い気分転換になった。
 中弛みの感が出てきた頃、いよいよ茨城に突入。水戸で51号線に乗らなければならないので、気を引き締める。気がつけば知らない地名、車は茨城ナンバー ばかりが目につく。ああ、他所に来たという実感が湧いてくる。『御先祖様万々歳!』を連想してしまう、海水浴場で有名な大洗を通り、漸く鹿島市内に入る。 あとちょっとだと安心していたところ、暴走族の集団と遭遇。十数台のグループと4~5回擦れ違う。東北ではこれだけの数をそれも昼間に見かけることは殆ど 全く無いのでドキドキしてしまった。やがて『鹿島サッカースタジアム』の横をを通り過ぎ、『鹿島神宮』への案内が目立ってくる。そして程なく到着。朝7時に出発し、着いたのは午後1時。


 昼食のことは頭に無く、早速本殿へお参りを済ませ、宝物館へ。

・直刀 金銅黒漆塗平文拵 (附)刀唐櫃 一合
・太刀 藤一貫齋政丞作(現代)
・脇指 長谷部國重
・刀 加州住田向藤原翥武(とびたけ) 嘉永五年八日吉日
・現代刀 堀井胤次作
・刀 武州下原住廣重 奉納廣重
・刀 筑前住源信國吉貞
・刀 肥前國住近江大掾藤原忠吉
・脇指 備州長船則光
・薙刀 無銘(富上家奉納)
・短刀 常州住綱吉作
・脇指 伊賀守藤原金道
・刀 総州佐倉士細川忠義
・現代刀 納鈴木家重代 渡辺繁平作
・刀 菊紋 信濃守藤原信吉
・脇指 渡辺繁平(現代)
・刀 大和守安定
・脇指 祐定作
・脇指 但馬守田原住藤原國重
・太刀 景安(初代水戸藩主徳川頼房公奉納)
・刀 金象嵌銘國俊
・直刀 常陸國岩間住 岡島正忠(現代)
・刀 無銘(伝了戒)
・太刀(小烏丸造) 荘司美濃介直胤
・刀 荘司次郎太郎藤原直勝精練
・太刀(飾太刀) 奉納 鹿島神宮御宝前

 一番の目玉は『金銅黒漆塗平文太刀』で、『韴霊剣』とも呼ばれ、俗に『直刀』とも。国宝の登録名称は『直刀・大刀拵』。何と全長が2.25㎝(七尺三寸 八分)もあり、拵を合わせると2.71㎝(八尺九寸四分)にもなる巨大な直刀。『刀身・拵・刀唐櫃』の三点セットでの国宝指定だそうである。刀身は切刃造 で角棟、鍛えは小板目。刃文は直刃、小湾たれごころに乱れる。『古代刀と鉄の科学(石井昌国・佐々木稔)』によると、「きわめて長大であるため、三折に緞 着されているといい、その接着部の上下には小疵が遺る。研師の小野光敬氏は、緞接された地鉄はおのおの相違するという。地肌は板目肌のようであるが、白研 ぎのため、その肌目はよく見えない。やはり拭い清めることが必要である。刃文は、七尺余りの大太刀にみごとな直刃があると示されているが、実はそうではな く、無焼刃である。この直刃は、研師が作った直刃である。したがって、現在はほとんど見えない。」とある。
 展示作中、最も好みだったのは『肥前國住近江大掾藤原忠吉』だった。『初代忠吉』でも『初、二代忠廣』でもないのだが、肥前刀を見たのは初めてだった し、姿が素晴しかった。四代忠吉は19の時、父である『三大忠吉』を亡くしその跡を継ぐ。父からも緞刀について学んでいただろうが、父の没後は祖父である 『二代忠廣』に教えを受けたそうで、その影響はかなり強いものと思われる。多分代打を任されたこともあっただろう。私は世間で評価の高い三代より二代の方 が好みなのだが、四代が父である三代から薫陶を受けていたら、作柄は違ったものになったであろうか。残念ながら、長命の割に四代の現存刀は数が少ないそう である。そういえば、私の他に父と息子の二人連れがいたのだが、父親の方が『肥前國住近江大掾藤原忠吉』をすっかり気に入ったようで、頻りに刀身の姿形を 褒めていた。その口ぶりから、あまり刀剣に詳しくないようだったが、「お父さん、趣味が合いますね」と心の中で思ってしまった。そのお父さんのセンスがい いのか、刀剣に関わりのない人々まで魅了する四代忠吉が素晴しいのか。

 その他、
・香木 沈香(ラオス産)
・悪路王の首と首桶
・鎧、胴丸、兜
・常陸国風土記
 などが展示されていた。香木は見事な大きさだが、温めないと香りが楽しめないので、ガラス越しではただの『木っ端』にしか見えない…。
 『悪路王の首』と『首桶』は本物を見られると思っていなかったので嬉しかった。『悪路王の首』は田村麻呂の口伝をもとに復元したものを、1664年に奥州の藤原満清が鹿島神宮に奉納したと伝わっているそうだ。もちろん写実的では無いし、幾分ディフォルメされている感があるが、実際見る者はそんな印象を受けたのかもしれない。
 胴丸は初代明珍家作で、在銘『大永六年丙戌八月吉日花押』。


 宝物館を出た後、『鹿園』、『奥宮』、『要石』、『御手洗池』などを見てまわる。境内は広く緑豊かで、聖域を散策しているせいか、何だか心身に良い効果 をもたらされるような気がしてくる。一通り見て歩くと時は既に3時半を過ぎていた。帰りの時間を考え、神社をあとにする。


 もうすぐ福島を抜けるという頃、ガソリンのエンプティ・ランプがオレンジ色に点滅しだした。どこかで給油しようと思いながらもチャンスが無く、結局給油 せずに家に辿り着いた。朝満タンだったのが、帰宅したときはランプが赤く点滅しており、ガス欠寸前。走行距離は約640㎞。長距離だからこれだけ燃費良く走られたようだ。

 結局、家に着いたのは10時半過ぎだった。ほとほと疲れていたが、遅い夕食を取り、旅の余韻に浸ることも出来ずに就寝。

 今回は塚原卜伝や新當流に因んだ場所を巡ることが出来なかったが、次回は是非訪れてみたいと思う。

2009年2月8日日曜日

舞草神社探訪 其之一

 本日は『儛草神社』の場所を確認しに行ってみることに。

 正午前に目が覚め、起き抜けに昼食を取る。
 何処かに行きたいけれど、時間が半端で遠出は出来ない。移動距離が片道三時間を越えてしまうと、見学のための時間が十分にとれない。そんな中、思いつい たのが『儛草神社』の場所を確認することだった。一関を訪れる度に「早く舞草神社へ行かねば」と思うのだが、一度も果たせずにいた。いつも『一関市博物館』の見学だけで、あっという間に帰りの時間になってしまうからだ。同じ理由で『平泉』にも行けないでいる。一関までだったら片道約二時間半なので、午後1時に出発すれば、3時半頃に到着できる。帰りの時間を逆算して、四時半頃まで神社の探索ができる。早々に神社を見つけられれば参拝や散策も出来そうだ。 実際はそう上手くいかないものだが…。

 早速、場所を確認して手書きの簡単な地図を作る。市内中心部は目印になるものが豊富だが、郡部はそれらが少ない。本当は神社のある観音山周辺こそ詳細に書かなければならないのだが、あまり時間に余裕が無いこともあり、神社周辺は『鍛冶伝承地周辺図』を参考にすることにした。 

 いつものように4号線を北上し、予定通り三時台に一関入りすることができた。博物館に行きたいところだが、グッと堪えて一関署の前で右折し、厳美渓とは 逆の東へ向かう。しばらくは手書きの地図を見ながら、信号と橋の数を頼りに進む。途中までは良かったのだが、北上川を越えた途端、急に迷いだしてしまった。ただでさ初めての道なのに、目印が少なく、加えて一面の雪景色のせいで、自分が何所を走っているのかよくわからない。しばらく走っていれば、そのうち神社か案内を見つけるのではないかと軽い気持ちでいたが、そう上手くはいかなかった。そんな調子で30分以上迷走していたが、雪かきしている男性を見つけ、道を尋ねることにした。そのお父さんが云うには、ここの先にバス停があり、そこを左に曲り、しばらく行った所にあるという。ただ、今日は雪が積もっているため、神社までは辿り着けないだろうと忠告された。私も始めからそのつもりだったので、「今日は場所を確認に来ただけなんです」と忠告に従うことを告げ、お礼を述べて車に乗り込んだ。
 一先ず教わったバス停を目指したが、目印が雪に埋もれて判然としない。どうやら通り過ぎたらしくまた引き返すハメになった。つもった雪がここまで邪魔するとは。戻る途中、石柱の立ったそれらしい丁字路を見つけた。それが何と標されているか確認もせず、取り敢えずその道を進んだ。半ば自棄になっていた。
 辺に注意を向けながらしばらく進むと、神社への入り口を示す『儛草神社東参道』の標示板を見つけることができた。その時の嬉しさと安堵感といったら…。


一関市教育委員会による『舞草鍛冶』の解説。今回、神社探索の参考にした『鍛冶伝承地周辺図』が横に載せられている。
 この上に神社があると思うとえも言われぬ気持ちになってくるが、先程のお父さんの言葉を思い出し、今回は諦めて大人しく帰ることにした。山道でスタックしては大変である。
 散々迷ったせいで、時刻は4時半を回っていた。今日は本当に神社の場所を確認して終わってしまった。もし雪が無くて上まで登られたとしても、夕暮れの中、短時間しか参拝することができなかっただろう。

 帰りは意外とすんなり4号線に乗ることができた。道すがら、当然のように奥州鍛冶への思いを馳せていた。

 ところで、道州制が導入されたら、東北地方は何州になるのだろう。やはり東北州なのだろうか?それではつまらないから、『奥州』の方が良いような気がする。「奥州仙台住」。うん、好い響きだ。しかし、岩手には奥州市がある…。田中義一内閣の時代(1927年)、全国を6つの州に分ける「州庁設置案」というのがあったそうで、その案の中で東北は『仙台州』だったそうだ。